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2010年6月25日 (金)

平城宮跡会場へ再び

なかむら小児科の木曜午前診を終え、大阪から来た友人O氏を連れて、平城宮趾に行ってきました。梅雨だというのに空は快晴で、とても暑かったのですが、平城遷都1300年祭の平城宮跡会場はいつ行ってもいいですね。スポーツ飲料1本買って、先週より要領もつかみましたので、最短距離で到着しました。

北が内裏、歌姫街道、平城山で、南が朱雀門で、東が若草山(三笠山)と東大寺大仏で、西が生駒山だよと基本的な解説からスタート。内裏は古代かんなを使って、柱の質感を出していることや、見落としがちな天井の装飾の解説をしました。学者たちが、平城宮跡会場を設立することに今回非常にこだわったこと、20cmほど地面を掘れば木簡がでてくるので、地面を掘ったら逮捕されることなど、教えてあげました。

”まとめ”

倭=沸流百済(ぴりゅくだら)、伽耶(かや)、対馬、九州北部。

邪馬台国=沸流百済のどこか。伽耶の金官伽羅??

 *古代中国は朝鮮半島を遼東半島と勘違いしていた??

卑弥呼=音読で「ピミフ」。日本人ではない?邪馬台国の女王。

大和朝廷=天孫族。古代天皇家つまり大王(おおきみ)。

九州王朝=沸流百済(ぴりゅくだら)。のちに温祚百済(おんじょくだら)と交代。

 *沸流、温祚は高句麗開祖チュモンの養子で、百済の開祖。

百済=温祚百済(おんじょくだら)。のちに仇台百済(くでくだら)と交代。

藤原不比等は聖武天皇の即位にすべてを賭けており、政敵であった長屋王を暗殺して、待ちに待った聖武天皇が即位しても、人々の暮らしは楽ではありませんでした。貴族は高床の木造邸宅に、平城京の民衆は竪穴式住居に住んでいました。床をねずみが走り回るし、そりゃ天然痘など疫病も流行るでしょうよ。不比等の父、中臣(のちの藤原)鎌足の出自が明らかでなく、おそらく仇台百済・義慈王の子で、余豊璋の弟のうちの誰かだろうと私は思っています。つまり中臣鎌足自らが、余豊璋や鬼室福信を補佐すべく、663年の白村江の戦いの現場に行ったのだろうと考えています。実際、白村江の戦後、鎌足は腑抜けになってしまったようです。長男・余豊璋は白村江の戦いの前に人質として来日していましたし、鬼室福信の子、鬼室集斯も来日していましたし、養子縁組など人的交流があったはずです。物部氏、穂積氏、中臣氏といった大和の古豪は姻戚関係が強く、穂積氏が百済や馬韓の重臣に取り立てられていたことからも、十分信憑性があると考えています。

当時、百済を宗主国に掲げる伽耶諸国が新羅に次々と降伏しており、蘇我満致のとき来日した蘇我氏は格下の伽耶高官でしたので、仇台百済出身の中臣鎌足がそこどけと蘇我氏を殺したのが、645年の大化改新の実態だろうと思います。南淵請安の塾でともに学んだ間柄でもあり、中臣鎌足イチオシの中大兄皇子が天智天皇に即位しても、民衆にはいっこうに評判が悪く、とても改革とは言えない状態でした。中大兄皇子は九州王朝(つまり温祚百済)の皇子でしたから大和の人々から受けが悪いのは当然でしょう。俺さまが天皇になるんだとたくらんだ平城京の藤原仲麻呂、のちに反乱を起こすことになる薬子の父であった長岡京の藤原種継暗殺事件をみましても、藤原一門にまつわる陰謀は桓武天皇の頭痛の種だったことでしょう。

実は天智天皇と兄弟ではない天武天皇から、実際には律令制度がはじまりました。天智天皇は斉明天皇の子、天武天皇は皇極天皇の子。皇極・斉明天皇の重祚がないと私は思いますが、定説どおり重祚だとすれば、前夫にして新羅王族・高向王の子・大海人皇子が中大兄皇子のお兄ちゃんになりますね。定説では中大兄皇子が大海人皇子のお兄ちゃんですから、おかしいことになります。譲りに譲って定説を全部呑んだとしても、では大海人皇子は、日本国の存亡がかかった白村江の戦いのとき、どこに居て、何をしていたのでしょう?。皇極・斉明天皇の重祚がないと考えれば、大海人皇子は滅亡寸前の百済とは無縁で、どっちかというと新羅寄りなので、傍観していても変ではありません。斉明天皇は九州筑紫で戦前暗殺されるわ、中大兄皇子は戦後大宰府に水城を築くわ、遷都しまくるわでテンヤワンヤ。なのに大海人皇子は実の母親(斉明天皇)が殺されているのに「えっ、なにかありました?」状態。この時期の大海人皇子に関する記事がまったくないのは、やっぱり斉明天皇は実の母親ではないのでは?額田王を取り合ったのが、兄弟げんかの始まりではなさそうです。ここら辺の無理なき改ざんが日本書紀編集作家の腕のみせどころだったのでしょう。

