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2010年3月30日 (火)

ヨーロッパのあけぼの

まだヨーロッパ3雄、ドイツ、フランス、イギリスの国境がなかった群雄割拠の時代。476年広大な西ローマ帝国が滅んで小国に分裂し、バルカン半島に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、イタリアにオドアケルの国、493年からオドアケルに替わり東ゴート王国がイタリアを支配し、北フランスにフランク王国、南フランス・スイスにブルグンド王国、西フランス・スペインに西ゴート王国がありました。イエスが死んで450年あまり。新約聖書がさまざまに解釈され、父・子・聖霊(白い鳩が聖霊のシンボル)が三位一体だとするアタナシウス派、父のみを創造主とするアリウス派、イエスは神であるときと人間であるときが別々で、同時にではないとするネストリウス派(景教)、イエスは神であって人間ではないとする単性説などが諸説唱えられていました。ローマ教皇が催す公会議で、アタナシウス派が正しくて、あとは異端だと決議されました。ところが、ローマをとりまく国々はみな異端説を信じており、ローマは西ローマ帝国に替わる新しい庇護者を求めていました。

カトリックの秘蹟には、罪を洗い清める水の洗礼と、聖霊による香油の洗礼とがあります。アリウス派は水の洗礼だけを受けており、アタナシウス派に改宗するためには、新たに香油の洗礼を受けなければなりません。メロヴィング朝の開祖クローヴィスはランスで香油の洗礼を受けました。後世百年戦争で、シャルル7世がランスで香油の洗礼を受けることに、ジャンヌダルクが執拗にこだわって、オルレアン解放のあとランス総攻撃をフランス軍に命令した理由は、クローヴィス以来の伝統を重んじていたからです。ジャンヌダルクを突き動かしたものは神のお告げであって、戦術ではありませんでした。

クローヴィスの父にしてフランク王であったキルデリク1世(463~481年即位)は、ブルグンド王国、ビザンツ帝国に数年間海外留学しました。そのとき息子クローヴィスも付き添っており、ブルグンド王の娘クロティルドとビザンツで知り合い結婚しました。母親も王妃もアタナシウス派であり、496年クローヴィス1世がアリウス派からアタナシウス派に改宗したのは自然の成り行きでした。当時は今のように生まれてすぐに洗礼を受けるのではなく、物心がついてキリスト教について十分勉強をしたのちに洗礼を受けるのが通例でした。クローヴィス(481~511年即位)はローマ教会、フランスに散らばる司教と巧みに親交を結んで、まわりの異端・蛮族を支配するべきだという大義名分が形成されました。「ダヴィンチコード」によれば、イエスがマグダラのマリアに残した一粒種の子孫と、クローヴィスが結婚したことで周辺のライバル国の敬意を集めたんじゃないかという憶測もあるようです。フランク王国は周辺国に比べ、とても小さな国でした。クローヴィスがパリを建設したことは覚えておきましょう。

クローヴィスは506年トルビアックの戦いで異教徒のアラマン族を破り、507年ヴイエの戦いでアリウス派の西ゴート王アラリックを破り、イベリア半島に西ゴートを封じ込め、アタナシウス派のフランク王国はガリアを統一することができました。アラリックと同盟していた、アリウス派の東ゴート王テオドリックはビザンツ帝国の侵略(←ローマを取り戻すことがビザンツ帝国の悲願だった)を防がなくてはならず、西ゴート王アラリックもイベリア半島で暮らしていた、アタナシウス派を信じるローマ人残党の内乱を鎮圧しなくてはならなかったことが敗因となりました。幼い頃からビザンツに馴れ親しんでいたクローヴィスは、ビザンツ皇帝アナスタシウスにガロ・ローマ人(ガリアのローマ人、つまりビザンツ市民と同格)という承認を得て同盟を結び、ブルグンド王国を挟撃する体勢を築きました。ちなみに、このブルグンド族がスイスの建国者です。

クローヴィスがパリで死んだ後、4人の息子に領土が4分割されました。長男テイデリクはランス、次男クロミドールはオルレアン、3男キルデベルトはパリ、4男クロタールはソワソンを治めました。相続争いが激化して、4男クロタールの家系がメロヴィング朝を継承することになりましたが、兄弟相続争いは絶えませんでした。その結果、フランク王国国内に東のアウストラシア、西のネウストリア、南のブルグンドという3つの王国が並立していました。

