
「牽牛子塚(けごしづか)古墳が斉明天皇陵と断定!」なんていうニュースが最近流れていますが、文書が古墳から出てくるか、DNA判定でもしない限り、断言はできないはずですよね。そもそも斉明天皇は白村江の戦い直前に、大宰府の朝倉の宮で急死しています。殯(もがり)にして九州大宰府から奈良飛鳥まで遺体を運んできたのかな?淡路島に流された淳仁天皇は廃帝されたので、淡路島にひとりさびしく眠っています。九州王朝説によれば、この墓が大和朝廷派だった皇極天皇の墓であってもいいはず。さらなる調査を楽しみに待ちたいと思います。
さてさて天武天皇の子供は、とてもたくさんいます。こういう人物を、旧制高校では「ホルモンタンク」と呼んでいました。有名どころでは・・・
天智天皇の娘との間に、草壁皇子と大津皇子と舎人(とねり)親王。草壁皇子のこどもは文武(もんむ)・元正(げんしょう)天皇で、孫が聖武(しょうむ)天皇。大津皇子は暗殺され、祟りを恐れられて二上山に祭られています。舎人親王のこどもは、これまたたくさんいます。代表は、大炊王(のちの淳仁天皇)、池田王、三原王です。三原王の子供が、称徳に謀反した和気王。
藤原氏の娘との間に、新田部(にいたべ)親王。こどもは道祖(ふなど)王と塩焼王。
北九州・宗像氏(のちの戦国大名・尼子氏)の娘との間に、高市(たかち)皇子。こどもが長屋王で、孫が安宿(あすかべ)王と黄文(きぶみ)王。
藤原不比等の男子は、南家・武智麻呂(むちまろ)、北家・房前(ふささき)、式家・宇合(うまかい)、京家・麻呂(まろ)です。女子は、文武天皇に嫁いだ宮子、聖武天皇に嫁いだ光明子です。
南家・武智麻呂の子が豊成と仲麻呂。
北家・房前の子が永手と真楯。810年種継の娘・薬子の起こしたクーデターを平定した、北家の冬嗣が平安時代を席捲することになります。
宇合の子が(1)広嗣、(2)良嗣、(3)清成、(4)田麻呂、(5)綱手、(6)百川、(7)蔵下麻呂。物部氏末裔の石上麻呂(いそのかみのまろ)の娘・国盛が宇合に嫁いで、広嗣、良嗣を生みました。広嗣は大宰府で反乱を起こし、清成の子・種継が長岡京遷都で暗殺され、百川が山部王とともに平安京を築いたことはよく知られています。
麻呂の子が浜成。麻呂は長屋王の向かいに住んでおり、左京職に就いており、「長屋王が道教の呪詛を病死した基王にかけていた。」という密告を最初に受けました。
物部氏(石上に改姓)→式家に接近
蘇我氏(石川に改姓)→南家に接近
さて、聖武天皇の子供は、(1)井上内親王、(2)阿倍内親王、(3)基王、(4)安積(あさか)親王、(5)不破内親王とされていますが、どうやら石上豊庭の娘・鮪手(しいて)とのあいだに、さらに末っ子の(6)男子がいた模様で、仲麻呂の乱を平定してまもない政情不安定な時期に、聖武天皇の子供だと名乗り出て、称徳天皇によって流刑に処せられた男子がいました。
天武の血統を継ぐべしというのが、聖武天皇以来の家訓でした。草壁皇子派、舎人親王派、新田部親王派、高市皇子派が争っているうちはまだよかったのですが、称徳天皇の代にして、謀反人やら裏切り者が続出し、誰を信じてよいのかわからなくなりました。結局、光仁のとき天武の血統が途絶えてしまいます。
長屋王は不比等と組んで、律令の徹底と官僚の綱紀粛正を図りました。そのため政敵を増やし、藤原氏専制のきっかけを与えてしまいました。帝塚山大学・甲斐弓子先生の著された「平城京を歩く」淡交社に、長屋王の衝撃的な解説が書かれてあります。長屋王邸の木簡に、「犬米」、つまり犬に喰わせる米を税として持ってこさせたとか?すぐ回りでは飢餓している人々がいるというのに。いかんぜよ、長屋王。729年、南家・武智麻呂と式家・宇合が中心となって、長屋王を自殺に追い込みました。
長屋王派は、藤原房前、元正上皇、県犬養三千代、橘諸兄(葛城王)
反長屋王派は、藤原武智麻呂、藤原宇合、石川石足、大伴道足、多治比県守
