« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2010年9月28日 (火)

再び陰陽師マイブーム!

安倍晴明抜きには平安を語れませんね。呪詛、物の怪、鬼、雷神、陰陽道などを、一概に水銀中毒で片付けてしまうのも問題があるでしょうね。

陰陽師に関してはいかがわしい書物も流通しているようで、安倍晴明研究会なる市民愛好家の本くらいが読むのに無難かもしれません。昔、狂言師の野村萬斎主演の映画「陰陽師」は前編、後編ともに映画館へ見に行きました。千葉仕込の真田広之氏、かわいい深キョンもよかったです。最近懐かしく感じてYoutubeで見ましたが、萬斎さんの腰の決まった舞はいいですね。

雷神・菅原道真の呪いを断ち切ってほしいと願う、藤原道長や村上天皇などから、大きな期待を安倍晴明は背負っていました。あのホルモンタンク、花山法皇もしかり。安倍氏は孝元天皇から分家した大和豪族で播磨(兵庫県)出身なんですね。晴明の母は、狐と比喩されていた住所不定の白拍子でした。相当の美人だったようで、お祭り、祝い事、曲水の宴などに呼ばれて、舞を舞っていたようです。応仁の乱で、京都にいた陰陽師は、晴明の播磨に移り住んだそうで、現在も、尾畑雁多(おばたかりんど)氏のような陰陽師が生きておられるようです。

|

2010年9月26日 (日)

AKB48奈良入り

アメブロのぞいてましたら、AKB48があの狭い奈良薬師寺に集合してコンサートをするという情報をキャッチしました。さぞ近鉄電車は混雑することでしょう。今年6月、AKB総選挙で多くの女子高生が大泣きしてたあたりから、注目し始めました。おニャン子クラブのとき以来、秋元マジックにまたまたトラップされてしまいました。

30年以上昔、灘高の勝山正躬(かつやままさみ)校長が寺の住職だったことで親交があった、高田光胤(たかだこういん)という薬師寺住職が灘高体育館まで講演に来られたことがあります。「広く広くもっと広く、般若心経の心なり。」という講演内容だったと記憶していますが、結構ざっくばらんで派手なパフォーマンスの高僧でした。薬師寺はやることがいつも派手ですね。

1位大島優子(ゆうこ)、逆転で1位に。ゲゲゲの鬼太郎役だったウェンツと熱愛報道。

2位前田敦子(あっちゃん)、龍馬伝で龍馬の兄の子役で出てますね。センターはあっちゃんがいいでしょう。

3位篠田麻里子(まりこさま)、23歳長身、福岡出身で宝塚歌劇団男役みたい。

4位板野友美(ともちん)、モデル出身でダントツ色気がありますね。

5位渡辺麻友(まゆゆ)、いかにも秋葉系って感じ。私はあまりよく知りません。

6位高橋みなみ(たかみな)、独立デビュー希望が強くて、元気で根性がありそう。

この辺までは、おじさんでも認識できています。

|

2010年9月23日 (木)

「殴り合う貴族たち」を読んで

「枕草子」、「源氏物語」、「蜻蛉日記」、「和泉式部日記」、「紫式部日記」、「大鏡」などで読んだ、ほのぼのした平安京での貴族生活なんて、これを読んだら吹っ飛びました。ネタ元は「小右記」という藤原実資(さねすけ)の暴露本です。雲上人に警察権は及ばなかったようです。身分の低いものは殺されても泣き寝入り。喧嘩の恨みが膨らんで集団リンチ。妻帯禁止のはずの高僧の娘を強姦しようとして、弟子の僧侶に邪魔されてしまい、友人の従者に応援を求めて、従者のひとりが僧侶の弟子に刺殺される破廉恥事件。石ころを門前を通過する牛車にめがけて投げつけるいたずら。雲上人同志の喧嘩は、都の人々の笑いの種でした。色好みの激しかった花山法皇にはたくさんの美女が集められ、その美女が生む子が住む邸宅も足りなくて、養女に出される始末。その養女を好色貴公子が狙って殺し野良犬に喰われる事件。虎の威を借る狐といいますが、従者同志の乱闘は多くの死者を出しました。従者たちは昼間っから酒を飲んで酔っ払い、ご禁制の賭博にふけっていました。火事と喧嘩は江戸の華。博打と喧嘩は平安京の華。こんな平安京には危なくって住みたくありませんね。

