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2010年7月26日 (月)

中世日本史のおさらいから

倭の五王をみてわかるように中国南朝に封じ奴隷(=生口)貿易をし、中国北朝を正統と認めなかった九州王朝が指揮棒をふるって、南朝滅亡を契機に、皇帝・筑紫君磐井が日本天皇呼称、条里制、律令制を開始し、618年、北朝由来の唐建国を見下して、皇帝・多利思北狐が倭京と呼ばれる都を建設した。662年白村江の敗戦の後、唐の進駐軍を一掃した天武天皇が、九州王朝の都・大宰府を真似て藤原京を奈良盆地に694年遷都。九州からの技術系移民が近畿での都建設を支えていた。山上憶良の「貧窮問答歌」にあるように、豪華絢爛な都だった面影すらなく、唐の進駐軍による九州王朝粛清や、大和朝廷による焚書や証拠隠滅により、大宰府は焼失荒廃した。渡来系と思われる藤原氏一族が、秦氏、鴨氏といった渡来系豪族と協力して、710年平城京を遷都、794年平安京を建都し、実効支配していた。天皇や貴族の財源であった荘園を警護するために生じた武士団、とくに平氏、源氏が力をつけてきていた。935~941年、承平・天慶の乱平定の際、武士の力が証明された。また刀伊の入寇など、朝鮮半島からの度重なる侵略行為に対し武力を発揮した。(倭寇や文禄慶長の役が昨今強調されるが、朝鮮からの日本侵略も多かった。)藤原氏を外戚としない宇多天皇は菅原道真を重用したが、藤原氏の陰謀で大宰府に左遷された。醍醐・村上天皇以外、摂政・関白が藤原氏から出されていた。藤原道長をピークに、その子、頼道に天皇となるべき外孫が途絶え、1069年、後三条天皇が摂関家の財源を断つべく、荘園整理令を発令した。その後、天皇が摂関家のように実権を握るべく、白河・鳥羽・後白河上皇による院政がはじまる。1156年、保元の乱により後白河天皇が崇徳上皇を廃立。1159年、平治の乱により源氏が平清盛に敗北。1179年、後白河法皇が平氏打倒を企てた鹿ケ谷事件を、平清盛が平定。源平合戦を制した源頼朝が後白河の死を待って、1192年、鎌倉幕府設立。嫁の北条政子つながりで、北条氏が執権となり実権を掌握。和田氏など敵対勢力をひとつひとつシラミツブシ的に抹殺。1221年、承久の乱にて後鳥羽上皇らが北条義時追討令を発するも敗北。1232年、北条泰時が武士による貞永式目(御成敗式目)を制定。朝廷の公家法、荘園領主の本所法にとってかわることになった。1274年と1281年、元寇を北条時宗が撃退。やがて荘園群所有をめぐって、皇室が南北朝に分裂。恩賞を得られない不満御家人の援助で、南朝の後醍醐天皇が1333~1336年、建武の新政開始。念願の天皇による直接統治が実現化した。

律令制度が導入されたとき、全住民が戸籍登録された。地方を治めるために中央から派遣されたのが国司、土着の豪族は郡司となって国司の支配下に置かれた。しかし農民が仏僧になったり流民となって逃亡したりで、税の取立てがうまくいかず、公地公民制(=すべて天皇の所有地であり天皇の民である)を基調とする律令制が短命崩壊。743年墾田永年私財法により、自分で開墾した土地を私有することが認可され、貴族や寺社は地方農民を使って自墾地系荘園を開墾し、既墾地系荘園を買収した。律令制度下では私有が許されなかった口分田が郡司や有力農民によって私有化され、所有者の名前がついた名田と呼ばれた。国司の干渉から土地を守るために、貴族・寺社・摂関家・皇族に寄進し、一定の年貢を納めることで土地を実質的に安全に使用した。こうして貴族・寺社・摂関家・皇族に集められた広大な土地は寄進地系荘園となり、不輸不入権を有する自治を獲得した。いっぽう国司は自分の土地を私物化し、国衙領と呼ばれた。院政がはじまると、寺社建設に金がかかったため、上級貴族に支払うべき高額の俸禄の代わりに、一国の知行権を与え、知行国主とした。こうして公領は、院・知行国主・国司によって私物化された。鎌倉幕府が実権を握ると、徴税と治安維持の目的で、国衙領や荘園に地頭、知行国に守護が置かれた。荘園レベルでは朝廷任命の荘官と幕府任命の地頭が対立し、知行国レベルでは朝廷任命の国司・知行国主と幕府任命の守護が対立した。

