ヨーロッパのあけぼの
まだヨーロッパ3雄、ドイツ、フランス、イギリスの国境がなかった群雄割拠の時代。476年広大な西ローマ帝国が滅んで小国に分裂し、バルカン半島に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、イタリアにオドアケルの国、493年からオドアケルに替わり東ゴート王国がイタリアを支配し、北フランスにフランク王国、南フランス・スイスにブルグンド王国、西フランス・スペインに西ゴート王国がありました。イエスが死んで450年あまり。新約聖書がさまざまに解釈され、父・子・聖霊(白い鳩が聖霊のシンボル)が三位一体だとするアタナシウス派、父のみを創造主とするアリウス派、イエスは神であるときと人間であるときが別々で、同時にではないとするネストリウス派(景教)、イエスは神であって人間ではないとする単性説などが諸説唱えられていました。ローマ教皇が催す公会議で、アタナシウス派が正しくて、あとは異端だと決議されました。ところが、ローマをとりまく国々はみな異端説を信じており、ローマは西ローマ帝国に替わる新しい庇護者を求めていました。
カトリックの秘蹟には、罪を洗い清める水の洗礼と、聖霊による香油の洗礼とがあります。アリウス派は水の洗礼だけを受けており、アタナシウス派に改宗するためには、新たに香油の洗礼を受けなければなりません。メロヴィング朝の開祖クローヴィスはランスで香油の洗礼を受けました。後世百年戦争で、シャルル7世がランスで香油の洗礼を受けることに、ジャンヌダルクが執拗にこだわって、オルレアン解放のあとランス総攻撃をフランス軍に命令した理由は、クローヴィス以来の伝統を重んじていたからです。ジャンヌダルクを突き動かしたものは神のお告げであって、戦術ではありませんでした。
クローヴィスの父にしてフランク王であったキルデリク1世(463~481年即位)は、ブルグンド王国、ビザンツ帝国に数年間海外留学しました。そのとき息子クローヴィスも付き添っており、ブルグンド王の娘クロティルドとビザンツで知り合い結婚しました。母親も王妃もアタナシウス派であり、496年クローヴィス1世がアリウス派からアタナシウス派に改宗したのは自然の成り行きでした。当時は今のように生まれてすぐに洗礼を受けるのではなく、物心がついてキリスト教について十分勉強をしたのちに洗礼を受けるのが通例でした。クローヴィス(481~511年即位)はローマ教会、フランスに散らばる司教と巧みに親交を結んで、まわりの異端・蛮族を支配するべきだという大義名分が形成されました。「ダヴィンチコード」によれば、イエスがマグダラのマリアに残した一粒種の子孫と、クローヴィスが結婚したことで周辺のライバル国の敬意を集めたんじゃないかという憶測もあるようです。フランク王国は周辺国に比べ、とても小さな国でした。クローヴィスがパリを建設したことは覚えておきましょう。
クローヴィスは506年トルビアックの戦いで異教徒のアラマン族を破り、507年ヴイエの戦いでアリウス派の西ゴート王アラリックを破り、イベリア半島に西ゴートを封じ込め、アタナシウス派のフランク王国はガリアを統一することができました。アラリックと同盟していた、アリウス派の東ゴート王テオドリックはビザンツ帝国の侵略(←ローマを取り戻すことがビザンツ帝国の悲願だった)を防がなくてはならず、西ゴート王アラリックもイベリア半島で暮らしていた、アタナシウス派を信じるローマ人残党の内乱を鎮圧しなくてはならなかったことが敗因となりました。幼い頃からビザンツに馴れ親しんでいたクローヴィスは、ビザンツ皇帝アナスタシウスにガロ・ローマ人(ガリアのローマ人、つまりビザンツ市民と同格)という承認を得て同盟を結び、ブルグンド王国を挟撃する体勢を築きました。ちなみに、このブルグンド族がスイスの建国者です。
クローヴィスがパリで死んだ後、4人の息子に領土が4分割されました。長男テイデリクはランス、次男クロミドールはオルレアン、3男キルデベルトはパリ、4男クロタールはソワソンを治めました。相続争いが激化して、4男クロタールの家系がメロヴィング朝を継承することになりましたが、兄弟相続争いは絶えませんでした。その結果、フランク王国国内に東のアウストラシア、西のネウストリア、南のブルグンドという3つの王国が並立していました。