「打ち凌(りょう)ず」:一方的に殴ること。

「濫吹(らんすい)」:かなり汚い言葉で相手をののしりまくること。

「凌礫(りょうれき)」:一方的に相手を殴ったり蹴ったりすること。

「切り壊(こぼ)つ」:掠奪後、原型をとどめないくらい破壊すること。

「召し籠(こ)める」:拉致監禁すること。

「市を成す」:野次馬がたかること。

|

2010年9月22日 (水)

平安京のあけぼの

毛の国(栃木・群馬)、武の国(山梨・武蔵)、蝦夷(東北)といった国々は、倭の五王時代から、九州王朝と深い友好・同盟関係にあったと言われています。大和朝廷は、武内宿禰(たけうちのすくね)や継体つながりで、越の国(福井・金沢・冨山・新潟)、鹿島(千葉・茨城)、富士(静岡)、美濃(愛知・岐阜)、伊勢(三重)あたりは支配できていても、東国すべてを支配していたわけではありませんでした。天智は生粋の大和朝廷であり、天武は大和朝廷と九州王朝の混血と考えられています。とくに蝦夷は、縄文日本人・多賀城言霊国家の、日本語発祥の地に住む誇り高き末裔たち。780年、天武の血を継いでいない光仁が即位すると、蝦夷の反乱がはじまりました。外交面で失策が続いた光仁でしたが、内政面では、「官を省(はぶ)き役(えき)を息(やす)める」善政をおこないました。つまり、ただ飯を食っているだけの官職を廃止し、農民・庶民に課せられた兵役を免除し農耕に専念させました。兵役は、地方の有力農民にのみ課せられました。とはいえ、2度にわたる遷都の労役に狩りだされましたので、結局掛け声に終わりました。

701年、文武による大宝律令が発令されると、日本全国の土地と国民は天皇の所有物となりました。各農民に口分田を与えられても、男は兵隊にとられ、留守をあずかる女、こどもが田んぼを耕し納税しなければなりませんでした。あげくの果てに男衆は、都に働きに行ったっきり帰郷しないとか、大宰府に行ったきり帰ってこないとかで、せっかく開墾した田んぼが遊んでしまい、税収が不足し続けました。

781年、桓武が即位。軍隊を蝦夷討伐に派遣しても、戦意喪失した兵らは、武器を農具に変えて農耕し、軍の指揮官は都に早々と帰還してご褒美をせびりました。東国から多くの浮浪民を強制的に東北に入植させ、穏健派蝦夷との混血を図りましたが、ゲリラ戦法を仕掛ける蝦夷抵抗勢力にはまったく無効でした。794年平安建都の年、坂上苅田麻呂の子・坂上田村麻呂が征討軍を指揮しました。坂上氏(さかのうえし)は渡来系の東漢氏(やまとのあやし)の出であり、プロレス格闘技は高句麗発祥ですから、筋肉体質が遺伝していたのでしょう。幾度の敗戦にめげず、敵軍の一部を懐柔し、敵軍を分裂・対立させ、801年ついに胆沢城攻略に成功しました。802年、蝦夷首長アテルイとモレトが降伏しましたが、河内で斬刑に処せられました。

鬼、怨霊、呪詛、大量粛清といったマイナスイメージが強くて暗い時代でした。桓武も平城もかなり強い不安神経症を患っていたのでしょう。ライ麦に含まれるアルカロイド幻覚による魔女裁判、ローマ帝国で飲まれたワインによる鉛中毒なんかが有名ですが、金属中毒の症状なのかな?薬として飲まれたか、仏像鋳造に使われた水銀の中毒症状でしょう

朝廷から地方に派遣された国司は、土着豪族や農民を下に見ており、朝廷から出る給料以外に、赴任先から巻き上げた賄賂を得ていました。収率のいい田んぼを取り上げ、収率の悪い田んぼを農民に押し付け、朝廷から支給された稲を高利子で貸し付けました(←出挙すいこ)。味をしめた国司はなかなか辞めようとしませんでした。解由状(げゆじょう)とは確かに会計報告が合っていましたという書状で、新任国司から旧任国司に手渡されましたが、120日以内に解由状がもらえない場合は、朝廷からの給料支給が停止されました。797年、勘解由使(かげゆし)という令外官がつくられ、国司交替の監視に当たらせました。

806年、平城天皇は、参議と勘解由使を廃止し、観察使を設置しました。元参議クラスの中央官僚を観察使に任命し、国司の監視を強力にしました。809年、弟の嵯峨天皇に譲位して、平城上皇としてなって平城京にあった大中臣清麻呂の旧邸に移住しました。810年、嵯峨天皇は、北家の藤原園人を大納言に、北家の藤原冬嗣を蔵人頭に起用して、上皇を封じる策に出ました。観察使を廃して、参議を復活。そこで平城上皇は平城京遷都を発令。嵯峨天皇は坂上田村麻呂を遣わして、上皇軍を率いる式家の藤原仲成を討ち、薬子は自害し、上皇は出家しました。(←薬子の変)都の治安を警備する検非違使(けびいし)を設置。

|

2010年9月21日 (火)

