中世日本史のおさらいから
倭の五王をみてわかるように中国南朝に封じ奴隷(=生口)貿易をし、中国北朝を正統と認めなかった九州王朝が指揮棒をふるって、南朝滅亡を契機に、皇帝・筑紫君磐井が日本天皇呼称、条里制、律令制を開始し、618年、北朝由来の唐建国を見下して、皇帝・多利思北狐が倭京と呼ばれる都を建設した。662年白村江の敗戦の後、唐の進駐軍を一掃した天武天皇が、九州王朝の都・大宰府を真似て藤原京を奈良盆地に694年遷都。九州からの技術系移民が近畿での都建設を支えていた。山上憶良の「貧窮問答歌」にあるように、豪華絢爛な都だった面影すらなく、唐の進駐軍による九州王朝粛清や、大和朝廷による焚書や証拠隠滅により、大宰府は焼失荒廃した。渡来系と思われる藤原氏一族が、秦氏、鴨氏といった渡来系豪族と協力して、710年平城京を遷都、794年平安京を建都し、実効支配していた。天皇や貴族の財源であった荘園を警護するために生じた武士団、とくに平氏、源氏が力をつけてきていた。935~941年、承平・天慶の乱平定の際、武士の力が証明された。また刀伊の入寇など、朝鮮半島からの度重なる侵略行為に対し武力を発揮した。(倭寇や文禄慶長の役が昨今強調されるが、朝鮮からの日本侵略も多かった。)藤原氏を外戚としない宇多天皇は菅原道真を重用したが、藤原氏の陰謀で大宰府に左遷された。醍醐・村上天皇以外、摂政・関白が藤原氏から出されていた。藤原道長をピークに、その子、頼道に天皇となるべき外孫が途絶え、1069年、後三条天皇が摂関家の財源を断つべく、荘園整理令を発令した。その後、天皇が摂関家のように実権を握るべく、白河・鳥羽・後白河上皇による院政がはじまる。1156年、保元の乱により後白河天皇が崇徳上皇を廃立。1159年、平治の乱により源氏が平清盛に敗北。1179年、後白河法皇が平氏打倒を企てた鹿ケ谷事件を、平清盛が平定。源平合戦を制した源頼朝が後白河の死を待って、1192年、鎌倉幕府設立。嫁の北条政子つながりで、北条氏が執権となり実権を掌握。和田氏など敵対勢力をひとつひとつシラミツブシ的に抹殺。1221年、承久の乱にて後鳥羽上皇らが北条義時追討令を発するも敗北。1232年、北条泰時が武士による貞永式目(御成敗式目)を制定。朝廷の公家法、荘園領主の本所法にとってかわることになった。1274年と1281年、元寇を北条時宗が撃退。やがて荘園群所有をめぐって、皇室が南北朝に分裂。恩賞を得られない不満御家人の援助で、南朝の後醍醐天皇が1333~1336年、建武の新政開始。念願の天皇による直接統治が実現化した。
律令制度が導入されたとき、全住民が戸籍登録された。地方を治めるために中央から派遣されたのが国司、土着の豪族は郡司となって国司の支配下に置かれた。しかし農民が仏僧になったり流民となって逃亡したりで、税の取立てがうまくいかず、公地公民制(=すべて天皇の所有地であり天皇の民である)を基調とする律令制が短命崩壊。743年墾田永年私財法により、自分で開墾した土地を私有することが認可され、貴族や寺社は地方農民を使って自墾地系荘園を開墾し、既墾地系荘園を買収した。律令制度下では私有が許されなかった口分田が郡司や有力農民によって私有化され、所有者の名前がついた名田と呼ばれた。国司の干渉から土地を守るために、貴族・寺社・摂関家・皇族に寄進し、一定の年貢を納めることで土地を実質的に安全に使用した。こうして貴族・寺社・摂関家・皇族に集められた広大な土地は寄進地系荘園となり、不輸不入権を有する自治を獲得した。いっぽう国司は自分の土地を私物化し、国衙領と呼ばれた。院政がはじまると、寺社建設に金がかかったため、上級貴族に支払うべき高額の俸禄の代わりに、一国の知行権を与え、知行国主とした。こうして公領は、院・知行国主・国司によって私物化された。鎌倉幕府が実権を握ると、徴税と治安維持の目的で、国衙領や荘園に地頭、知行国に守護が置かれた。荘園レベルでは朝廷任命の荘官と幕府任命の地頭が対立し、知行国レベルでは朝廷任命の国司・知行国主と幕府任命の守護が対立した。
平安後期の農村は、名主が下人を使って佃・正作を耕作させ、一部を小作人に請作させた。田畑を護衛してもらう代わりに、領主に対して、年貢(米)、公事(特産物)、夫役(労働力提供)をおさめた。鎌倉時代にはいると、鍛冶職人によって農耕器具が進歩し、牛馬の労力を利用し、牛糞(馬糞は肥料にならない!)や灰を肥料とし、二毛作がはじまった。手工業の専門職人が生まれ、月3度の三斎市が開かれるようになり、市と市を往来する行商人が生まれた。借上と呼ばれる金融業者、問丸と呼ばれる運送業者も生まれた。商工業者は農村から独立組織をつくれるくらい発達し、座と呼ばれた。寺社・公家の保護の下、座の中では関税の免除、専売特許などが得られたため、商工業者で大いににぎわった。
南北朝時代にはいると、武士の戦乱の世であり、村同士が協力し合って自衛する必要に迫られ、惣と呼ばれる自治組織が生まれ、寄合で村の規則を決定した。この惣の形成期に、名主の新旧交代が起きた。村の上層部には地侍と呼ばれた武装可能な農民がいて、農民が力をつけると、領主に対して、代官の罷免要求や減免税要求を突きつけるようになった。
室町時代にはいると、愁訴・強訴(=減免税要求)、逃散(=耕作義務放棄)、一揆(=領主や金持ちの屋敷に対する襲撃)、徳政一揆(=徳政令発布要求)、国一揆(=守護罷免要求)、一向一揆(=一向宗信徒による独立要求)が頻繁に起こるようになった。とくに1428年、正長の土一揆を皮切りに、各地で大規模な土一揆が生じた。人糞尿を肥料とするようになって耕作能率がアップ。漁業、鍛冶業、織物業、製塩業、酒造業、製紙業などの技術が進歩し、月6度の六斎市が開かれた。問丸からさらに高度な商いを営む問屋が生まれた。廻船、馬借、車借といった陸海上輸送業も進歩した。戦国時代には、寺社・公家が没落したため、座は新興手工業者を冷遇し、封建的傾向が強まったが、大名が座の特権を奪って、誰でも自由に新規営業できる楽市・楽座が生まれた。
1588年、豊臣秀吉が刀狩令を出し、士農工商の固定身分制度が確立した。江戸幕府開始時点での身分の上下関係がそのまま260年以上固定されることになった。(一部分の身分の売買は行われていたが。)身分が高いほど費用がかさみ、借金にあえいで、武士が商人に牛耳られていた。住所不定で持ち場のない人間は遊び人、役立たずとして虐げられ、蘭学者もそのひとりであったことは明記したい。明治新政府が徴兵した日本陸海軍の出現によって、江戸幕府が召抱えた職業軍人であった武士階級は必要とされなくなった。
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