平城京を舞台にした政争
聖武天皇には光明皇后と、県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の2人の妻がいました。光明皇后の長男は若くして死に、阿倍内親王(孝謙天皇・称徳天皇)が藤原氏の血を受けた一粒種でした。県犬養広刀自には3人のこどもがいて、長女が井上内親王(いがみないしんのう)、次女が不破内親王、弟の長男が安積親王(あさかしんのう)でした。藤原仲麻呂の陰謀で、井上内親王が伊勢神宮の斎宮として処女未婚生活を強いられて、解放されたときはすでに30歳半ば過ぎのおばちゃんでした。井上内親王をめとってくれと聖武上皇にせがまれて、しぶしぶ引き受けた白壁王(のちの光仁天皇)。形だけのこどもは作って、他戸親王(おさべしんのう)と呼ばれましたが、愛情はもうひとりの渡来系妻、高野新笠(たかのにいかさ)にあり、山部王(やまべおう、のちの桓武天皇)、弟の早良王(さわらおう)、能登、酒人(さかひと)といった4人のこどもがいました。
後継ぎのいなかった武烈大王が後継者として考えていたのは、百済武寧王の王子・斯我君(しがのきみ=淳陀王子じゅんだおうじ)でした。厩戸皇子も尊敬していた人物です。大伴金村などの策で、継体大王に阻まれましたが、その淳陀王子が帰化して、「和(やまと)」という氏名を名乗ることが許され、その子孫、和乙継(やまとのおとつぐ)の娘が高野新笠でした。
橘奈良麻呂の乱、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で、井上内親王の弟・安積親王、不破内親王の夫・塩焼王、塩焼王の兄であった道祖王(ふなどおう)が殺され、井上内親王の、孝謙・称徳女帝に対する恨みが募る一方でした。まして道鏡なんぞに入れあげる始末で、世が世なれば自分こそ天皇にふさわしいと考えても当然でした。
河内のおっさんが法王にまでのぼりつめた道鏡、その弟で太宰帥にのぼりつめた弓削浄人、太宰主神の習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)が結託して、「道鏡を天皇にせよ。」と宇佐八幡宮の神託があったと称徳天皇に上奏。これを阻んだ白壁王(光仁天皇)と土師古人(はじのふるひと)と大中臣清麻呂(おおなかとみのきよまろ)のトリオ、藤原百川と山部王(桓武天皇)のペア。
本当かどうか確かめさせるべく、称徳天皇は腹心の友、法華寺尼僧・法均尼(ほうきんに)に命じましたが、法均尼は辞退して、弟の和気清麻呂に行かせることとしました。神護景雲3年(769年)、和気清麻呂が向かったのは、宇佐神社の上宮でも下宮でもなく、大尾神社でした。そこで受けた「道鏡、奸臣なり。」という神託を称徳天皇に上奏。大激怒した称徳天皇は、和気清麻呂を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と蔑称し、法均尼(和気広虫)を還俗させ(仏道から俗世間へ帰還させ)、「別部狭虫(わけべのさむし)」と蔑称しました。770年、称徳天皇が死ぬと、左大臣・藤原永手と右大臣・吉備真備が軍事統帥権を掌握。天武系の文屋浄三(ふんやのきよみ)を推薦した吉備真備が折れて、藤原氏が推薦した天智系の白壁王が即位し、62歳で光仁天皇となりました。
式家の藤原永手は他戸皇子を、京家の藤原浜成は稗田親王(光仁と尾張女王のあいだの子)を、北家の藤原良嗣・百川兄弟は山部皇子を支持していましたが、772年、井上皇后は廃后、他戸皇子は廃太子され、奈良県宇智に幽閉されました。775年母子ともに処刑されました。781年、光仁天皇が崩御し、山部親王が即位して桓武天皇となりました。782年、井上皇后の妹・不破内親王と、その子・氷上川継(ひがみのかわつぐ)が、亡き井上皇后母子の仇を討つべく桓武天皇暗殺計画を企て、流罪となりました。784年、長岡京遷都。785年、式家の藤原種継が桓武の弟の早良親王(さわらしんのう)に暗殺され、その罪で早良親王は廃太子され、処刑されました。
「平城京時代の人びとと政争」 木本好信 著 つばら選書
http://tkmiyakoji2002.web.officelive.com/default.aspx
名著が絶版になっていましたので、あきらめていましたところ、木本先生が自費出版(1,200円)されているようです。ラッキー!さっそく購入してみます。藤原氏と石上氏(=物部氏)の関わりを考察されているようで、大変楽しみです。奈良在住の方にはおすすめのテーマだと思います。
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