「検証 平城京の政変と内乱」を読んで

平城京で起きた六つの大事件がなかなか詳しく書かれていて、奈良時代の初学者には最高のテキストですね。教科書の暗記でうんざりしている人にはもってこいです。読んでいてヘェーと思ったことをつらつら書いてみましょう。

(1)729年 長屋王の変

長屋王は、母親が宗像氏の出でやや卑しかったものの、天武天皇の草壁皇子の娘・吉備内親王と結婚したおかげで大出世をはたし、、藤原不比等の娘・長娥子(ながこ)を娶っていたわけで、藤原氏と敵対していたわけではありませんでした。女子の阿倍内親王が立太子するにあたり、次の天皇候補を決めずに女子を立太子するのはおかしいと、聖武天皇に直訴したところから、藤原氏との関係がおかしくなりました。

(2)740年 藤原広嗣の乱

737年、天然痘流行によって藤原4家が滅亡の危機にあるなか、人材不足のため橘諸兄が大抜擢され、さらには身分の低い玄昉や吉備真備が重用されたことにヤイた広嗣が大宰府で起こした乱。橘(たちばな)氏とは聖武や不比等の妻を出した県犬養(あがたのいぬかい)氏のこと。さんざん兵を集めておきながら、聖武天皇に謀反の意はございませんと、トボケたのには恐れ入りました。大仏建立の際、宇佐八幡からみこしが平城京にお祝いにやってきたことをはじめて知りました。道鏡がらみの宇佐の神託はここら辺からのおつきあいのようです。

(3)757年 橘奈良麻呂の変

聖武上皇は塩焼王に後をつがせるつもりでしたが、女性問題で失脚。無難なところでその兄・道祖王(ふなどおう)でいけと遺言を残されたにもかかわらず、道祖王自身が乗り気でなく、孝謙天皇によって廃太子されてしまいました。聖武上皇に誠実だった奈良麻呂はタテマエ論を振りかざしたために、仲麻呂に排除されてしまいました。

(4)764年 恵美押勝の乱

孝謙太上天皇(=高野天皇)の策にまんまとはまってしまった仲麻呂でしたが、妻子を伴っていたために険しくない道を選択してしまい、瀬田橋を焼かれて近江国府に入れませんでした。もし近江国府に入れていれば、越前・美濃からの応援部隊と合流できたし、形勢は逆転していました。道鏡以外だれも信じられなくなった称徳天皇は、和気王(わけのおおきみ)、淳仁天皇、氷上志計志麻呂(ひがみのしけしまろ)を次々と陥れました。

(5)769年 宇佐八幡神託事件

称徳天皇は僧侶ゆえにこどもを持てない平民・道鏡を暫定的に即位させ、後継は他戸王(おさべのおおきみ)にバトンタッチするつもりでした。吉備出身の和気清麻呂は、この点に疑念を抱いていました。770年、称徳の死に乗じて、他戸王への暫定措置として、白壁王が光仁天皇として即位しました。

(6)782年 氷上川継謀反事件

血統からみれば、桓武よりはるかにふさわしかった氷上川継。彼を支持する武人や官僚も数多く存在しました。他戸を抹殺した桓武は、目の上のタンコブであった川継を罪人扱いすることで、聖武の血統、もっといえば古代天皇家の血統に絶縁状を突きつけました。桓武で古代天皇家は断絶していると言えるでしょう。平安京とはなにか、深く突きつけられたテーマとなりました。

|

2010年9月19日 (日)

難波京、大阪歴史博物館を訪れて

201009191538000難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に行ってきました。孝徳天皇が太宰府の倭京から難波に遷都して造営した都です。天皇が暮らす内裏、詔を発する大極殿、官僚が朝礼する朝堂院が完備した立派な宮殿でした。686年、天武朝末期に火災で焼失しましたが、聖武天皇の命で、藤原宇合が744年、難波京を再建し、平城京から遷都しました。

大阪歴史博物館のレストランで、「かつハヤシ」という珍しい料理をランチしました。なかなかおいしかったです。店を出ると、ちょうど13時のボランティアによる地下遺跡の20分間見学ができました。建物の地下に、遺跡がそのまま保存されており、1時間おきにカビがこないように空気が入れ替えられているようです。昔ながらの井戸水もわいているそうで、これは年2回しか公開しないそうです。