757年、聖武上皇崩御。聖武の信任が厚かった橘諸兄・奈良麻呂父子でしたが、同じく757年、政敵・藤原仲麻呂が孝謙天皇を大炊王に譲位させ、淳仁天皇を擁立しました。さらに聖武天皇が後継ぎと見込んでいた道祖王を廃太子しました。そこで、橘奈良麻呂は、大伴氏、佐伯氏、多治比氏、小野東人、賀茂角足(かものつのたり)、地元の秦氏の軍事力を借りて、光明皇太后のもつ駅鈴・印璽を奪取、孝謙天皇を退位させ、淳仁天皇を暗殺し、藤原仲麻呂を暗殺するというクーデターを計画しました。酒宴を開いて、けっこう大っぴらに気炎をあげていたために、仲麻呂の知るところとなり、クーデターは失敗。道祖王、黄文王は処刑され、安宿王は流罪となりました。
760年、光明皇太后崩御。
762年、道鏡との蜜月を誡められた孝謙太上天皇(高野天皇)が淳仁天皇の帝権を奪取。しかし印璽と駅鈴は淳仁が所持しており、優勢を保っていました。
763年、藤原良嗣が、大伴家持(おおとものやかもち)、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)とともに仲麻呂暗殺を計画しましたが失敗。広嗣、良嗣と二人も謀反人を出した式家が、それでも平安の御世までその権勢を維持できたのは、ひとえに式家に嫁ぎ、光明皇太后の後宮に入り、減刑をとりなした石上国盛(いそのかみのくにもり)のおかげでした。
同年763年、中臣伊加麻呂(なかとみのいかまろ)・真助(ますけ)父子が仲麻呂を批判して、左遷・流罪に処せられました。仲麻呂をそばで支持していたのは、蘇我氏の石川年足(いしかわのとしたり)、紀飯麻呂(きのいいまろ)、仲石伴(なかのいわとも)、石川氏人(いしかわのうじひと)でした。
764年、仲麻呂が淳仁、塩焼王を擁立して反乱。吉備真備の戦略が成功し、淳仁を先制攻撃し、印璽・駅鈴を奪取し、藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ)、牡鹿嶋足(おじかのしまたり)、坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)、粟田道麻呂(あわたのみちまろ)といった武人を主力とした孝謙軍が仲麻呂・塩焼王を近江で殺害しました。淳仁天皇は廃帝され淡路島に流罪。孝謙太上天皇(高野天皇)が称徳天皇として即位。
764年、和気王が粟田道麻呂らと、称徳・道鏡暗殺を企てましたが、未遂に終わりました。
765年、監視をわざと甘くし逃亡を見逃し、淳仁を処刑。
769年、宇佐の神託の件で、死罪を恐れなかった和気清麻呂が失脚。
770年、称徳天皇崩御。道鏡を毛の国に左遷。天智系の白壁王が光仁天皇として即位。和気清麻呂は復権し重職に復帰。光仁と和気清麻呂は内通していたのか。
771年、井上皇后(いがみこうごう)を支持する橘氏、県犬養氏を排除。
772年、式家の藤原良嗣・百川兄弟の陰謀で、天武系の井上皇后(いがみこうごう)が廃后、他戸皇子(おさべのみこ)が廃太子。奈良県五條市宇智に幽閉され、775年ともに殺害される。
785年、藤原氏に対抗する大伴氏と、桓武の実子・安殿親王の立太子を阻止したい早良親王が組んで、秦氏と密着し権力を拡大した藤原種継を暗殺。
仏教僧侶は平民からでも自由になれた特権階級でした。ただ妻帯禁止のため、栄華は一代限り。末寺化といいまして、はぶりのいい寺院が、他のつぶれかけ寺院の経営していた荘園を併合して強大化し、別当任命権をめぐって、官僚と対立し、ご禁制の武器をもって、900年には大勢の僧兵を養っていました。これって、ヨーロッパでもありまして、教会の教皇・司教と国王・伯爵の利権争いも、教皇・司教側のハンディキャップ戦でした。
独眼流正宗
http://www.youtube.com/watch?v=99BTCPnUiNc&feature=related
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