平安後期の農村は、名主が下人を使って佃・正作を耕作させ、一部を小作人に請作させた。田畑を護衛してもらう代わりに、領主に対して、年貢(米)、公事(特産物)、夫役(労働力提供)をおさめた。鎌倉時代にはいると、鍛冶職人によって農耕器具が進歩し、牛馬の労力を利用し、牛糞(馬糞は肥料にならない!)や灰を肥料とし、二毛作がはじまった。手工業の専門職人が生まれ、月3度の三斎市が開かれるようになり、市と市を往来する行商人が生まれた。借上と呼ばれる金融業者、問丸と呼ばれる運送業者も生まれた。商工業者は農村から独立組織をつくれるくらい発達し、座と呼ばれた。寺社・公家の保護の下、座の中では関税の免除、専売特許などが得られたため、商工業者で大いににぎわった。

南北朝時代にはいると、武士の戦乱の世であり、村同士が協力し合って自衛する必要に迫られ、惣と呼ばれる自治組織が生まれ、寄合で村の規則を決定した。この惣の形成期に、名主の新旧交代が起きた。村の上層部には地侍と呼ばれた武装可能な農民がいて、農民が力をつけると、領主に対して、代官の罷免要求や減免税要求を突きつけるようになった。

室町時代にはいると、愁訴・強訴(=減免税要求)、逃散(=耕作義務放棄)、一揆(=領主や金持ちの屋敷に対する襲撃)、徳政一揆(=徳政令発布要求)、国一揆(=守護罷免要求)、一向一揆(=一向宗信徒による独立要求)が頻繁に起こるようになった。とくに1428年、正長の土一揆を皮切りに、各地で大規模な土一揆が生じた。人糞尿を肥料とするようになって耕作能率がアップ。漁業、鍛冶業、織物業、製塩業、酒造業、製紙業などの技術が進歩し、月6度の六斎市が開かれた。問丸からさらに高度な商いを営む問屋が生まれた。廻船、馬借、車借といった陸海上輸送業も進歩した。戦国時代には、寺社・公家が没落したため、座は新興手工業者を冷遇し、封建的傾向が強まったが、大名が座の特権を奪って、誰でも自由に新規営業できる楽市・楽座が生まれた。

1588年、豊臣秀吉が刀狩令を出し、士農工商の固定身分制度が確立した。江戸幕府開始時点での身分の上下関係がそのまま260年以上固定されることになった。(一部分の身分の売買は行われていたが。)身分が高いほど費用がかさみ、借金にあえいで、武士が商人に牛耳られていた。住所不定で持ち場のない人間は遊び人、役立たずとして虐げられ、蘭学者もそのひとりであったことは明記したい。明治新政府が徴兵した日本陸海軍の出現によって、江戸幕府が召抱えた職業軍人であった武士階級は必要とされなくなった。

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2010年7月23日 (金)

日本近現代史を読んで

駿台の野島博之氏、河合塾の石川晶康氏といえば、予備校界の双璧をなすカリスマ講師であられるようですね。私は大学入試で世界史、倫理社会しか選択していなかったので、日本通史の理解度に甘さを常日頃から感じていました。でもいいこともありまして、世界から日本を見る姿勢は身についています。私の大学受験時代には、学研の「まんが日本の歴史」が、日本史の流れをつかむのに最適とされていました。最近はもっといい本が出ているようですので、少しずつ読んでいきたいと思っています。