201009191333000まずはエレベーターで10階に行き、孝徳天皇をしのびながら、ゆっくり見学。モニターにわかりやすい説明が流れ、当時の雰囲気が味わえました。左図は、大極殿に坐した天皇の顔を隠すためにはべっていた官女の復元模型です。孝徳朝は前期難波京、聖武朝は後期難波京と呼ばれています。前期難波京は官僚全員が日の出前の早朝から朝賀に参加していたので、後期難波京より広い朝堂院を備えていました。

201009191340000下の階にエスカレーターで下がっていくにつれ、時代が下っていき、とくに堂島・米市場の活気が味わえました。米手形も展示されており、デリヴァティブ(先物取引)を江戸時代の堂島ではすでに行われていました。米相場の情報が常に地方へ流されていました。

特別展では「水都大阪と淀川」が6階で開催しています。淀川の治水は結構早くから行われており、ボランティア会員が、江戸の利根川治水、新潟の信濃川治水、徳島の吉野川治水などと比較しながら解説してくれました。私は阪大小児科研修医時代、福島区の鷺洲に1年間住んでいました。鷺洲のど真ん中を淀川が流れていたことを知り、驚きました。

|

2010年9月14日 (火)

「平城京時代の人びとと政争」を読んで

201009141500000

「牽牛子塚(けごしづか)古墳が斉明天皇陵と断定!」なんていうニュースが最近流れていますが、文書が古墳から出てくるか、DNA判定でもしない限り、断言はできないはずですよね。そもそも斉明天皇は白村江の戦い直前に、大宰府の朝倉の宮で急死しています。殯(もがり)にして九州大宰府から奈良飛鳥まで遺体を運んできたのかな?淡路島に流された淳仁天皇は廃帝されたので、淡路島にひとりさびしく眠っています。九州王朝説によれば、この墓が大和朝廷派だった皇極天皇の墓であってもいいはず。さらなる調査を楽しみに待ちたいと思います。

さてさて天武天皇の子供は、とてもたくさんいます。こういう人物を、旧制高校では「ホルモンタンク」と呼んでいました。有名どころでは・・・

天智天皇の娘との間に、草壁皇子と大津皇子と舎人(とねり)親王。草壁皇子のこどもは文武(もんむ)・元正(げんしょう)天皇で、孫が聖武(しょうむ)天皇。大津皇子は暗殺され、祟りを恐れられて二上山に祭られています。舎人親王のこどもは、これまたたくさんいます。代表は、大炊王(のちの淳仁天皇)、池田王、三原王です。三原王の子供が、称徳に謀反した和気王。

藤原氏の娘との間に、新田部(にいたべ)親王。こどもは道祖(ふなど)王と塩焼王。

北九州・宗像氏(のちの戦国大名・尼子氏)の娘との間に、高市(たかち)皇子。こどもが長屋王で、孫が安宿(あすかべ)王と黄文(きぶみ)王。

藤原不比等の男子は、南家・武智麻呂(むちまろ)、北家・房前(ふささき)、式家・宇合(うまかい)、京家・麻呂(まろ)です。女子は、文武天皇に嫁いだ宮子、聖武天皇に嫁いだ光明子です。

南家・武智麻呂の子が豊成と仲麻呂。

北家・房前の子が永手と真楯。810年種継の娘・薬子の起こしたクーデターを平定した、北家の冬嗣が平安時代を席捲することになります。

宇合の子が(1)広嗣、(2)良嗣、(3)清成、(4)田麻呂、(5)綱手、(6)百川、(7)蔵下麻呂。物部氏末裔の石上麻呂(いそのかみのまろ)の娘・国盛が宇合に嫁いで、広嗣、良嗣を生みました。広嗣は大宰府で反乱を起こし、清成の子・種継が長岡京遷都で暗殺され、百川が山部王とともに平安京を築いたことはよく知られています。

麻呂の子が浜成。麻呂は長屋王の向かいに住んでおり、左京職に就いており、「長屋王が道教の呪詛を病死した基王にかけていた。」という密告を最初に受けました。

物部氏(石上に改姓)→式家に接近

蘇我氏(石川に改姓)→南家に接近

さて、聖武天皇の子供は、(1)井上内親王、(2)阿倍内親王、(3)基王、(4)安積(あさか)親王、(5)不破内親王とされていますが、どうやら石上豊庭の娘・鮪手(しいて)とのあいだに、さらに末っ子の(6)男子がいた模様で、仲麻呂の乱を平定してまもない政情不安定な時期に、聖武天皇の子供だと名乗り出て、称徳天皇によって流刑に処せられた男子がいました。

