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2010年6月 8日 (火)

ビザンツ帝国軍

1066年ノルマン人ウィリアムがイングランドをヘースティングスの戦いで破ると、多くのイングランド人諸侯が捕らえられ処刑されました。多くのアングロサクソン人亡命者がビザンツ帝国に流れ着き、傭兵として働くこととなりました。ペチェネグ人(=マジャール人を北方に駆逐してルーマニアに住んでいたトルコ人)、ノルマン人、それにアルメニア人がもともとのビザンツ傭兵の主力でしたが、セルジュークトルコがアルメニアを支配して以来、アルメニア人傭兵の供給路が絶たれてしまいました。1072年フランス・ノルマンディ地方から来航したノルマン人ロベール・ギスカールが、イスラム・アラブ人をシシリー島から排斥し、シシリー王国を建国しました。

そんななか1071年マンツィケルトの戦いで、数の上では絶対優勢だったビザンツ皇帝ロマノス4世が新興のセルジュークトルコ皇帝アルプ・アルスラーンに敗れ処刑されました。マンツィケルトの敗戦によって、ビザンツ帝国は小アジアを失い、二度と復活できませんでした。ロマノス4世軍と別働隊であったノルマン人バユールは、裏切る危険率が高かったフランク人傭兵とトルコ人傭兵を率いていましたが、軍事力を過信したロマノス4世と、冷ややかなバユールとの連携プレーがうまくいかなかったことが直接の敗因となりました。ノルマン人傭兵の狙いは、小アジアにノルマン人独立国を建てシシリー王国と協力して、ビザンツ帝国を挟撃する企みを持っていました。1081年ドゥラッツォの戦いで、ビザンツ皇帝アレクシオス1世が、帝国領内に侵入したノルマン人ロベール・ギスカールに敗れました。アレクシオス1世が、ローマから亡命していたローマ教皇ウルバン2世に、セルジュークトルコから小アジアの失地回復を懇願して、十字軍派遣が始まったことはすでに語ったとおりです。

Byzant4_2左図はビザンツ人から成る中央軍です。槍と剣が武器でした。その頃のビザンツ帝国軍の構成は傭兵で占められていました。タグマと呼ばれた、ビザンツ人中央軍は、ヨーロッパ侵略者アヴァール人から、騎馬など多くの戦術を学んでおりました。しかし相次ぐテマ軍管区と中央政府との内戦で多くの中央軍兵が死んでしまいました。結局、傭兵に頼らざるを得なくなりました。テマ軍管区制とは、首都コンスタンティノープルを中心に東西に分け、さらに小国に分割して、各々に軍管区長を置きました。地方豪族や小作の自由農民は、長男が徴兵に応じさえすれば、土地を世襲できました。戦時にはノミスマ金貨(=通貨)で給料が出ました。そうなると地方豪族は中央政府から独立を図るようになり、戦時の軍役を拒否する豪族まで現れました。軍役に服すれば税金を免除する策でいったんは改善しましたが、今度は財政困難に陥ってしまいました。そこで、軍役に服せばノミスマ金貨の代わりにプロノイア(土地)を与え、プロノイア保有者は世襲こそ許されないものの税金を免除してもらえました。このプロノイア制でいったん兵が増えたものの、税収の減少を起こし、結局、常備軍の兵は減少し続け、ますます傭兵頼みになりました。

Byzant1_2左図はヴァリャーギ親衛隊と呼ばれる最強の傭兵です。構成員はスウェーデンやロシアから雇われたノルマン人でした。武器は剣や槍ではなく、豪快に専ら斧でした。たまにビザンツ皇帝に逆らうことはありましたが、ビザンツ滅亡まで忠実に仕えました。いい顔をしていますね。余談ですが、ロシア人は世界一強いので、敵に回して戦争を挑んではいけません。

Byzant2_5 左図はペチェネグ人傭兵です。騎馬を得意戦術とし、武器は弓矢でした。ビザンツ皇帝バシレイオス2世(即位976~1025年)がトルコ系ブルガリア人を征服しており、そのあとに入営してきたトルコ系ペチェネグ人とは友好関係を結んでいました。

ここまでがビザンツ陸軍のお話ですが、ベニス商人が地中海に登場するまでは、ビザンツ海軍が最強でした。「ギリシャの火」と呼ばれたハイテク技術で、イスラム軍を圧倒しました。石油かなにかわかりませんが、水を噴霧すると液状の火薬が敵艦隊に飛んでいきました。

ブルガリア人は、自分たちのブルガリア帝国を滅ぼされ、テマ制に組み込まれたために、ビザンツ皇帝を崇拝するギリシャ正教とまったく肌が合わず、パウロ派、ボゴミール派といった異端とされる教えを信じていました。これが南フランスでのちに流行するカタリ派(アルビジョア派)となって、ローマ教皇と真っ向から対立し、アルビジョア十字軍による制裁を受けることになる。

1171年、セルビア独立。1187年、サラディンがエルサレムを奪還し、黒海北岸にいたトルコ系クマン人(現ハンガリー少数民族)がブルガリア帝国を復興し、ビザンツ帝国は領土の多くを失いました。さらに北方領土拡大をもくろんだクマン人はルーシと死闘を繰り返しました。1204年、フランク人が首都コンスタンティノープルを奪いラテン帝国を建国。ビザンツ人はニケーア帝国にこもるしかありませんでした。1243年、モンゴル人バトゥがキプチャク汗国を建国し、ブルガリア帝国を従属させました。1261年、ニケーア帝国がコンスタンティノープルを取り戻し、ビザンツ帝国に返り咲きました。1393年、ブルガリア帝国がオスマントルコに滅ぼされ、遊牧民ヴラフ人が定住し、いまのルーマニアの主要構成民族となりました。オスマントルコにより、1453年、ビザンツ帝国滅亡。1459年、セルビア滅亡。マジャール人の建てたハンガリーが、ヨーロッパとオスマントルコの最前線になりました。

ビザンツ帝国軍の歴史

http://www.youtube.com/watch?v=wg8f7tOGFEA&feature=related

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