謎とき日本近現代史

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この本はいいですね。半日で読み終わりました。幕末・明治時代以降の近現代史に関する九つの問いに対し、丁寧な解説が書かれてあります。

第1問 日本はなぜ植民地にならなかったか

第2問 武士はなぜみずからの特権を放棄したか

第3問 明治憲法下の内閣はなぜ短命だったか

第4問 戦前の政党はなぜ急成長し転落したか

第5問 日本はなぜワシントン体制をうけいれたか

第6問 井上財政はなぜ「失敗」したか

第7問 関東軍はなぜ暴走したか

第8問 天皇はなぜ戦犯にならなかったか

第9問 高度経済成長はなぜ持続したか

どれも「目からウロコ」の解説が続きます。第1問は冷静に分析すればなるほどと納得できました。対馬をロシアが奪おうとしていて、イギリスが日本に独り立ちしてもらった方が、対ロシア対策にもなって得策と考えたからだそうです。第2問はまさに上からの改革のことですね。西南戦争などで多くの優秀な人材を失いました。第3問は考えてみたこともないテーマでした。内閣総理大臣なんて丸覚えの暗記しかやってませんでしたので。どうやって選ばれていたか、この書ではじめて知りました。第5問は前々から疑問に思っていました。第7問は、大東亜戦争の直接の敗因ですね。日蓮宗がからんでいたとは。親父が日本帝国海軍少年航空隊の軍人だったこともあって、第8問には特別の関心をもって、通読しました。

第9問に関して。昭和40年、いとこのヒラ月給が前年の3倍に膨れ上がった好景気とか、作曲家・山本義純氏のキャッチフレーズ「でっかいことはいいことだ。」とか、「光化学スモッグ発令」とか、「使い捨て時代」に小学生として生きていたこともあり、この時代はよく覚えています。古いものを修理して再利用するなんてナンセンスだ。どんどん捨ててどんどん買いなさいと、新聞テレビなどのマスコミは大宣伝をぶっていましたね。知らないとは言わせませんよ。いまは、エコ!温暖化!エコ!温暖化!の連呼ですね。真実なのでしょうか?自分で検証してみる必要があります。

戦前、「鬼畜米英」「神風カミカゼ」「撃ちてしやまん」「欲しがりません、勝つまでは」と節制と貴金属の無償提供を呼びかけた新聞が、天皇の玉音放送があったとたんに、「戦犯は誰だ?」と犯人探しをはじめました。捏造記事疑惑、中共報道規制疑惑も最近は散見します。「マスコミさん、お前さんだよ。」と私は言ってあげますね。

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2010年7月14日 (水)

ラストエンペラーの詠める歌

万葉集第1巻早々にいきなりラストエンペラーの有名な歌が登場します。九州王朝の皇帝親子の歌と解されます。物部氏が放つ弓の音はヤマトの大王を震え上がらせましたが、多利思北狐も同様に威厳があったようです。内野は大宰府周囲の地名。定説では、奈良県五條市宇智と解されていますが、原文は内野となっており、間違いです。定説では、天皇は舒明天皇のこととされています。

天皇(=多利思北狐・日出処の天子)、内野(うちの)に遊猟(みかり)したまふ時に、中皇命(ナカツスメラミコト)の間人連老(はしほとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまふ歌

やすみしし 我が大君の 朝(あした)には 取り撫でたまひ 夕(ゆうべ)には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり 朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり

おやすみになっていた我が大君(=多利思北狐)が、朝には手に取ってお撫でになり、夕べには傍に寄ってお立ちになった、ご愛用の梓の弓の中弭(=那珂産の弭)の音が聞こえる。朝狩りに今お立ちになっておられるらしい。夕狩りに今お立ちになっておられるらしい。ご愛用の梓の弓の中弭(=那珂産の弭)の音が聞こえる。

次の歌は、いまとなっては哀れを誘いますね。原文では紀温泉となっており、白浜温泉のことでしょう。ラストエンペラー中皇命は鏡王の娘であった額田王を連れて、博多大宰府を出発して、吉備、讃岐、伊予・道後温泉、淡路島、白浜温泉、伊勢と船にゆられてラブラブ旅行をしたようです。久しぶり、額田王が伊勢の実家に帰る船旅は最高でしたでしょう。敵対する九州王朝の中皇命と、大和朝廷の額田王。まさに日本版ロミオとジュリエットです。

白村江の戦いで夫を亡くしてしまい失意の額田王と大海人皇子の秘めたる恋もいいですけど。ともに伊勢にゆかりのおふたりです。

中皇命、紀(=和歌山県紀伊)の温泉に往す時の御歌

君が代も 我が代も知るや 磐代の 岡の草根を いざ結びてや

君(=額田王)の命も、私(=中皇命)の命も知っている、磐代の岡の草根よ。さあ、二人でこの草根を結びましょう。

万葉集って、ひとことで言えば、九州王朝への晩讃歌でしょう。柿本人麻呂も山上憶良も大伴家持も謎の死をとげてます。古事記、日本書紀を編纂した官僚たちに暗殺されたのでしょう。

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柿本人麻呂は聖武上皇と同一人物だとする説が有力視されています。そうだとすれば、政争激しい奈良大和を離れて、先祖代々住み慣れた九州博多を懐かしんで余生を送り、名前を抹殺された多くの詠み人知らずの歌を収集していたのかもしれません。

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2010年7月13日 (火)

”ラストエンペラー”中皇命(ナカツスメラミコト)

日本書紀がいかに史実や元号を改竄・捏造しても、蘇我氏につばを吐きかけ、九州王朝の存在を抹殺しようとしても、全国に散らばった鏡や剣や石碑に刻まれた金石文や、木簡に書かれた無数の墨字は消せません。元号を制定するには、国際関係に明るく、多くの漢籍に詳しい学者がいなければなりません。とても大和朝廷ではかなわない役目です。九州王朝の大宰府こそ、日本のアレキサンドリアだったことでしょう。九州王朝のファーストエンペラーは筑紫君磐井(ツクシノキミイワヰ)でした。教科書に出てくる中大兄皇子(ナカノオオエノオウジ)には実は、九州王朝の中皇命(ナカツスメラミコト)と、大和朝廷の葛城王(カツラギノミコ)の二人いるのではないかという説があります。中皇命は万葉集の中に登場しており、いったい誰なのか謎でしたが、実は九州王朝のラストエンペラーでした。第1巻はじめから、天皇(雄略?舒明?多利思北狐?)、中皇命、額田王、中大兄(=のちの天智天皇)という順で歌が並んではじまっています。最初は日本代表選手の歌であることは当然でしょう。つまり、中皇命と中大兄(=葛城王)は別人である可能性が濃厚でしょう。中皇命の母は宝皇女(のちの斉明天皇)で父は多利思北狐、葛城王の母は足姫(のちの皇極天皇)で父は舒明天皇ということになるでしょう。

中皇命は上宮王家の次男という意味で、上宮中大兄帝(ジョウグウナカノオオエノミカド)といってよく、九州王朝系の日本皇帝であった多利思北狐(タリシホコ)の子供で、日本書紀では中臣鎌足とともに乙巳の変で、蘇我入鹿を倭京(大宰府)で討った中大兄皇子のことだとする見方があるようです。血なまぐさいクーデターに嫌悪した、大和朝廷系の皇極天皇が退位し、異父兄弟であった九州王朝系の孝徳天皇が即位しました。孝徳天皇は、多利思北狐以上にワンマンな日本皇帝で、大和や東国はもちろんのこと大宰府周辺の豪族に対し専制的中央集権政治を敢行したため猛反発を買い、博多大宰府から大阪難波京まで遷都しました。ところが数年後、中皇命(のちの上宮中大兄帝)をはじめ、一度は同行した宮中の人々が倭京(大宰府)に帰るという事件が起こり、しぶしぶ都が難波から大宰府に戻されることになりました。大和に滞在していた斉明天皇は飛鳥の亀石で酒宴を開き、ほかの宮人も道後温泉などつかりながら、優雅に大宰府に帰京したようです。

九州王朝のラストエンペラー中皇命は、孝徳天皇亡き後、孝徳天皇の皇子であった有間皇子を殺し、母・斉明天皇の治世で実権をにぎり、百済の豊璋王子とともに、百済復興のために白村江の戦いに参戦しました。孝徳天皇の葬儀に中皇命と葛城王のふたりが出席していたようです。中皇命は取り巻きの九州豪族を厚遇し、九州のたくさんの豪族もそれに応えて白村江の戦いに参戦しましたが、唐に通じていた葛城王(のちの天智天皇)の裏切りで大和朝廷は参戦しませんでした。天智天皇はヤマトの民から非難軽蔑の目で見られたことでしょう。倭、百済の残党がともに唐・新羅連合軍に敗れ、九州王朝皇族、百済王族もろとも唐に連れ去られました。

白村江敗戦後、倭京(大宰府)に唐の役人が占領政策のため多数来日しました。唐のGHQ政策といっていいでしょう。ラストエンペラー中皇命という主を失った九州王朝は、厩戸皇子以来、唐と親しかった大和朝廷の出先機関に没落してしまいました。唐からみれば、百済や高句麗の後ろ盾であった俀国=九州王朝=日本を倒し、朝鮮半島に官吏を送り込めて植民化でき、軍船を持てず海外情報に疎くて弱い大和朝廷を手なづけることができたのですから、計画通りでした。大和朝廷と隋・唐を交易するよう促した厩戸皇子は、隋・唐のスパイではなかったのか?きっと白村江の戦いは唐の策略だったのでしょう。

九州王朝なきあと、大和朝廷の葛城王が天智天皇に即位し、滋賀近江に遷都しました。これは唐の傀儡政権といえるでしょう。こうなっては九州王朝派、大和朝廷派関係なく、唐に対し憤懣やるかたない豪族たちが、大海人皇子を押し立てて、壬申の乱というクーデターを決行する気持ちも納得できます。天武天皇と唐の関係が悪化し、天武朝の遣唐使派遣も中止されたようです。

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2010年7月 9日 (金)

中国から独立した皇帝

後漢が滅んで、魏・呉・蜀の三国鼎立時代となり、魏の臣下であった司馬氏が三国統一を果たし晋を建国。内部抗争のため、揚子江を隔てて、南北朝に分裂。南側に漢民族が逃れて東晋を建国。宋、斉、梁、陳の順に短命国家が続きました。北側には匈奴(トルコ系)、鮮卑(ツングース系)、チベット人が侵入して、短命国家が乱立する五胡十六国時代となりました。その中で北側統一を果たせた国は、三つあります。まず匈奴の後趙、次にチベット人の前秦、それから教科書に登場する鮮卑の北魏です。北魏の孝文帝は仏教を利用して鎮護国家を願い、雲崗・敦煌石窟寺院の大仏の顔を自分の顔に似せて作らせました。北魏は一時東西に分裂しますが、やがて隋(ツングース系)の文帝が陳を滅ぼして南北統一。2代目煬帝は、教科書的には聖徳太子と対立しましたね。ほどなく唐(ツングース系)に代わり、漢民族の国家は宋まで待たねばならないことになります。英雄チンギスハンを輩出したモンゴル人はやっと5世紀に柔然を建国できましたが、トルコ人(高車・突厥)やツングース人(遼)への服従が続きました。そんな絶大な中国の大混乱期に、独立宣言を果たしたor果たさんとした日朝の皇帝をみてみたいと思います。

Koukaidoouまずは高句麗の広開土王です。広開土王が登場する前、350年ころの高句麗の領土です。鮮卑の建てた前燕によってここまで圧迫を受けました。高句麗は前燕に臣下としてへりくだらざるを得ませんでした。やがて前燕は前秦に滅ぼされても状況は変わりませんでした。

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広開土王が登場して、20年あまりでここまで領土が拡大しました。驚くべきことです。百済、任那(伽耶)、新羅が圧迫されています。日本、少なくとも北九州にまったく影響がなかったと言うほうがどんなに不自然でしょう。九州王朝の倭王讃と対決していました。日本史・世界史の教科書にはこのふたつの図を掲載すべきです。

次は、「日出る処の天子」と煬帝に名乗ったことで有名な多利思北狐(タリシホコ)です。天子皇帝>上皇=法皇>天皇>聖王=天王>大王 といった上下関係でしょうか。皇帝は神ゆえに紫宸殿に住まわれるらしく、大宰府には紫宸殿が存在したそうです。筑紫の君、磐井は九州王朝の王でしたが、はじめて「日本天皇」と名乗ったようで、百済に使者を送りました。磐井がはじめて律令制度つまり法治国家をめざしたようです。そのころの九州王朝は中国から俀(たい)と呼ばれており、その当時、中国から倭と呼ばれた大和朝廷の継体大王によって打ち破られ、宗主権・改元権は九州王朝から大和朝廷に移りました。これは物部氏の支援があってこその勝利でした。しかし磐井の子孫である多利思北狐は蘇我氏と組んで、倭の宗主権・改元権をめぐって巻き返しを図りました。多利思北狐は「日出る処の天子」と名乗った親書を隋に送りつけ、日隋対等外交を暗に要求して、煬帝を怒らせてしまいました。日唐外交ですら不平等だったのに。隋から再三わびるよう要請されたため、俀から琉球にいたるまで、九州全域が隋と絶縁の方針をとりました。九州は大目に見られても琉球は隋の制裁軍に攻められました。あせった大和朝廷の推古大王(おおきみ)は数年後、隋に正式の使節を送って、わびを入れなければなりませんでした。その大和朝廷の外交を補佐したのが、誰あろう、九州王朝の厩戸皇子(聖徳太子)でした。

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2010年7月 7日 (水)

七夕は万葉集

七夕といえば万葉集ですね。あいにくの雨模様ですが、熱しやすく冷めやすい彦星と、熱しにくく冷めにくい織姫って、神代の昔からの「男と女のダバダバダー」ですね。天の川の波音は、織姫には彦星の漕ぎ出す船の音に聞こえ、再会のムードはいやがうえにも盛り上がっていきます。

牽牛の送歌

我が待ちし 秋は来りぬ 妹と我と 何事あれぞ 紐解かずあらむ

あがまちし あきはきたりぬ いもとあれと なにごとあれぞ ひもとかずあらむ

私が待ちに待った秋がついにやってきたぞ。あの子と私とは、どんな(月の)障りがあろうと、(あの子の)紐を解かずにはおかないぞ。

織女の返歌

逢はなくは 日長きものを 天の川隔ててまたや 我が恋ひ居らむ

あはなくは けながきものを あまのがは へだててまたや あがこひをらむ

お逢いできなかったのは長い長い日々でありましたのに、天の川を隔てて、また私は、君恋しさに明け暮れなければならないのですか?

万葉集の頃の七夕は旧暦です。今年2010年は8月16日に相当するそうです。秋風がそよ吹く季節の、年1回だけの再会です。最後に情熱的な一首、これが一番好きかな。

遠妻と 手枕交へて寝たる夜は 鶏がねな鳴き 明けば明けぬとも

とほづまと たまくらかへて ねたるよは とりがねななき あけばあけぬとも

いつも遠くに離れている妻と手枕を交わして、こうして寝ることのできた夜は、鶏よ、鳴きたたないでくれ。夜は明けてしまってもかまうものか。

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2010年7月 2日 (金)

上からの改革

関西テレビ、青山繁晴氏の演説には常日頃から感服することが多いのですが、教育論に関しまして、青山氏が語った映像をご紹介したいと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=NJpaAWE0XMY

「要約」

教育がいいのか悪いのかは、その輩出する人材をみればわかる。むずかしい教育理論をこねくり回しても結論は見えてこない。日本にも幕末・明治維新という青春期があった。とくに高杉晋作は帯刀という既得権益を持ちながら、武士以外に刀を譲り渡し、奇兵隊をつくり改革を成功させた。高杉は長州藩名家の出身でありながら、既得権益を放棄し自己改革をしたのだ。こんなことは世界に類を見ない。なぜそんなことができたのか?明治政府になって偉くなろうという気持ちがまったくなく、ただ国のためを思って働いたからだ。そんな高杉を生んだ教育とはなんであったか?それは江戸時代の教育ではないか。寺子屋にせよ藩校にせよ、年長から年少まで縦割りの教育であった。下は上を尊敬し、上は下をいつくしむ教育だ。そこから思いやりが生まれていた。そして教師がボランティアだったからこそ、立派な人物を生み出すことができたのだ。明治政府はそれを横割り、年齢別の教育法に変えてしまった。だから今般の教育改革の核は、いかに江戸時代の教育システムを取り戻すかである。

「日本人をつくった教育」 沖田行司 著 大巧社

日本人をつくった教育

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2010年7月 1日 (木)

6周年記念日に一計を案ず

今日で開業してまる6年になります。あっという間のできごとに思われます。医療制度は何度となく改定され、政界も激動しており、この先、医療保険制度はどうなるのか?年金制度はどうなるのか?景気はどうなるのか?日米安保はどうなるのか?中韓による領土侵犯問題はどうなるのか?さっぱり読めません。

アムステルダムのチューリップ

http://www.youtube.com/watch?v=tT65wUb1zJ8&feature=related

ここ数年、日本国の苦難をどう乗り切るか考えてまいりましたが、やっぱり公職に就く人材養成がすべてだと思います。「公職幹部養成学校」それに「師範学校」の復活が急務でしょう。まずこのふたつは国立であるべきです。公務員の養成は国税でまかなわれるべきでしょう。中高一貫教育で無駄なく、基礎知識の学習をおこないましょう。日本語を読み書きできて、自然現象を理解し、日本人がどんな歴史を歩み、外国にはどんな歴史のどんな思想を持ったどんな民族が暮らしているかぐらいは必修で知っておきましょう。

そのうえで、教師になろうと思うなら、師範学校でじっくり人材を養成することが必要です。教育実習の時間が少なすぎることは明白です。外交官、上級公務員、政治家、官僚、法曹界、経済界幹部、大学教授、病院長、警察幹部、自衛隊(→防衛軍)幹部といった公職につこうと思うなら、公職幹部養成学校を修了することを義務付けるべきでしょう。

マスコミ取材によっていくらでもスキャンダルがすっぱ抜かれる時代なのですから、私利私欲のための立身出世はもう通用する時代ではないことを悟るべきです。アメリカと私立大学関係者によって廃止された官立(=国立)旧制高等学校をモデルとし、文科、理科に分けて3~5年の課程にして、実習と試験をきびしくして留年制度を復活させるべきです。その代わり、行きたい大学へはどこでも無試験で行けるようにしましょう。入学試験から解放されたゆとりある学生生活を送り、全寮制を復活し、学生同士、あるいは教授も交えて切磋琢磨しましょう。

公職幹部養成学校に補習科を設けて、徹底した倫理教育をおこない、問題を起こした現職、たとえば金権汚職の政治家が公職に再びもどる意志がある限り、半年から数年間の講習を義務付けるのはいかがでしょうか?重罪人ほど僻地へ収容して、僻地の苦しみを体感させます。これが横井小楠が説いた「学と政の一致」の実現です。宗教界からも講師を招来しませんか?再びもどる意志がなければ民間に追放処分とし、もどる意志のある者には数十名の教授会の承認なく公職に復帰することを許可しなければ、クリーンな政治を実現できます。そうしてはじめて政治家は国民の信頼を取り戻せます。また、そういった人物を公職復帰させる教授会の責任は重大です。

政治改革の根本は、教育改革であり、人材育成しかありません。

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