天武の血統を継ぐべしというのが、聖武天皇以来の家訓でした。草壁皇子派、舎人親王派、新田部親王派、高市皇子派が争っているうちはまだよかったのですが、称徳天皇の代にして、謀反人やら裏切り者が続出し、誰を信じてよいのかわからなくなりました。結局、光仁のとき天武の血統が途絶えてしまいます。

長屋王は不比等と組んで、律令の徹底と官僚の綱紀粛正を図りました。そのため政敵を増やし、藤原氏専制のきっかけを与えてしまいました。帝塚山大学・甲斐弓子先生の著された「平城京を歩く」淡交社に、長屋王の衝撃的な解説が書かれてあります。長屋王邸の木簡に、「犬米」、つまり犬に喰わせる米を税として持ってこさせたとか?すぐ回りでは飢餓している人々がいるというのに。いかんぜよ、長屋王。729年、南家・武智麻呂と式家・宇合が中心となって、長屋王を自殺に追い込みました。

長屋王派は、藤原房前、元正上皇、県犬養三千代、橘諸兄(葛城王)

反長屋王派は、藤原武智麻呂、藤原宇合、石川石足、大伴道足、多治比県守

757年、聖武上皇崩御。聖武の信任が厚かった橘諸兄・奈良麻呂父子でしたが、同じく757年、政敵・藤原仲麻呂が孝謙天皇を大炊王に譲位させ、淳仁天皇を擁立しました。さらに聖武天皇が後継ぎと見込んでいた道祖王を廃太子しました。そこで、橘奈良麻呂は、大伴氏、佐伯氏、多治比氏、小野東人、賀茂角足(かものつのたり)、地元の秦氏の軍事力を借りて、光明皇太后のもつ駅鈴・印璽を奪取、孝謙天皇を退位させ、淳仁天皇を暗殺し、藤原仲麻呂を暗殺するというクーデターを計画しました。酒宴を開いて、けっこう大っぴらに気炎をあげていたために、仲麻呂の知るところとなり、クーデターは失敗。道祖王、黄文王は処刑され、安宿王は流罪となりました。

760年、光明皇太后崩御。

762年、道鏡との蜜月を誡められた孝謙太上天皇(高野天皇)が淳仁天皇の帝権を奪取。しかし印璽と駅鈴は淳仁が所持しており、優勢を保っていました。

763年、藤原良嗣が、大伴家持(おおとものやかもち)、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)とともに仲麻呂暗殺を計画しましたが失敗。広嗣、良嗣と二人も謀反人を出した式家が、それでも平安の御世までその権勢を維持できたのは、ひとえに式家に嫁ぎ、光明皇太后の後宮に入り、減刑をとりなした石上国盛(いそのかみのくにもり)のおかげでした。

同年763年、中臣伊加麻呂(なかとみのいかまろ)・真助(ますけ)父子が仲麻呂を批判して、左遷・流罪に処せられました。仲麻呂をそばで支持していたのは、蘇我氏の石川年足(いしかわのとしたり)、紀飯麻呂(きのいいまろ)、仲石伴(なかのいわとも)、石川氏人(いしかわのうじひと)でした。

764年、仲麻呂が淳仁、塩焼王を擁立して反乱。吉備真備の戦略が成功し、淳仁を先制攻撃し、印璽・駅鈴を奪取し、藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ)、牡鹿嶋足(おじかのしまたり)、坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)、粟田道麻呂(あわたのみちまろ)といった武人を主力とした孝謙軍が仲麻呂・塩焼王を近江で殺害しました。淳仁天皇は廃帝され淡路島に流罪。孝謙太上天皇(高野天皇)が称徳天皇として即位。

764年、和気王が粟田道麻呂らと、称徳・道鏡暗殺を企てましたが、未遂に終わりました。

765年、監視をわざと甘くし逃亡を見逃し、淳仁を処刑。

769年、宇佐の神託の件で、死罪を恐れなかった和気清麻呂が失脚。

770年、称徳天皇崩御。道鏡を毛の国に左遷。天智系の白壁王が光仁天皇として即位。和気清麻呂は復権し重職に復帰。光仁と和気清麻呂は内通していたのか。

771年、井上皇后(いがみこうごう)を支持する橘氏、県犬養氏を排除。

772年、式家の藤原良嗣・百川兄弟の陰謀で、天武系の井上皇后(いがみこうごう)が廃后、他戸皇子(おさべのみこ)が廃太子。奈良県五條市宇智に幽閉され、775年ともに殺害される。

