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2010年9月 5日 (日)

大宰府、岩戸山古墳、柳川、能古島を訪ねて

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博多は今回で4回目になります。サザエさんを生んだ長谷川町子を輩出した百道浜の福岡市博物館・金印、福岡タワー、福岡ヤフードームは前回見ていました。天神・福岡県立美術館、大濠公園・福岡市美術館、(金印がみつかった?)志賀島、門司港・大正ロマン街(←生ビールがうまい)は前回までに訪れていました。今回は学会のついでではなく、九州王朝を求める旅に行ってきました。ちなみに大宰府は政治が行われた場所、太宰府は地名と覚えてください。

201009021628000 博多駅で新幹線を下車し、地下鉄で西鉄天神駅。超細麺の博多ラーメンは一蘭か一風堂が有名ですが、一風堂でおいしくいただきました。西鉄で大宰府駅到着。太宰府天満宮名物の梅ヶ枝餅(あんこ入りもち)を食べ、菅原道真が地下に眠っているといわれる天満宮を参拝しました。菅公歴史館、宝物殿を見学しました。宇多天皇にかわいがられた右大臣・菅原道真が宇多上皇・醍醐天皇の御世に、左大臣・藤原時平の陰謀で57歳の時、権帥(=ごんのそち、仮の帥)という罪人扱いで大宰府に左遷されました。59歳で死んで、遺体を牛車に乗せていたところ、天満宮の位置で牛が一歩も動かなくなりました。そこにご遺体を手厚く葬ったそうです。隣接している九州国立博物館を見学しましたが、かなり大きな建物で、いろんな時代のいろんな国の展示物満載で、1日目を終えました。

2010090310430002日目はレンタカーで、九州王朝が存在したとされる大宰府政庁跡に向かいました。すぐそこには朝鮮式山城であった大野城を見て感動しました。蘇我入鹿の首が斬られ天皇が暮らした内裏、条里制、律令制を備えた近代的な都でしたが、奈良に平城京ができたのちは、平城京より規模を小さく再建されました。大宰府展示館で、館長の簡単な説明を受けました。上級官僚の夕飯は近くの川で取れたアユ、鹿肉の酢の物、干物なのに、下級官僚の夕飯はご飯、ひじき、キノコと海苔の汁物だけ。菅原道真は軟禁状態で下級官僚の夕飯を食べていたようです。最高長官であった帥(そち)で従3位。あとは正5位以下の身分で、大宰主神(祭祀)にいたっては正7位と身分が低かったそうです。元寇のとき活躍した少弐氏は、もともと武蔵国出身・藤原氏末裔の武藤氏で、大宰少弐(従5位)に着任したとき少弐氏と改姓しました。その後、佐賀に落ち延びたようで、その子孫は福岡県に帰っておられるようです。大弐、少弐の「弐」とは「second(第二の)」という意味ではなく、「accessory(副)」という意味で、張り出し役職に付けられた身分名だそうです。

201009031013000博士が教鞭をとった学校院を横目に少し歩いて、観世音寺を見学しました。後世、東大寺と延暦寺が観世音寺の荘園を狙って相争い、東大寺の末寺になりました。奈良斑鳩・法隆寺はこの観世音寺の塔を大宰府から奈良に移したものだという説があるようです。大和の寸法とは異なった大宰府の寸法で材木が切られているという事実を根拠にしているようです。女高野山といわれる奈良・室生寺の観音菩薩像はかなり大きいのですが、それと同レベルの観音像など16体の仏像を見てきました。現存する日本最古698年鋳造の鐘といわれる梵鐘を見学しました。船旅の安全を願った観音信仰が起こって、建立されたそうです。

201009031219000_2筑紫君磐井が眠る岩戸山古墳、その祖父が眠る石人山古墳を参拝してきました。岩戸山古墳には平成天皇陛下ご夫婦も参拝しておられ、狭い境内に植樹されておられます。磐井は継体天皇の奇襲で殺され、新羅遠征を妨げた罪を着せられましたが、やはり九州をまとめた倭王として、今も輝いておられます。

201009031211002_2古墳の中には自由に入れ、石人像が数体並んで立っています。表情をみていますと、古代人の素朴な思いが伝わってきました。岩戸山歴史資料館には、多くの石人像が展示されていました。人や動物や家などの埴輪とは、明らかに違った文化がここにあったんだなぁと実感できました。白村江の敗戦で、唐の進駐軍に切られたり、移動されたりしたことは残念です。

201009031242000広川町古墳公園資料館には、九州王朝独特な埋葬法として、甕棺が展示されていました。二つの甕をあわせてふさぎ、少し斜めに頭を上げて埋葬しています。石人山古墳(せきじんさんこふん)は福岡県郊外の八女市にあり、たくさんの八女古墳群の中のひとつにすぎません。磐井の祖父は倭王武(獲加多支鹵大王、ワカタケル)で、石人山古墳が倭王武の墓かもしれません。

201009031247000少し山頂にのぼれば、磐井の祖父の石棺を直接拝んできました。石棺は家の形をしており、その前には被葬者を守護する武装石人も立っていました。蚊がまとわりついて、追っ払うのに大変でした。大名、田中吉政が築城した際、石人、石馬を運び出して、石垣の下積みに利用してしまったのも残念です。今回は行けませんでしたが、鶴見山古墳は、磐井の子、葛子(くずこ)の墓ではないかと考えられています。

20100903140000050分ほど車でいけば柳川に到着。柳川は柳川藩城下町で、柳川城は堀をめぐらせた平城(ひらじろ)でした。下百町乗下船場から友人と二人だけで船に乗りました。柳の枝が川面に垂れ、ミドリガメ、どんこ(少し大きなムツゴロウ)、シギを至近距離で見ました。

201009031503000御花で下船し、御花松濤園を見学しました。これは関ヶ原西軍だった立花宗茂の御殿ですが、東軍の田中吉政に取られました。しかし、田中吉政に男子がなく、立花氏が返り咲きました。御花松濤園は仙台松島を模倣した日本庭園で見事でした。

201009031518000柳川名物、うなぎのせいろ蒸しを老舗・若松屋でいただきましたが、うなぎは生臭くなく山椒も不要です。柳川は昔から教育熱が高く、有名人として、檀ふみの父にして放浪作家・檀一雄と、ビートルズ・ジョンレノンの妻オノヨーコの実家が隣接しているそうです。

201009041252000最後の3日目は能古島(のこのしま)に、片道10分、1時間1本の福岡市フェリーで行ってきました。国造り神話では、国として未完成だったオノコロ島は淡路島のことだと考えられていますが、能古島じゃないのかという九州王朝説があるようです。古くは能許島、中世から残島とも呼ばれていました。能古島サイダーとみかん味のノコリータを賞味。私はサイダーのほうがおいしいと思いました。江戸時代初期、佐賀・有田焼の陶工が能古島に漂着して有田焼を焼いていましたが、佐賀藩との衝突を嫌った福岡藩大名・黒田氏が、焼き場を破壊したそうです。

君が代 雅楽バージョン

国歌・君が代は、九州王朝の倭王(のちに中国から独立して天皇)を賛美する歌といわれています。

http://www.youtube.com/watch?v=Q7YkUmIJW4Q

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