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2010年8月30日 (月)

帝塚山大学・市民大学講座を見て

テレビ奈良で、「帝塚山大学・考古学研究所・市民大学講座」という番組が、午後1時ころ、放映されています。なかなか勉強になります。

律令制度の普及とともに灰色ざらざら肌地の須恵器が大量生産され、全国で使われ、10世紀につるつるの陶磁器にとってかわられた。須恵器で実際ごはんを食べてみると舌触りが悪くてまずい。つまり須恵器の存在は、律令制度が奈良を拠点にその地に浸透していたことを示す。

孝謙天皇が淳仁天皇に譲位して、高野天皇(たかののてんのう)と名乗って、法華寺にはいって出家された。高野天皇と淳仁天皇が不和になった。高野天皇は平城宮から法華寺にはいられ、淳仁天皇は中宮院にはいられた。淳仁天皇に馬鹿にされたことに怒って放った高野天皇の御言葉。「あんた(淳仁天皇)は小さいことやまつりごとだけやって、大きなことは私(高野天皇)に任せていればいいのよ。勘違いしないでね、私のほうがえらいのよ。」淳仁天皇を支持した恵美押勝(正1位)は鉄器の産地、滋賀県高島市を本拠地としたが、高野天皇に激怒した。高野天皇が少納言・山村王(やまむらのおおきみ)に鈴印を授けたのを妬んだ恵美押勝は、わが子・藤原訓儒麻呂(ふじわらのくずまろ)を遣わせて鈴印を奪った。怒った高野天皇は坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)に命じて藤原訓儒麻呂を殺した。恐れた恵美押勝は近江へ逃れ、天皇にならんとして764年に挙兵したが平定された。淳仁天皇は淡路に流され、天平神護元年(765年)、高野天皇は称徳天皇として重祚した。大臣禅師に道鏡、中納言(正3位)に白壁王(のちの光仁天皇)、従5位に山部王(のちの桓武天皇)、右大臣に南家の藤原豊成、参議に吉備真備が復権した。

称徳天皇の病気を治したことがきっかけに、道鏡と称徳天皇が蜜月になった。766年に道鏡が法王まで上り詰め、左大臣に北家の藤原永手、右大臣に吉備真備が命ぜられた。淡路島に流刑となっていた淳仁天皇は逃亡を図って、翌日殺された。道鏡は、和気清麻呂から宇佐八幡宮(=神功皇后の宮殿)の神託が下って失脚した。768年8月三河の国にめずらしい虹色の雲(彩雲)が現れ、神護景雲と改元した。珍しい雲が現れただけで、地方の民は天皇に上奏したのである。小さな塔の模型(様;よう)に印刷された陀羅尼(呪文のお経)を入れて拝まれた。770年称徳天皇崩御。聖武天皇・光明皇后の父母のありがたみを感じながら。

天皇という存在自体に大きく絶望した天武系であった称徳天皇が、自ら天皇の血筋を断絶させようとした。この緊急事態を救った黒幕は、天智系であった光仁天皇ではないか。60歳すぎて即位しており、冷酷にも妻・井上内親王(いがみないしんのう)とこども・他戸皇子(おさべのみこ)をともども暗殺し、天武系の血を永久に途絶えさせることに成功した。この頃の藤原氏には陰謀を計るような権力はなかった。光仁天皇の継嗣が桓武天皇である。

天平宝寺9年(765年)、西大寺が平城京右京に建立された。神護景雲初年(768年)、西大寺東塔に八角基壇が築かれた。「日本霊異記」に曰く、白壁天皇(光仁天皇)の御世に、藤原永手が、西大寺の七重塔を五重塔に減じ、法華寺の幢(はたほこ)を倒した。その子、藤原家頼が、父があの世で苦しんでいる夢を見て、仏道に帰依して父親を弔った。

元号は二つの漢字から成るのが慣わしだった。光明皇后が天平なんたらという四つの漢字から成る元号を命じたのである。

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