平城京、平安京が唐の都、長安がモデルだったのに対して、藤原京は新羅の都、慶州がモデルでした。天武天皇陵は八角形となっており、不老長寿の道教思想が色濃く感じられます。今回復元され一般公開された聖武天皇の玉座も八角形であることに気づかれましたでしょうか?672年の壬申の乱で天武天皇に加勢したのは、尾張、伊勢など東国の豪族たち、つまり大和朝廷に親しかった古豪たちでした。尾張ホノアカリの熱田神宮、伊勢アマテルの伊勢神宮、アマテル(天照大神)への斎宮派遣開始といったキーワードが、天武天皇と持統天皇の「アンチ百済」「大和復興」の徹底した政治姿勢が強烈にうかがわれます。

ちなみにアマテル(天照大神)は男性です。実在していた人物と言われており、アマテルは軍事を統率し、富士から伊勢に遷都したと言われています。長寿で、男女夫婦がどうしたら仲良く生きていけるかを説いた「伊勢の道」を民衆に説いていたと言われています。「大和物語」「伊勢物語」はアマテル起源かもしれません。

最近、新羅考古学から、興味ある事実が公開されました。新羅の古墳出土品が、中国文明ではなく、ローマ文明の影響を色濃く受けたものであるらしいです。西ローマ帝国→東ローマ帝国(ビザンツ帝国)→ササン朝ペルシャ(イラン人)→匈奴(トルコ系)→鮮卑(モンゴル系)→靺鞨(ツングース系)→新羅(韓民族)と渡っていったとすると、シルクロードのほかにもローマ・新羅ロードがあったかもしれません。新羅はなぜ中国と交わることが少なかったのか?漢民族を嫌っていたためか?新羅は日本の出雲と関係が深く、よって日本中の神社は新羅の息がかかっているといってもいいでしょう。正倉院の宝物は、イラン系の文物が多いのですが、新羅からの輸入ルートがメインだったのか?謎は深まるばかりです。

ローマ文化王国ー新羅改訂新版

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価格:4,410円(税込、送料別)

租、庸、調といった税を納めるために、日本国じゅうのはるばる遠方から村の代表が平城京に来ました。上京するときは、国の役人が付き添って、税を納めたあとは自力でふるさとへ帰るように申し渡されたようです。国へ帰る金がなくて平城京周囲にとどまる者が多く、住所不定の浮浪の民になりました。なんとか国へ帰れても道の途中で、追いはぎにあったり、殺されたりといった具合で、命がけの納税でした。法相宗(総本山は興福寺)の行基は、そんな浮浪者を集めて、大仏を建立しました。古来より、国家や官僚というものは、民衆に冷たいものです。

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2010年6月21日 (月)

紅萌ゆる丘の花

Sanko_2診療を終え小雨降る夜に、旧制三高寮歌「紅萌ゆる」に耳を傾けるのもまたオツなものです。入寮式の秘祭、ヂンヂロゲ踊りとは、どんなストーリーなんだろう?

いま逍遥に月白く、静かに照れり三笠山・・・

http://www.youtube.com/watch?v=_nEjpaLKU8M&feature=related

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2010年6月18日 (金)

平城遷都1300年祭(平城宮跡会場)を見て

201006171453000昨日、なかむら小児科の木曜午前診を終えて、西大寺の実家に帰宅し荷物をおろして、徒歩10分で平城遷都1300年祭メイン会場である平城宮趾に行ってきました。熱中症防止のために、途中のコンビニでスポーツ飲料水を買いました。昨日は梅雨なのに炎天下で、大極殿に到着したのが14時半ころ。なんと入場料は無料で、待ち時間もなし。NHK番組「吉備真備」の撮影にも使われた台座や、天井を彩るハスの花、玄武、青竜、白虎、朱雀、亀、鹿などの見事な装飾をながめ、内裏から朱雀門を見渡す眺めは絶景でした。