785年、藤原氏に対抗する大伴氏と、桓武の実子・安殿親王の立太子を阻止したい早良親王が組んで、秦氏と密着し権力を拡大した藤原種継を暗殺。

仏教僧侶は平民からでも自由になれた特権階級でした。ただ妻帯禁止のため、栄華は一代限り。末寺化といいまして、はぶりのいい寺院が、他のつぶれかけ寺院の経営していた荘園を併合して強大化し、別当任命権をめぐって、官僚と対立し、ご禁制の武器をもって、900年には大勢の僧兵を養っていました。これって、ヨーロッパでもありまして、教会の教皇・司教と国王・伯爵の利権争いも、教皇・司教側のハンディキャップ戦でした。

独眼流正宗 

http://www.youtube.com/watch?v=99BTCPnUiNc&feature=related

|

2010年9月12日 (日)

淡路島・伊弉諾神宮を訪れて

201009121343000 201009121347000 201009121352000

淡路島の一宮インターを下りて、淡路島の伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)・幽宮(かくりのみや)に嫁と参拝してきました。祭神は伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)のご夫婦で、夫婦円満のご利益があるそうです。お二人のこどもは、上から、蛭子姫(ひるこひめ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読(つくよみ)、素戔嗚(すさのお)の4人おられます。

201009121413000売店で「矛のしづく」という名水が売られていましたので、飲んでみました。なかなかおいしかったです。

かすみ姉妹 琴演奏「さくらさくら」

http://www.youtube.com/watch?v=p6hDzHIsWtU&feature=related

|

2010年9月 9日 (木)

平城京を舞台にした政争

聖武天皇には光明皇后と、県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の2人の妻がいました。光明皇后の長男は若くして死に、阿倍内親王(孝謙天皇・称徳天皇)が藤原氏の血を受けた一粒種でした。県犬養広刀自には3人のこどもがいて、長女が井上内親王(いがみないしんのう)、次女が不破内親王、弟の長男が安積親王(あさかしんのう)でした。藤原仲麻呂の陰謀で、井上内親王が伊勢神宮の斎宮として処女未婚生活を強いられて、解放されたときはすでに30歳半ば過ぎのおばちゃんでした。井上内親王をめとってくれと聖武上皇にせがまれて、しぶしぶ引き受けた白壁王(のちの光仁天皇)。形だけのこどもは作って、他戸親王(おさべしんのう)と呼ばれましたが、愛情はもうひとりの渡来系妻、高野新笠(たかのにいかさ)にあり、山部王(やまべおう、のちの桓武天皇)、弟の早良王(さわらおう)、能登、酒人(さかひと)といった4人のこどもがいました。

後継ぎのいなかった武烈大王が後継者として考えていたのは、百済武寧王の王子・斯我君(しがのきみ=淳陀王子じゅんだおうじ)でした。厩戸皇子も尊敬していた人物です。大伴金村などの策で、継体大王に阻まれましたが、その淳陀王子が帰化して、「和(やまと)」という氏名を名乗ることが許され、その子孫、和乙継(やまとのおとつぐ)の娘が高野新笠でした。

橘奈良麻呂の乱、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で、井上内親王の弟・安積親王、不破内親王の夫・塩焼王、塩焼王の兄であった道祖王(ふなどおう)が殺され、井上内親王の、孝謙・称徳女帝に対する恨みが募る一方でした。まして道鏡なんぞに入れあげる始末で、世が世なれば自分こそ天皇にふさわしいと考えても当然でした。

河内のおっさんが法王にまでのぼりつめた道鏡、その弟で太宰帥にのぼりつめた弓削浄人、太宰主神の習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)が結託して、「道鏡を天皇にせよ。」と宇佐八幡宮の神託があったと称徳天皇に上奏。これを阻んだ白壁王(光仁天皇)と土師古人(はじのふるひと)と大中臣清麻呂(おおなかとみのきよまろ)のトリオ、藤原百川と山部王(桓武天皇)のペア。

