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2010年5月16日 (日)

平城遷都1300年祭:大遣唐使展をみて

木曜午前診を終え、奈良公園内にある奈良国立博物館に行ってきました。午後3時に到着。客足はまあまあで、ちょっと待てばじっくり展示物を見ることができました。今回は会場が2つに分かれており、移動ロスタイムを15分はみておかないとゆっくりと全部見られないと思います。一言で感想を申せば、今回は日本国中、アメリカ、中国などから出品されており、祭りを盛り上げていこうという気合が感じられました。

平城宮趾(へいじょうきゅうし)は幼少時から遊んでいた庭でした。外国船が瀬戸内海を通り難波潟に着き、小船に乗り換えて河内湖から淀川を上れば、巨椋池(おぐらいけ)に到達します。平城京は飛鳥から巨椋池まで貫く下ツ道の途中に建てられ、平面構造ではなく高低の起伏のある凸凹した土地であり、佐保川と秋篠川を無理やり南北に整備したために、降雨になると河川が氾濫し、平城京内ならどこでも屋敷を構えられるというわけにはいきませんでした。そんななか、広大な屋敷に住み、いまは亡き百済や広大な渤海からの使者をもてなしていた長屋王の権勢ぶりのすごさを改めて感じました。新羅討伐・百済復興の密談をしていたんじゃないかと私は思います。実際、後百済という国が故地に興りますが、これは百済人の国ではなく新羅人による軍人国家でした。聖武天皇の度重なる遷都により、平城京は奈良時代半ばにして一度荒廃しており、東大寺大仏は風雨に晒されていました

遣唐使留学生、井真成の墓が発見され、墓碑に刻まれた碑文の詳しい解説が展示されていました。吉備真備が新しい暦を持って帰ってきたこと、同じく真備が唐の学者に才能を妬まれて、碁の勝負の際、碁石を飲み込んで勝ったこと、玄昉が大日経を持って帰っていたことをはじめて知りました。若き空海が東大寺大仏のお告げで橿原市久米寺にあった大日経をみつけ、その中に書かれてあった密教の教えを学び、長安へ留学したいという夢を抱かせるきっかけとなった経典です。

唐の太宗、高宗、則天武后、玄宗といった有名な皇帝の碑文が展示されていました。両親とも天皇家の血筋でないのに、純粋の平民(百済渡来系)として初めて立后を果たした光明皇后は則天武后に憧れ、父・藤原不比等と組んで政権を掌握しました。太宗や則天武后の豪快な筆跡、高宗の線の細い筆跡、玄宗の活字的な筆跡といった対比は、新しい発見でした。書聖、王羲之(おうぎし)の筆跡には見入ってしまいました。

日唐交易と呼ばれ、対等な貿易関係があったかのような幻想がもたれていましたが、どうも間違いで、他の50余りの国々と同様、唐に朝貢しており、753年正月恒例の朝貢の儀にて、朝鮮を統一したばかりの新羅と日本の遣唐使が席次争いをして、小野田守を新羅に派遣したのに新羅・景徳王が謁見せず、新羅との関係が悪化し、藤原仲麻呂が新羅征討計画を立てていたことを知りました。高句麗が滅んだ後にできたばかりの渤海が、黒水靺鞨(こくすい・まっかつ)の領有をめぐって732年唐と争い、733年唐が新羅に命じて渤海を攻めさせ、渤海が日本に同盟を求めてきたこと、日本は渤海に朝貢の礼をとらせたこと、第13次遣唐使を渤海経由で行かせたことがあって、90人くらいのうち入唐したのが10人余りで、残りは渤海でUターンして帰国したこと、第18次遣唐使の民間僧として長安入りした空海が、人質として長安に捕われていた渤海第8代王・大言義と親交があったことなど、勉強になりました。

遣唐使は命がけで唐で流行していた文物をいっぱい持って帰ってました。危険な旅立ちの前に祈願して身代わりとして捨てたか奉納した人形や陶器も展示されていました。博多玄界灘にもそんなものを奉納していた神社がありましたね。

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