201006171509001ゆっくり堪能して、とぼとぼと朱雀門へ向かいました。近鉄電車の踏切では、係員が安全を図ってくれていました。遣唐使船が展示されている平城京歴史館に15:40に到着。ちょうど整理券が解除され、自由に入館できる状態でした。待ち時間はゼロ、入場料は500円でした。16時閉館ですので、注意してください。

201006171628000漫画映像で、吉備真備、粟田真人の紹介がされており、いよいよ遣唐使船に乗りました。まあ狭い船です。当時の成人平均身長は130cmくらいでしたから、200人乗りこめたのでしょう。個室に寝られたのはトップ官僚だけで、残りは雑魚寝でした。当時の航海に思いを馳せて、ゆっくり平城京CG復元シアターに移動しました。12分間の平城京の映像は楽しめましたが、おかしな点もちらほら。平城京の整備はまだまだ悪く、実際住める場所は限られ、邸宅もそんなに数はありませんでした。まあそんなことは抜きにしても、聖武天皇、光明皇后、称徳天皇、長屋王、藤原不比等、玄昉、吉備真備、藤原仲麻呂(恵美押勝)、道鏡などに思いを馳せることができました。

越天楽♪

http://www.youtube.com/watch?v=VuxUhZmF_CA&feature=related

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2010年6月17日 (木)

高句麗、沸流百済、温祚百済

毎週火曜日、テレビ京都で「朱蒙(チュモン)」再放送が放映されており、楽しみに見ています。扶余が高句麗を建国したといわれますが、高句麗開祖にして東明聖王と呼ばれた朱蒙。その父は多勿(タムル)の人で、母親ユファは河伯(ハンベク)の人。父が殺されて、母が扶余王に嫁ぎーの、朱蒙も扶余王の養子として迎えられました。ケルの娘、召西奴(ソソノ)とラブロマンスがあるものの、朱蒙が戦闘やら人質として囚われの身になっているうちに、ソソノはチュモンが死んだものと思い込み、別の男と結婚。生まれた男子が、沸流(ピリュ)と温祚(オンジョ)。ともに沸流百済、温祚百済の開祖です。どうやら「百済本紀」は後世改ざんされているようで、沸流百済、温祚百済、仇台(クデ)百済の3つの歴史を1つの歴史にまとめてしまっています。それにしてもユファもソソノも超美人ですね。

高句麗第2代、瑠璃明王の父は朱蒙、母イェソヤは河伯(ハンベク)の人。朱蒙の妻イェソヤが急逝して、美人のソソノがチュモンの後妻に入りますが、血のつながりのない沸流、温祚は瑠璃明王に殺されることを恐れ、韓民族が住む南の地に逃れます。扶余も高句麗も百済もツングース族です。温祚百済(山彦)は馬韓との戦いに勝って、馬韓の地を侵略します。沸流百済(海彦)は移った先が、倭と呼ばれた沿岸部や島々の塩田であったために細々と生き延びることになりますが、仇台百済となってからは勢いを増し、広開土王による遠征などで高句麗に滅ぼされた温祚百済にバトンを渡されることとなります。

高句麗・仇台百済・倭(沸流百済)から朝鮮半島を追われた温祚百済は、日本の福岡県博多に移住。北九州に住んでいた先客の沸流百済を退けて、九州王朝を建国。奈良県の大和朝廷と対立することとなりました。尾張のホノアカリが国見(くにみ)を行って奈良県飛鳥に都を置いたのが大和朝廷の始まり。ニニギの血を汲む天孫族が大和王権の大王(おおきみ)になりました。ニギハヤヒの血を汲む物部氏が大王を補佐しました。大和朝廷の皇子ヤマトタケルも、博多で一戦を交えていたかもしれません。九州王朝は倭の五王を輩出したといわれています。その頃の大和朝廷は、鉄器を司る大伴氏、物部氏によって護衛されましたが、仲哀天皇・神功皇后→応神天皇、武烈天皇→継体天皇でお家断絶の危機でした。大伴金村らの功労で、天皇家はなんとか血統を保てました。仇台百済の聖明王と大和朝廷の欽明天皇の治世で仏教伝来。五経博士が来日しました。しかしそんな平和もつかの間、蘇我氏のクーデターによって、敏達天皇一族が暗殺され、九州王朝が大和朝廷を乗っ取ろうとして、用明・崇峻天皇は短命に終わりました。大化改新(乙巳の変)で蘇我氏が失脚。九州王朝系の天智天皇と、大和朝廷系の天武天皇のあいだの政争は凄まじいものでした。