本当かどうか確かめさせるべく、称徳天皇は腹心の友、法華寺尼僧・法均尼(ほうきんに)に命じましたが、法均尼は辞退して、弟の和気清麻呂に行かせることとしました。神護景雲3年(769年)、和気清麻呂が向かったのは、宇佐神社の上宮でも下宮でもなく、大尾神社でした。そこで受けた「道鏡、奸臣なり。」という神託を称徳天皇に上奏。大激怒した称徳天皇は、和気清麻呂を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と蔑称し、法均尼(和気広虫)を還俗させ(仏道から俗世間へ帰還させ)、「別部狭虫(わけべのさむし)」と蔑称しました。770年、称徳天皇が死ぬと、左大臣・藤原永手と右大臣・吉備真備が軍事統帥権を掌握。天武系の文屋浄三(ふんやのきよみ)を推薦した吉備真備が折れて、藤原氏が推薦した天智系の白壁王が即位し、62歳で光仁天皇となりました。

式家の藤原永手は他戸皇子を、京家の藤原浜成は稗田親王(光仁と尾張女王のあいだの子)を、北家の藤原良嗣・百川兄弟は山部皇子を支持していましたが、772年、井上皇后は廃后、他戸皇子は廃太子され、奈良県宇智に幽閉されました。775年母子ともに処刑されました。781年、光仁天皇が崩御し、山部親王が即位して桓武天皇となりました。782年、井上皇后の妹・不破内親王と、その子・氷上川継(ひがみのかわつぐ)が、亡き井上皇后母子の仇を討つべく桓武天皇暗殺計画を企て、流罪となりました。784年、長岡京遷都。785年、式家の藤原種継が桓武の弟の早良親王(さわらしんのう)に暗殺され、その罪で早良親王は廃太子され、処刑されました。

「平城京時代の人びとと政争」 木本好信 著  つばら選書

http://tkmiyakoji2002.web.officelive.com/default.aspx

名著が絶版になっていましたので、あきらめていましたところ、木本先生が自費出版(1,200円)されているようです。ラッキー!さっそく購入してみます。藤原氏と石上氏(=物部氏)の関わりを考察されているようで、大変楽しみです。奈良在住の方にはおすすめのテーマだと思います。

 

|

2010年9月 5日 (日)

大宰府、岩戸山古墳、柳川、能古島を訪ねて

201009111033000 201009111034000

博多は今回で4回目になります。サザエさんを生んだ長谷川町子を輩出した百道浜の福岡市博物館・金印、福岡タワー、福岡ヤフードームは前回見ていました。天神・福岡県立美術館、大濠公園・福岡市美術館、(金印がみつかった?)志賀島、門司港・大正ロマン街(←生ビールがうまい)は前回までに訪れていました。今回は学会のついでではなく、九州王朝を求める旅に行ってきました。ちなみに大宰府は政治が行われた場所、太宰府は地名と覚えてください。

201009021628000 博多駅で新幹線を下車し、地下鉄で西鉄天神駅。超細麺の博多ラーメンは一蘭か一風堂が有名ですが、一風堂でおいしくいただきました。西鉄で大宰府駅到着。太宰府天満宮名物の梅ヶ枝餅(あんこ入りもち)を食べ、菅原道真が地下に眠っているといわれる天満宮を参拝しました。菅公歴史館、宝物殿を見学しました。宇多天皇にかわいがられた右大臣・菅原道真が宇多上皇・醍醐天皇の御世に、左大臣・藤原時平の陰謀で57歳の時、権帥(=ごんのそち、仮の帥)という罪人扱いで大宰府に左遷されました。59歳で死んで、遺体を牛車に乗せていたところ、天満宮の位置で牛が一歩も動かなくなりました。そこにご遺体を手厚く葬ったそうです。隣接している九州国立博物館を見学しましたが、かなり大きな建物で、いろんな時代のいろんな国の展示物満載で、1日目を終えました。

2010090310430002日目はレンタカーで、九州王朝が存在したとされる大宰府政庁跡に向かいました。すぐそこには朝鮮式山城であった大野城を見て感動しました。蘇我入鹿の首が斬られ天皇が暮らした内裏、条里制、律令制を備えた近代的な都でしたが、奈良に平城京ができたのちは、平城京より規模を小さく再建されました。大宰府展示館で、館長の簡単な説明を受けました。上級官僚の夕飯は近くの川で取れたアユ、鹿肉の酢の物、干物なのに、下級官僚の夕飯はご飯、ひじき、キノコと海苔の汁物だけ。菅原道真は軟禁状態で下級官僚の夕飯を食べていたようです。最高長官であった帥(そち)で従3位。あとは正5位以下の身分で、大宰主神(祭祀)にいたっては正7位と身分が低かったそうです。元寇のとき活躍した少弐氏は、もともと武蔵国出身・藤原氏末裔の武藤氏で、大宰少弐(従5位)に着任したとき少弐氏と改姓しました。その後、佐賀に落ち延びたようで、その子孫は福岡県に帰っておられるようです。大弐、少弐の「弐」とは「second(第二の)」という意味ではなく、「accessory(副)」という意味で、張り出し役職に付けられた身分名だそうです。

