平城宮跡会場へ再び
なかむら小児科の木曜午前診を終え、大阪から来た友人O氏を連れて、平城宮趾に行ってきました。梅雨だというのに空は快晴で、とても暑かったのですが、平城遷都1300年祭の平城宮跡会場はいつ行ってもいいですね。スポーツ飲料1本買って、先週より要領もつかみましたので、最短距離で到着しました。
北が内裏、歌姫街道、平城山で、南が朱雀門で、東が若草山(三笠山)と東大寺大仏で、西が生駒山だよと基本的な解説からスタート。内裏は古代かんなを使って、柱の質感を出していることや、見落としがちな天井の装飾の解説をしました。学者たちが、平城宮跡会場を設立することに今回非常にこだわったこと、20cmほど地面を掘れば木簡がでてくるので、地面を掘ったら逮捕されることなど、教えてあげました。
”まとめ”
倭=沸流百済(ぴりゅくだら)、伽耶(かや)、対馬、九州北部。
邪馬台国=沸流百済のどこか。伽耶の金官伽羅??
*古代中国は朝鮮半島を遼東半島と勘違いしていた??
卑弥呼=音読で「ピミフ」。日本人ではない?邪馬台国の女王。
大和朝廷=天孫族。古代天皇家つまり大王(おおきみ)。
九州王朝=沸流百済(ぴりゅくだら)。のちに温祚百済(おんじょくだら)と交代。
*沸流、温祚は高句麗開祖チュモンの養子で、百済の開祖。
百済=温祚百済(おんじょくだら)。のちに仇台百済(くでくだら)と交代。
藤原不比等は聖武天皇の即位にすべてを賭けており、政敵であった長屋王を暗殺して、待ちに待った聖武天皇が即位しても、人々の暮らしは楽ではありませんでした。貴族は高床の木造邸宅に、平城京の民衆は竪穴式住居に住んでいました。床をねずみが走り回るし、そりゃ天然痘など疫病も流行るでしょうよ。不比等の父、中臣(のちの藤原)鎌足の出自が明らかでなく、おそらく仇台百済・義慈王の子で、余豊璋の弟のうちの誰かだろうと私は思っています。つまり中臣鎌足自らが、余豊璋や鬼室福信を補佐すべく、663年の白村江の戦いの現場に行ったのだろうと考えています。実際、白村江の戦後、鎌足は腑抜けになってしまったようです。長男・余豊璋は白村江の戦いの前に人質として来日していましたし、鬼室福信の子、鬼室集斯も来日していましたし、養子縁組など人的交流があったはずです。物部氏、穂積氏、中臣氏といった大和の古豪は姻戚関係が強く、穂積氏が百済や馬韓の重臣に取り立てられていたことからも、十分信憑性があると考えています。
当時、百済を宗主国に掲げる伽耶諸国が新羅に次々と降伏しており、蘇我満致のとき来日した蘇我氏は格下の伽耶高官でしたので、仇台百済出身の中臣鎌足がそこどけと蘇我氏を殺したのが、645年の大化改新の実態だろうと思います。南淵請安の塾でともに学んだ間柄でもあり、中臣鎌足イチオシの中大兄皇子が天智天皇に即位しても、民衆にはいっこうに評判が悪く、とても改革とは言えない状態でした。中大兄皇子は九州王朝(つまり温祚百済)の皇子でしたから大和の人々から受けが悪いのは当然でしょう。俺さまが天皇になるんだとたくらんだ平城京の藤原仲麻呂、のちに反乱を起こすことになる薬子の父であった長岡京の藤原種継暗殺事件をみましても、藤原一門にまつわる陰謀は桓武天皇の頭痛の種だったことでしょう。
実は天智天皇と兄弟ではない天武天皇から、実際には律令制度がはじまりました。天智天皇は斉明天皇の子、天武天皇は皇極天皇の子。皇極・斉明天皇の重祚がないと私は思いますが、定説どおり重祚だとすれば、前夫にして新羅王族・高向王の子・大海人皇子が中大兄皇子のお兄ちゃんになりますね。定説では中大兄皇子が大海人皇子のお兄ちゃんですから、おかしいことになります。譲りに譲って定説を全部呑んだとしても、では大海人皇子は、日本国の存亡がかかった白村江の戦いのとき、どこに居て、何をしていたのでしょう?。皇極・斉明天皇の重祚がないと考えれば、大海人皇子は滅亡寸前の百済とは無縁で、どっちかというと新羅寄りなので、傍観していても変ではありません。斉明天皇は九州筑紫で戦前暗殺されるわ、中大兄皇子は戦後大宰府に水城を築くわ、遷都しまくるわでテンヤワンヤ。なのに大海人皇子は実の母親(斉明天皇)が殺されているのに「えっ、なにかありました?」状態。この時期の大海人皇子に関する記事がまったくないのは、やっぱり斉明天皇は実の母親ではないのでは?額田王を取り合ったのが、兄弟げんかの始まりではなさそうです。ここら辺の無理なき改ざんが日本書紀編集作家の腕のみせどころだったのでしょう。
平城京、平安京が唐の都、長安がモデルだったのに対して、藤原京は新羅の都、慶州がモデルでした。天武天皇陵は八角形となっており、不老長寿の道教思想が色濃く感じられます。今回復元され一般公開された聖武天皇の玉座も八角形であることに気づかれましたでしょうか?672年の壬申の乱で天武天皇に加勢したのは、尾張、伊勢など東国の豪族たち、つまり大和朝廷に親しかった古豪たちでした。尾張ホノアカリの熱田神宮、伊勢アマテルの伊勢神宮、アマテル(天照大神)への斎宮派遣開始といったキーワードが、天武天皇と持統天皇の「アンチ百済」「大和復興」の徹底した政治姿勢が強烈にうかがわれます。
ちなみにアマテル(天照大神)は男性です。実在していた人物と言われており、アマテルは軍事を統率し、富士から伊勢に遷都したと言われています。長寿で、男女夫婦がどうしたら仲良く生きていけるかを説いた「伊勢の道」を民衆に説いていたと言われています。「大和物語」「伊勢物語」はアマテル起源かもしれません。
最近、新羅考古学から、興味ある事実が公開されました。新羅の古墳出土品が、中国文明ではなく、ローマ文明の影響を色濃く受けたものであるらしいです。西ローマ帝国→東ローマ帝国(ビザンツ帝国)→ササン朝ペルシャ(イラン人)→匈奴(トルコ系)→鮮卑(モンゴル系)→靺鞨(ツングース系)→新羅(韓民族)と渡っていったとすると、シルクロードのほかにもローマ・新羅ロードがあったかもしれません。新羅はなぜ中国と交わることが少なかったのか?漢民族を嫌っていたためか?新羅は日本の出雲と関係が深く、よって日本中の神社は新羅の息がかかっているといってもいいでしょう。正倉院の宝物は、イラン系の文物が多いのですが、新羅からの輸入ルートがメインだったのか?謎は深まるばかりです。
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租、庸、調といった税を納めるために、日本国じゅうのはるばる遠方から村の代表が平城京に来ました。上京するときは、国の役人が付き添って、税を納めたあとは自力でふるさとへ帰るように申し渡されたようです。国へ帰る金がなくて平城京周囲にとどまる者が多く、住所不定の浮浪の民になりました。なんとか国へ帰れても道の途中で、追いはぎにあったり、殺されたりといった具合で、命がけの納税でした。法相宗(総本山は興福寺)の行基は、そんな浮浪者を集めて、大仏を建立しました。古来より、国家や官僚というものは、民衆に冷たいものです。
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