Kudara左図は、「朝鮮半島の歴史地図」に掲載された温祚百済と馬韓の戦闘状況です。西暦250年は邪馬台国(金官伽耶?)の卑弥呼が、倭の大乱を治めたころであって、朝鮮半島では、韓民族の馬韓に臣下の礼をとっていた、ツングース族の温祚百済が、馬韓の要所であった目支国を打ち破っています。豊富な農作物・水産物・鉄を背景に温祚百済は勢力を伸ばしたのです。劣勢の沸流百済から仇台百済が分家したのもこの頃。韓民族の辰韓から韓民族軍人がクーデターを起こして建国したのが新羅。韓民族の新羅が、ツングース族の百済と仲が悪いのはこれで納得いただけるでしょう。朝鮮半島沿岸部や島々に住む沸流百済を中心として、対馬、北九州まで含めて倭と呼んだようです。百済に臣下の礼をとり、韓子(からこ)と呼ばれる混血児が治めた伽耶の国々は、新羅と国境を接する金官伽耶(邪馬台国?)をはじめ、新羅と戦闘をくりかえしていました。伽耶出身の蘇我氏と、日本古来の天孫族であった物部氏が激しく対立していたころ、532年金官伽耶は新羅に滅ぼされてしまいました。

百済の歴代王は馬韓の自治を認めていたようです。しかし、高句麗に滅ぼされた温祚百済に代わった仇台百済も、高句麗に敗北し続け南下を余儀なくされ、馬韓の地に武力侵略せざるを得なくなりました。そんな時代に生きた武寧王の墓は有名ですね。馬韓の地だけに何基も前方後円墳がみつかって話題になっております。前方後円墳は吉備・岡山県を起源とし、大和や難波に築かれた日本発祥の文化だと私は考えています。ひょっとして馬韓と、継体天皇率いる大和朝廷との間に同盟や人的交流があったのでしょうか?馬韓の敵は百済、大和朝廷の敵は倭の五王が率いる九州王朝だと考えれば、この同盟は理にかなうような。

韓国では「朱蒙」に次ぐ第二弾「沸流・温祚」が撮影快調とのこと。楽しみに来年のテレビ公開を待ちたいと思います。

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2010年6月16日 (水)

ビザンツ精神の復活を願って

ヨーロッパ文明には、大きく二つあります。ひとつはフランスを中心とするフランク文明。西ヨーロッパ文明、カトリック・プロテスタント文化圏といっていいでしょう。そしてもうひとつが、ギリシャを中心とするビザンツ文明。東ヨーロッパ文明、ギリシャ正教文化圏といっていいでしょう。

どれも三位一体説を採用していますが、ギリシャ正教ではフィリオクエ問題といって、聖霊が父のみから出ると主張し、偶像を可としました。対するカトリックでは聖霊は父と子から出るとし、偶像は不可。プロテスタントでは、偶像は不可、ローマ教皇を介さず聖書のみの信仰を主張しました。どれが正しいかはわかりません。ただ字が読めない庶民に偶像で布教することは大変便利だとだけ付け加えさせていただきます。

ブルガリア合唱

http://www.youtube.com/watch?v=Qz7b-7YMSz4&feature=related

キリスト教とイスラム教の対立が激化の一途をたどる昨今。裏切り者とか表裏が激しいとか評されることが多い、現実主義的なビザンツ人ですが、滅び去ったビザンツ人の生き方の中に、激しい宗教対立を円満解決するヒントがあるような気がしてなりません。自他を同化させるコスモポリタニズムでもない、コミュニティ不参加を許さないグローバリズムでもない、個の尊厳を守りながら異と調和を図るなにか別の生き方が。

かたやフランク文明一辺倒の現代の風潮では、解決の糸口すらつかめそうにありません。イスラムとまったく相容れないローマ・カトリック教会がフランスを建国したのですから当然のような気がします。西暦1400年、いよいよ存亡が危うくなったビザンツ皇帝が、フランク人諸国を旅して、十字軍派遣など応援を依頼して回りましたが、結局ひとつとしてビザンツ帝国に協力する国はなく、1453年オスマントルコによって滅ぼされました。1492年コロンブスが新大陸発見。ビザンツを失い、バランス感覚を失ったヨーロッパ列強が植民地獲得に乗り出すことになります。

EU諸国の中で、いまギリシャはフランクの後塵を拝し、経済的にも非常に苦しんでいますが、なんとかもう一度復活して、世界平和に貢献してもらいたいものです。

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2010年6月10日 (木)

世界史上の異種格闘技戦

キリスト教徒vsイスラム教徒は現代最大の格闘技戦と言えるでしょう。だとしますと東西文明が衝突した中世ヨーロッパでは、多くの異種格闘技戦が展開されました。

(1)ローマ教皇vsフランク王国vsビザンツ帝国(ローマ帝国)vsサラセン帝国

のちにローマ教皇はスペインにドミニコ教団・フランチェスコ教団という強力な親衛隊を持ち、アメリカ新大陸の侵略、アジアの侵略を行いました。

(2)フランク王国カロリング朝(カール大帝)vsアヴァール汗国

(3)ルーシ(現ロシア)vsチンギス汗

(4)ハプスブルク家vsマジャール人(現ハンガリー)vsボヘミア人(現チェコ)

(5)ビザンツ帝国vsスラブ人vsブルガリア人vsルーシ(現ロシア)

Byzant5 バルカン半島、ビザンツ帝国領内の農村に無断定着したスラブ人を治めるために、パンノニア(現ハンガリーあたり)に棲んでいたセルビア人とクロアチア人を配置したと最近知りました。ビザンツ帝国はたびたびルーシの侵略を受けたため、反抗的なブルガリア人を抑え、ペチェネグ人を起用して警備に当たらせました。

経済界では、ユダヤ商人vsロンバルディア商人vsイスラム商人といったところでしょうか。三井財閥を筆頭とする大坂商人が、華僑をも相手にどこまで切り込んでいけるか?

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2010年6月 8日 (火)

ビザンツ帝国軍

1066年ノルマン人ウィリアムがイングランドをヘースティングスの戦いで破ると、多くのイングランド人諸侯が捕らえられ処刑されました。多くのアングロサクソン人亡命者がビザンツ帝国に流れ着き、傭兵として働くこととなりました。ペチェネグ人(=マジャール人を北方に駆逐してルーマニアに住んでいたトルコ人)、ノルマン人、それにアルメニア人がもともとのビザンツ傭兵の主力でしたが、セルジュークトルコがアルメニアを支配して以来、アルメニア人傭兵の供給路が絶たれてしまいました。1072年フランス・ノルマンディ地方から来航したノルマン人ロベール・ギスカールが、イスラム・アラブ人をシシリー島から排斥し、シシリー王国を建国しました。

そんななか1071年マンツィケルトの戦いで、数の上では絶対優勢だったビザンツ皇帝ロマノス4世が新興のセルジュークトルコ皇帝アルプ・アルスラーンに敗れ処刑されました。マンツィケルトの敗戦によって、ビザンツ帝国は小アジアを失い、二度と復活できませんでした。ロマノス4世軍と別働隊であったノルマン人バユールは、裏切る危険率が高かったフランク人傭兵とトルコ人傭兵を率いていましたが、軍事力を過信したロマノス4世と、冷ややかなバユールとの連携プレーがうまくいかなかったことが直接の敗因となりました。ノルマン人傭兵の狙いは、小アジアにノルマン人独立国を建てシシリー王国と協力して、ビザンツ帝国を挟撃する企みを持っていました。1081年ドゥラッツォの戦いで、ビザンツ皇帝アレクシオス1世が、帝国領内に侵入したノルマン人ロベール・ギスカールに敗れました。アレクシオス1世が、ローマから亡命していたローマ教皇ウルバン2世に、セルジュークトルコから小アジアの失地回復を懇願して、十字軍派遣が始まったことはすでに語ったとおりです。

Byzant4_2左図はビザンツ人から成る中央軍です。槍と剣が武器でした。その頃のビザンツ帝国軍の構成は傭兵で占められていました。タグマと呼ばれた、ビザンツ人中央軍は、ヨーロッパ侵略者アヴァール人から、騎馬など多くの戦術を学んでおりました。しかし相次ぐテマ軍管区と中央政府との内戦で多くの中央軍兵が死んでしまいました。結局、傭兵に頼らざるを得なくなりました。テマ軍管区制とは、首都コンスタンティノープルを中心に東西に分け、さらに小国に分割して、各々に軍管区長を置きました。地方豪族や小作の自由農民は、長男が徴兵に応じさえすれば、土地を世襲できました。戦時にはノミスマ金貨(=通貨)で給料が出ました。そうなると地方豪族は中央政府から独立を図るようになり、戦時の軍役を拒否する豪族まで現れました。軍役に服すれば税金を免除する策でいったんは改善しましたが、今度は財政困難に陥ってしまいました。そこで、軍役に服せばノミスマ金貨の代わりにプロノイア(土地)を与え、プロノイア保有者は世襲こそ許されないものの税金を免除してもらえました。このプロノイア制でいったん兵が増えたものの、税収の減少を起こし、結局、常備軍の兵は減少し続け、ますます傭兵頼みになりました。

Byzant1_2左図はヴァリャーギ親衛隊と呼ばれる最強の傭兵です。構成員はスウェーデンやロシアから雇われたノルマン人でした。武器は剣や槍ではなく、豪快に専ら斧でした。たまにビザンツ皇帝に逆らうことはありましたが、ビザンツ滅亡まで忠実に仕えました。いい顔をしていますね。余談ですが、ロシア人は世界一強いので、敵に回して戦争を挑んではいけません。

Byzant2_5 左図はペチェネグ人傭兵です。騎馬を得意戦術とし、武器は弓矢でした。ビザンツ皇帝バシレイオス2世(即位976~1025年)がトルコ系ブルガリア人を征服しており、そのあとに入営してきたトルコ系ペチェネグ人とは友好関係を結んでいました。

ここまでがビザンツ陸軍のお話ですが、ベニス商人が地中海に登場するまでは、ビザンツ海軍が最強でした。「ギリシャの火」と呼ばれたハイテク技術で、イスラム軍を圧倒しました。石油かなにかわかりませんが、水を噴霧すると液状の火薬が敵艦隊に飛んでいきました。

ブルガリア人は、自分たちのブルガリア帝国を滅ぼされ、テマ制に組み込まれたために、ビザンツ皇帝を崇拝するギリシャ正教とまったく肌が合わず、パウロ派、ボゴミール派といった異端とされる教えを信じていました。これが南フランスでのちに流行するカタリ派(アルビジョア派)となって、ローマ教皇と真っ向から対立し、アルビジョア十字軍による制裁を受けることになる。

1171年、セルビア独立。1187年、サラディンがエルサレムを奪還し、黒海北岸にいたトルコ系クマン人(現ハンガリー少数民族)がブルガリア帝国を復興し、ビザンツ帝国は領土の多くを失いました。さらに北方領土拡大をもくろんだクマン人はルーシと死闘を繰り返しました。1204年、フランク人が首都コンスタンティノープルを奪いラテン帝国を建国。ビザンツ人はニケーア帝国にこもるしかありませんでした。1243年、モンゴル人バトゥがキプチャク汗国を建国し、ブルガリア帝国を従属させました。1261年、ニケーア帝国がコンスタンティノープルを取り戻し、ビザンツ帝国に返り咲きました。1393年、ブルガリア帝国がオスマントルコに滅ぼされ、遊牧民ヴラフ人が定住し、いまのルーマニアの主要構成民族となりました。オスマントルコにより、1453年、ビザンツ帝国滅亡。1459年、セルビア滅亡。マジャール人の建てたハンガリーが、ヨーロッパとオスマントルコの最前線になりました。

ビザンツ帝国軍の歴史

http://www.youtube.com/watch?v=wg8f7tOGFEA&feature=related

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2010年6月 4日 (金)

豪気節

飲み会といえば必ずカツオとトビウオの皿鉢(さわち)、自酌は厳禁、相手についで返杯を受けるのが高知流。2升飲めてはじめて酒が飲めると言え、それ以下は下戸じゃというのも高知流。二十歳のころ、親戚農家の飲み会に招かれ、土佐の南国の田んぼでグデングデンに酔っ払って、何度か豪気節を歌った思い出があります。こんなにたくさんの星があるんかというくらいの満天下で、あったかい田んぼの土に突っ込んでいました。寮のストームのみならず、酔っ払いが騒ぐにはもってこいの歌だと思います。

一つとせ
一人のあの娘が恋しけりや
潮吹く鯨で気をはらせ

五つとせ
意気は尊い血は燃える
黒い女にゃ慕はれる

うちの山の神をはじめ、高知の女性はハチキンと呼ばれ、気が強いのが特徴です。ド田舎に突然現れた最高学府、旧制高校生(=キャリア組官僚候補生)はさぞかし地黒ハチキンにモテていたんだろうなぁ。

豪気節

http://www.youtube.com/watch?v=NXN5-KVIOUU&feature=related

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