201009031013000博士が教鞭をとった学校院を横目に少し歩いて、観世音寺を見学しました。後世、東大寺と延暦寺が観世音寺の荘園を狙って相争い、東大寺の末寺になりました。奈良斑鳩・法隆寺はこの観世音寺の塔を大宰府から奈良に移したものだという説があるようです。大和の寸法とは異なった大宰府の寸法で材木が切られているという事実を根拠にしているようです。女高野山といわれる奈良・室生寺の観音菩薩像はかなり大きいのですが、それと同レベルの観音像など16体の仏像を見てきました。現存する日本最古698年鋳造の鐘といわれる梵鐘を見学しました。船旅の安全を願った観音信仰が起こって、建立されたそうです。

201009031219000_2筑紫君磐井が眠る岩戸山古墳、その祖父が眠る石人山古墳を参拝してきました。岩戸山古墳には平成天皇陛下ご夫婦も参拝しておられ、狭い境内に植樹されておられます。磐井は継体天皇の奇襲で殺され、新羅遠征を妨げた罪を着せられましたが、やはり九州をまとめた倭王として、今も輝いておられます。

201009031211002_2古墳の中には自由に入れ、石人像が数体並んで立っています。表情をみていますと、古代人の素朴な思いが伝わってきました。岩戸山歴史資料館には、多くの石人像が展示されていました。人や動物や家などの埴輪とは、明らかに違った文化がここにあったんだなぁと実感できました。白村江の敗戦で、唐の進駐軍に切られたり、移動されたりしたことは残念です。

201009031242000広川町古墳公園資料館には、九州王朝独特な埋葬法として、甕棺が展示されていました。二つの甕をあわせてふさぎ、少し斜めに頭を上げて埋葬しています。石人山古墳(せきじんさんこふん)は福岡県郊外の八女市にあり、たくさんの八女古墳群の中のひとつにすぎません。磐井の祖父は倭王武(獲加多支鹵大王、ワカタケル)で、石人山古墳が倭王武の墓かもしれません。

201009031247000少し山頂にのぼれば、磐井の祖父の石棺を直接拝んできました。石棺は家の形をしており、その前には被葬者を守護する武装石人も立っていました。蚊がまとわりついて、追っ払うのに大変でした。大名、田中吉政が築城した際、石人、石馬を運び出して、石垣の下積みに利用してしまったのも残念です。今回は行けませんでしたが、鶴見山古墳は、磐井の子、葛子(くずこ)の墓ではないかと考えられています。

20100903140000050分ほど車でいけば柳川に到着。柳川は柳川藩城下町で、柳川城は堀をめぐらせた平城(ひらじろ)でした。下百町乗下船場から友人と二人だけで船に乗りました。柳の枝が川面に垂れ、ミドリガメ、どんこ(少し大きなムツゴロウ)、シギを至近距離で見ました。

201009031503000御花で下船し、御花松濤園を見学しました。これは関ヶ原西軍だった立花宗茂の御殿ですが、東軍の田中吉政に取られました。しかし、田中吉政に男子がなく、立花氏が返り咲きました。御花松濤園は仙台松島を模倣した日本庭園で見事でした。

201009031518000柳川名物、うなぎのせいろ蒸しを老舗・若松屋でいただきましたが、うなぎは生臭くなく山椒も不要です。柳川は昔から教育熱が高く、有名人として、檀ふみの父にして放浪作家・檀一雄と、ビートルズ・ジョンレノンの妻オノヨーコの実家が隣接しているそうです。

201009041252000最後の3日目は能古島(のこのしま)に、片道10分、1時間1本の福岡市フェリーで行ってきました。国造り神話では、国として未完成だったオノコロ島は淡路島のことだと考えられていますが、能古島じゃないのかという九州王朝説があるようです。古くは能許島、中世から残島とも呼ばれていました。能古島サイダーとみかん味のノコリータを賞味。私はサイダーのほうがおいしいと思いました。江戸時代初期、佐賀・有田焼の陶工が能古島に漂着して有田焼を焼いていましたが、佐賀藩との衝突を嫌った福岡藩大名・黒田氏が、焼き場を破壊したそうです。

君が代 雅楽バージョン

国歌・君が代は、九州王朝の倭王(のちに中国から独立して天皇)を賛美する歌といわれています。

http://www.youtube.com/watch?v=Q7YkUmIJW4Q

|

« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »