カロリング朝フランク王国が東フランク(ドイツ)、西フランク(フランス)、中央フランク(イタリア)に分裂したとき、のちのカペー朝、ロベール家は主君を西フランク王に決めて、東フランクから移住してきました。おりしもデンマークからノルマンディーにノルマン人が侵略をしていた時代。西フランク王を立てて獅子奮迅の活躍を果たしましたが、死守できたのは虫食いだらけの小国がやっとでした。987年ユーグ・カペーが父の遺訓「フランス王にだけはなるなよ」に反して、うっかり据え膳(フランス王位)に手を出してしまってからの苦労は並大抵ではありませんでした。こんな損な役回りは東フランク王にさせておいたらどうだのご意見もちらほら。
首都パリを北から時計回りに、ヴェルマンドア伯、アルトア伯、フランドル伯、エノー伯、シャンパーニュ伯、ブルゴーニュ伯、トゥーレーヌ伯、アキテーヌ伯、ポアトゥ伯、ブロア伯、メーヌ伯、アンジュ伯、ブルターニュ伯、ノルマンディ伯がズラリと囲んでおり、いずれも「我こそはフランス王なり」とのたまう、とても気が置けない貴族たちでした。フランス王が期待したのは、身分の低い騎士階級の忠誠でした。ユーグのあとにつづく王たちは、親が決めた政略結婚の相手と離婚したり、重婚したり、政敵の王妃を略奪したり、離婚相手が政敵と再婚して戦争になったり、教皇から離婚・重婚を責められて破門され数年後ローマで「ごめんなさい」をしたり。若い頃は僧院という男だけの世界でまじめに勉強して、騎士となって(=成人して)国力増強を図っていたのもつかの間の出来事でした。当時、僧侶しか字の読み書きができませんでしたので、国王になって法律を公布するためには僧院に通うしかありません。
ビザンツ帝国のギリシャ人由来の名前を名乗ったフィリップ1世が第1回十字軍に参戦したくらいの成果しか収められませんでしたが、その子ルイ6世は反抗的な貴族を排除して、ガーランド家という腹心の部下を得ました。おごるガーランド家がルイ6世に反旗を翻すと、ヴェルマンドア伯ラウルと修道院長シュジェがガーランド家を破り、ルイ6世を補佐しました。ルイ6世は肥満王と呼ばれるくらい食欲が異常でしたが、高等法院など国家機関の整備をおこない、農業商業も栄え、パリも首都らしくなっていました。
ルイ7世はアキテーヌ公の娘アリエノールと結婚し、領土にアキテーヌを新たに加え領土拡大を図っていました。女性問題もなくやれやれと安堵したのもつかの間、教皇と大司教叙任権闘争を引き起こし、重臣ヴェルマンドア伯ラウルの再婚問題やらで、1141年ついにフランス国全体が破門されてしまい、国民は天国に行けなくなってしまいました。1147年第2回十字軍に参加しましたが、神聖ローマ帝国コンラート3世とウマが合わず聖地で別行動をとる始末。テンプル騎士団もコンラート3世を応援せず。アラブ軍にあっさり負けてしまいました。なんとルイ7世は王妃アリエノールのおじさんが治めていたアンティオキアを見捨てて、エルサレム参拝だけ済ませてあとはそそくさと帰国。当然1152年3月、アリエノールはルイ7世と離婚。5月にプランタジュネ家のアンジュ伯アンリと再婚してしまいました。ルイ7世はアキテーヌを失ったばかりか、政敵アンジュ伯、それもイングランド王を兼ねたプランタジュネ家にフランスの大部分を奪われてしまいました。
ルイ7世の子、カロリング朝血統の母親をもつフィリップ2世はプランタジュネ家アンリ相手に失地を回復していきました。アンリの息子アキテーヌ公リシャールは相続問題でアンリに反旗を翻し、フィリップ2世とともに父アンリを破り、イングランド王リチャード1世(獅子心王)となりました。スンニー派のアラブとシーア派のエジプトの反目がアラブ陣営の敗因だったわけで、まずアラブとエジプトを統一してから十字軍に戦いを挑んだサラディンが、1187年エルサレムを奪回。1189年神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス王フィリップ2世、イングランド王リチャード1世が別行動で第3回十字軍に参加しました。イングランド議会はユダヤ人に戦費の半分を負担させました。リチャード1世が聖地で捕虜となっているあいだに、フィリップ2世はそそくさと帰国し、リチャード1世の弟ジョンを抱き込んで領土拡大に努めました。が、リチャード1世が帰国するや占領地をすべて返還する羽目になりました。1199年失地王ジョンが即位。フィリップ2世のノルマン人王妃離婚問題で、フランス国民みんなが教皇インノセント3世に破門され、フランス人は死後天国へ行けなくなりました。ジョン王はフィリップ2世の臣下契約を結んでいましたが、女性問題を発端に契約違反を犯し戦争が起こり、負けて大陸の領土を失ってしまいました。教会を敵に回してしまったことで教皇を怒らせて、1208年イングランド国民が破門され、イングランド人も天国に行けなくなりました。信じられないような滑稽な時代ですね。1210年ジョン王はユダヤ人を拷問し銀貨を奪いました。1213年フランスはイングランドのリベンジを決議し、王妃の出身地デンマーク王に軍船をいっぱい借りて出航しようとした、まさにそのときジョン王はイングランドの国と国民を全部ローマ教皇に献上。喜んだ教皇インノセント3世は、フランス国民の破門を武器に、フランスに対し即時停戦命令を下しました。1214年大陸内のブヴィーヌの戦いで、フィリップ2世はジョン王と神聖ローマ皇帝オットー4世を破り、東西フランクの雌雄が決しました。1215年ジョン王は議会によって、国王の特権を制限する「マグナカルタ」に調印させられ、廃位を要求されました。なんとフランス王フィリップ2世の子ルイ(=のちのルイ8世)がイングランド王にご指名。1216年王子ルイはイングランドに上陸し、イングランド王位を強奪しようとしましたが、ジョン王が死んでアンリ3世が即位するやいなや、フランス王子ルイを応援していたイングランド貴族は手のひらを返すようにアンリ3世を応援。ルイは1217年リンカーンの戦いに敗北してフランスに帰国しました。1215年、教皇インノセント3世は第4ラテラン公会議にて、ユダヤ人が利子を取ることを禁じ、円錐帽をかぶるかユダヤ人章を付けることを強制しました。
王子ルイは1223年即位しルイ8世となりました。1226年アルビジョア十字軍と呼ばれる、異端カタリ派を信じるラングドック(=フランス・スペイン国境)遠征中に赤痢にかかって病死。その子ルイ9世(=聖王)が即位し、1229年父の遺志を継いでラングドックを制圧しました。列聖されるだけあって、清貧をモットーとした質素な私生活で、他の貴族にも質素を促しましたが成功せず。ユダヤ人の経済活動停止、転職、国外追放を終生模索しました。十字軍ブームに伴う虐殺や国外追放などによって人口減少をきたしたユダヤ人に代わって、イタリアのロンバルディア人が銀行業を担当しました。カタリ派の本拠地エジプトへの十字軍派遣命令が教皇によって下されましたが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は躊躇していました。聖王ルイがフリードリヒ2世に代わって、エジプトに十字軍を二度派遣しましたが、いずれも敗北し、ペストにかかって病死しました。
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