この3国を統一できたのは、アウストラシア王統を廃したネウストリアのクロタール2世(613~629年)、ダゴベルト1世(629~639年)の治世だけでした。とくにアウストラシアでは宮宰による権力争いが激化しました。当時の身分制度では、伯・司教→宮宰→国王の上下関係でした。伯と司教が共同して地方都市や農村を治め、伯は住民を裁判し住民に課税し、司教はカトリックの権威とネットワークをバックに、国王に対し地方行政のご意見番となりました。他部族の土地には伯でなく大公が置かれました。宮宰は大蔵省財務大臣みたいなもので、宮宰グリモアルド、宮宰ヴォルフォアルドゥス、宮宰エブロインによって一時期、国王の実権までも奪われていました。政敵ヴォルフォアルドゥスの死後、アウストラシア大公ピピン2世が復権しました。680年ボアデュフェの戦いで、ピピン2世は、テウデリク3世を擁するエブロインに敗れました。しかしエブロインがネウストリア貴族によって暗殺されたため、強運がまだ味方していました。687年テルトゥリーの戦いで、ピピン2世はネウストリア・ブルグンド王国を破り、テウデリク3世のもと、アウストラシア宮宰に就任。再び3国が統括されましたが、以後何代かつづくメロヴィング朝国王たちはピピン一門の操り人形となりました。732年ピピン2世の子、宮宰カールマルテルが、侵略してきたサラセン軍をトゥールポアティエの戦いで破りました。
司教は十分の一税によって莫大な金を徴収管理していました。それに対し国庫は常に不足していましたので、国王は地方都市に直接税や間接税をかけようとしました。住民の猛反対を受け入れて、国王のそんな動きを司教は封じてきましたが、国王に代わって中央実権を掌握した宮宰は司教を任命する権利を獲得し、自分の息のかかった司教を地方都市に置くことに成功しました。カールマルテルは蓄積された司教の財産を存分に政治に利用しましたが、怒るローマ教皇へのご機嫌取りも忘れませんでした。修道院建設や聖人・聖遺物崇拝を積極的に推進しました。751年メロヴィング朝最後の王キルデリク3世が、宮宰身分であったカロリング朝開祖ピピン3世によって罷免されました。756年ピピン3世は、ランゴバルド族が建てたランゴバルド王国から奪った土地を教皇ステファヌス2世に与え、教皇領としました。その子カール(シャルルマーニュ)が教皇レオ3世からローマ皇帝の王冠を授かり、カール大帝となり、周辺国から文化人を招来しカロリングルネサンスを迎えることとなりました。
メロヴィング朝フランク王国は、アウストラシア、ネウストリア、ブルグンドの3分国で成り立っていました。ブルターニュ、アレマニア、プロヴァンス、アキテーヌ、ガスコーニュをはじめ現在ドイツのバイエルン、チューリンゲン、ヘッセンも内包していました。強大な西ゴート王国、東ゴート王国、あとから来たランゴバルド王国と隣接しており、サラセン帝国とも一戦を交え、北方には異教徒のフリーセン人、イングランドや神聖ローマ帝国を建国したザクセン人、そしてなんとモンゴル・トルコ来襲から逃れてきたスラブ人とも国境を接していました。ローマ帝国を手本にした政治組織でしたが、ゲルマン特有の土着嗜好が強く、地中海に面する南部ではなく、地元の北部に拠点を置きました。ゲルマンの風習で、初期の頃、国王はこどもに領土を平等分配していましたが、内紛が激しく、後期に宮宰が実権をもつようになると、一国としてまとまっていこうとする動きが強くなりました。カロリング朝フランク王国は、教皇からローマ帝国の後継者として承認されましたが、ゲルマンのいつもの癖で、東フランク(ドイツ)、西フランク(フランス)、中央フランク(イタリア)に3分裂しました。しかし、二度と一つにまとまることはありませんでした。東フランク王国が神聖ローマ帝国として帝位を継承しました。あまり知られていませんが、ナポレオンはフランク王国の衣装を着て皇帝となり、彼のめざす理想はローマ帝国というよりフランク王国でした。現在、EUは古き良きフランク王国を再び実現させようとしているのかもしれません。そしていつもの癖が出れば、EUは再び分裂するでしょう。
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