この3国を統一できたのは、アウストラシア王統を廃したネウストリアのクロタール2世(613~629年)、ダゴベルト1世(629~639年)の治世だけでした。とくにアウストラシアでは宮宰による権力争いが激化しました。当時の身分制度では、伯・司教→宮宰→国王の上下関係でした。伯と司教が共同して地方都市や農村を治め、伯は住民を裁判し住民に課税し、司教はカトリックの権威とネットワークをバックに、国王に対し地方行政のご意見番となりました。他部族の土地には伯でなく大公が置かれました。宮宰は大蔵省財務大臣みたいなもので、宮宰グリモアルド、宮宰ヴォルフォアルドゥス、宮宰エブロインによって一時期、国王の実権までも奪われていました。政敵ヴォルフォアルドゥスの死後、アウストラシア大公ピピン2世が復権しました。680年ボアデュフェの戦いで、ピピン2世は、テウデリク3世を擁するエブロインに敗れました。しかしエブロインがネウストリア貴族によって暗殺されたため、強運がまだ味方していました。687年テルトゥリーの戦いで、ピピン2世はネウストリア・ブルグンド王国を破り、テウデリク3世のもと、アウストラシア宮宰に就任。再び3国が統括されましたが、以後何代かつづくメロヴィング朝国王たちはピピン一門の操り人形となりました。732年ピピン2世の子、宮宰カールマルテルが、侵略してきたサラセン軍をトゥールポアティエの戦いで破りました。

司教は十分の一税によって莫大な金を徴収管理していました。それに対し国庫は常に不足していましたので、国王は地方都市に直接税や間接税をかけようとしました。住民の猛反対を受け入れて、国王のそんな動きを司教は封じてきましたが、国王に代わって中央実権を掌握した宮宰は司教を任命する権利を獲得し、自分の息のかかった司教を地方都市に置くことに成功しました。カールマルテルは蓄積された司教の財産を存分に政治に利用しましたが、怒るローマ教皇へのご機嫌取りも忘れませんでした。修道院建設や聖人・聖遺物崇拝を積極的に推進しました。751年メロヴィング朝最後の王キルデリク3世が、宮宰身分であったカロリング朝開祖ピピン3世によって罷免されました。756年ピピン3世は、ランゴバルド族が建てたランゴバルド王国から奪った土地を教皇ステファヌス2世に与え、教皇領としました。その子カール(シャルルマーニュ)が教皇レオ3世からローマ皇帝の王冠を授かり、カール大帝となり、周辺国から文化人を招来しカロリングルネサンスを迎えることとなりました。

メロヴィング朝フランク王国は、アウストラシア、ネウストリア、ブルグンドの3分国で成り立っていました。ブルターニュ、アレマニア、プロヴァンス、アキテーヌ、ガスコーニュをはじめ現在ドイツのバイエルン、チューリンゲン、ヘッセンも内包していました。強大な西ゴート王国、東ゴート王国、あとから来たランゴバルド王国と隣接しており、サラセン帝国とも一戦を交え、北方には異教徒のフリーセン人、イングランドや神聖ローマ帝国を建国したザクセン人、そしてなんとモンゴル・トルコ来襲から逃れてきたスラブ人とも国境を接していました。ローマ帝国を手本にした政治組織でしたが、ゲルマン特有の土着嗜好が強く、地中海に面する南部ではなく、地元の北部に拠点を置きました。ゲルマンの風習で、初期の頃、国王はこどもに領土を平等分配していましたが、内紛が激しく、後期に宮宰が実権をもつようになると、一国としてまとまっていこうとする動きが強くなりました。カロリング朝フランク王国は、教皇からローマ帝国の後継者として承認されましたが、ゲルマンのいつもの癖で、東フランク(ドイツ)、西フランク(フランス)、中央フランク(イタリア)に3分裂しました。しかし、二度と一つにまとまることはありませんでした。東フランク王国が神聖ローマ帝国として帝位を継承しました。あまり知られていませんが、ナポレオンはフランク王国の衣装を着て皇帝となり、彼のめざす理想はローマ帝国というよりフランク王国でした。現在、EUは古き良きフランク王国を再び実現させようとしているのかもしれません。そしていつもの癖が出れば、EUは再び分裂するでしょう。

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2010年3月12日 (金)

ビザンツ帝国、十字軍、百年戦争

中世ヨーロッパ探訪が最近のマイブームです。イギリスの王様が地元の英語ではなくフランス語を話し、自分をフランス人と思っていましたし、フランス王位を要求しました。デンマークからフランスに入植し、フランス王から王位を受け、イングランドを征服したノルマン人が、フランスに獲得していて失った領土を再び回復しようとした戦いが、百年戦争と後世呼ばれました。1066年ノルマンディー公ギョームがヘイスティングスの戦いでイングランド王ハロルド2世を打ち破り、諸国の王や側近をノルマン人で固め、ウェールズ王やスコットランド王と対峙しました。そのひ孫アンジュ伯がフランス大陸にアンジュ帝国を建国。アンリ2世としてフランス大半とイングランドを治めました。寛容、勇気、礼節、誠実、清貧、弱者保護などをモットーとした騎士道精神を捨てた騎士が一時的な給料を受け取って傭兵となり、自分の戦果は自分で取らなければならないということで、「騎行」と称する略奪行為に走りました。フランスの村々を襲って、強盗、強姦、誘拐を繰り返しました。本来、騎士は戦いに臨んだからには死ぬまで馬から降りませんでした。馬から降りるということは歩兵と同じ地位に落ちることで、恥とされました。かの英仏百年戦争でも、イギリス軍は広大なフランスを一度に攻めず、騎行をしてフランス軍が現れるのを待ち構えていました。フランス軍は伝統を守る騎士主体で人馬一体になって戦い、イギリス軍は傭兵主体で馬から降りて弓矢を大量に撃ってフランス軍に圧勝しました。弓矢相手では馬が暴れます。イギリス・エドワード3世vsフランス・フィリップ6世の頃の話です。当時のフランス王家本流は、最後の第8回十字軍に参加し、モンゴル帝国イル汗国と対峙した聖王ルイ9世を輩出したカペー朝が倒れ、ヴァロア朝に政権が移ったばかりで弱力でした。

領主は自分の領土からしか税金を取れなかった時代でしたが、フランス・シャルル5世はフランスのために自分は働いているのだからと、三部会を巧みに招集し国税を認めさせ、他の諸侯からも税金を納めさせました。戦争がないと職を失うから傭兵は悪事を働くのだ。常備軍を募集して平時も給料を出せばいいのではないか。こういうわけでフランス軍は常備軍を有する近代的な軍隊に生まれ変わり、イギリスに連勝しました。愚王シャルル6世の失政と、英語しか話せずイギリス人としてのナショナリズムに目覚めたイギリス・ヘンリー5世の活躍で、フランスはヘンリー5世にフランス王位を与え、イギリスに滅ぼされる寸前まで行きましたが、オルレアンのジャンヌダルクの一発逆転劇。イギリスとの毛織物交易がさかんでフランス王家に反旗を翻していたブルゴーニュ公に捕縛され、火刑に処せられました。フランス・シャルル7世は、フランス南部・アルマニャック伯の支持を得ており、パリ市民から田舎者扱いされ不評でした。パリ市民の抵抗にあってパリ入城はなかなか果たせませんでしたが、フランス・シャルル7世はアルマニャック伯と対立していたブルゴーニュ公フィリップを撃破し、親イギリス派だったブルターニュ公(=もともとアンジュ帝国の領土だった)もフランス人としてのナショナリズムに目覚め、フランス王を支持し、フランス圧勝のうちに百年戦争が終結しました。その後のブルゴーニュ公フィリップは、神聖ローマ帝国の庇護の下、フランドル地方を治め、カトリック遵守の金羊毛騎士団を設立しました。金羊毛騎士団はハプスブルク家に引き継がれ、その歴代皇帝が金羊毛騎士団の正装をして肖像画に描かれています。

威風堂々 http://www.youtube.com/watch?v=3XVFttMYdLg

ローマ帝国は古代に滅んだのではない。ビザンツ帝国として形を変えながら、ローマ人としてのプライドを忘れず、フランク王国、神聖ローマ帝国など一等の国王・皇帝たちから、皇帝のリーダーとして、1000年間敬意を表され続けた。純金のビザンツ金貨は中東からヨーロッパにかけて、商人たちの通貨として重宝がられ、ビザンツ絹織物は一級の輸出品であった。シルクロードの中継点であったため、世界じゅうの財宝が帝都コンスタンティノープルに集まった。エジプト・アレクサンドリアからイスラム・バクダッドやサマルカンドに継承されたヘレニズム文化がこのギリシャ人の地に逆流し、ビザンツ・ルネサンスとなった。これはイタリア・ルネサンスの源流であり、ヒューマニズム(人間中心主義)の泉であった。ビザンツ周辺のスラブ国家を育み、本流はロシアに受け継がれていった。

4世紀に起こったゲルマン民族大移動は高校教科書に記載されてよく知られておりますが、スラブ民族大移動についてはほとんど記載がなく、これではヨーロッパ東半分の歴史がわかりません。モンゴル高原を駆け回り、誇り高き中国漢民族と権謀術数の死闘を繰り広げた騎馬民族(モンゴル人・トルコ人)がヨーロッパに来襲し、土着のスラブ人、フランク人、アラブ人、ペルシャ人を恐怖のどん底に陥れました。4世紀にはトルコ系匈奴のフン族が東欧に来襲しフン帝国建国。6世紀にはモンゴル人のアヴァール人が来襲し、アヴァール汗国建国。6世紀後半にはトルコ系のブルガール人が来襲し、ブルガール王国(いまのブルガリア)を建国。9世紀にはデンマークやスウェーデンからデーン人やノルマン人(バイキング)が来襲し、両シシリー王国を建国。カスピ海沿岸からウラル語族のマジャール人が来襲し、ハンガリーを建国。13世紀にはチンギスカンの子孫バトゥがヨーロッパ来襲し、キプチャク汗国建国。土着のスラブ人は623~654年サモの国と呼ばれる商人の国を作るも、アヴァール汗国に滅ぼされ、やがて大モラヴィア国としてスラブ人独立を果たしましたが、マジャール人に滅ぼされました。

ガリアから政敵を打ち破り皇帝にのぼりつめたコンスタンティヌス帝が313年ミラノ勅令により、キリスト教を公認。314年アルル公会議にて軍務を放棄した兵を破門した。325年ニケーア公会議にてアリウス派を異端とし、父・子・聖霊の三位一体を説くアタナシウス派が正統とされた。332年コロヌス土地緊縛令によって農民の移住を禁じた。彼は決して慈悲のクリスチャンではなく、キリスト教を利用した野心家にすぎなかった。395年テオドシウス帝のときローマ帝国が東西分裂。410年西ローマが西ゴート・アラリックに一時占拠された。413年テオドシウス2世がコンスタンティノープルの頑丈な城壁を完成させた。418年西ゴート・ワリアがイベリア半島(=スペイン)にいたヴァンダル族を駆逐して西ゴート王国建国。スペインにはプレロマネスク建築が現存する。439年ヴァンダル・ガイセリックが北アフリカ・カルタゴにヴァンダル王国建国。447年フン族(匈奴?)アッティラがトラキア・マケドニアを占拠。同年、城壁を大修復。476年西ローマはオドアケルにより滅亡。東ローマ・ゼノン帝がオドアケルから帝位を譲り受けた。493年東ゴート・テオドリックがオドアケルを倒し、東ゴート王国建国。527年農民からユスティニアヌス帝が即位。トリボニアヌスの「ローマ法大全」、ヨハネスの「空中税」など、市民に不評で532年競馬場でニカ(=勝利せよ)の乱が起きたが鎮圧。名将ベリサリウスがヴァンダル王国、東ゴート王国を滅ぼし、地中海を制覇。ヘラクレイオス帝のとき、テマ制を敷き、小作農民に土地を与え自作農民にする代わりに兵役を課した。613年ササン朝ペルシャがエルサレムを奪ったが、627年ニネヴェの戦いでエルサレム奪回。サラセン帝国ウマルが636年ヤルムークの戦いでエルサレムを奪い、641年ネハーベントの戦いでササン朝を倒した。エルサレムは十字軍派遣までイスラム教徒の手におちた。

985~1018年ブルガリア王国との死闘でバシレイオス2世は勝利をおさめ、ユスティニアヌス帝以来の広大な領土を獲得した。所得格差拡大が社会問題となったが、アレレギュオン税制を敷き、金持ちに貧民の税金の肩代わりをさせて切り抜けた。1054年ローマ教皇レオ9世のときローマ教会が東西分裂。ギリシャ正教は教皇と袂を分かった。相次ぐ海外遠征で農業ができず貧困化した農民が土地を抵当にいれ、地方貴族に借金し再び小作化し、地方貴族は皇帝の出兵命令に従わず、国家の軍事力が目だって弱くなった。また金貨悪鋳、国債乱発(=官僚の身分売却)によって国家財政は傾いていた。1081年アレクシオス1世はプロノイア制を敷き、農民を多数抱える地方貴族の自治権を認める代わりに兵役を課した。またヴェネツィア海軍を得る代わりに、ヴェネツィア商人に対し帝国内商業活動を免税した。デフォルト(=債務放棄)によって、債権として売られていた旧官僚を廃止した。

1074年教皇グレゴリウス7世がビザンツ帝国をイスラムから救援し、あわよくば東西教会の統一をにらんだ十字軍を計画。元来戦争は罪深いものだが、神のための戦争なら罪はないという聖戦を発想したのがこのグレゴリウス7世であった。1077年十字軍派遣の依頼先であった神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と聖職者叙任権問題で決裂し破門。カノッサの屈辱でハインリヒ4世の破門を解いた。1078年ミカエル7世がニケフォロス3世に帝位を奪われ、ローマに亡命し教皇に援軍を求めた。1081年ニケフォロス3世がアレクシオス1世に帝位を奪われ、ビザンツ帝国とミカエル7世亡命軍とのあいだに戦争が勃発。1084年アレクシオス1世はハインリヒ4世に応援を求め勝利。ハインリヒ4世はグレゴリウス7世を罷免し傀儡教皇クレメンス3世を擁立してカノッサの屈辱の恨みを晴らした。カノッサの屈辱はイタリア領土拡大を狙った神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の猿芝居だったという説もある。1086年憤死したグレゴリウス7世のあとを継いでビクトル3世が教皇となり、ローマのクレメンス3世と教皇が2人並立した。ビクトル3世が早死にしたので、1088年ウルバン2世が教皇となる。1093年教皇ウルバン2世はビザンツ皇帝アレクシオス1世を神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世から寝返らせることに成功し、ローマを奪回し教皇クレメンス3世をローマから追放した。1095年アレクシオス1世からのたっての願いとローマ教皇として返り咲きのお礼の意味を込めて、教皇ウルバン2世がクレルモン公会議でビザンツ帝国への十字軍派遣を決議し、諸国を遊説した。第1回十字軍の目標は、セルジュークトルコからのビザンツ帝国防衛増強であって、エルサレム奪回もついでにできたらいいなくらいであった。このとき贖宥を約束した。つまり罪を犯せば神から罰を受けなければならないのだが、十字軍に従軍すれば罰を許してもらえると宣伝したのだ。新興宗教の教祖様が民衆十字軍を起こし導いて、ユダヤ人を虐殺しながらドイツ国内を行進し、最後はハンガリー王の鎮圧でおさまった。ヴェネツィア商人は十字軍の輸送船で巨万の富を築いた。1099年エジプト・マムルーク朝を破り、エルサレム王国建国。1100年フランスから20万人入植者がエルサレムに向かったが、アラブ人ゲリラに虐殺。巡礼者を平等に看護するため、1113年聖ヨハネ騎士団(=病院)が創設され、教皇パスカリス2世より非課税が保障された。大人気で西欧とエルサレムで多額の贈与を受けた。巡礼者を護衛するため、1118年テンプル騎士団が創設された。これも大人気で西欧とエルサレムで多額の贈与を受けた。1128年教皇から正規の騎士修道会として公認され、メンバーが9人→300人→15000人と激増し、軍事だけでなく巡礼者の金庫番も果たし、富を築いた。1139年教皇インノセント2世より非課税が保障され、財産はどう使おうと干渉を受けることはなかった。1154年聖ヨハネ騎士団会員から、1163年テンプル騎士団会員から各々司祭を輩出した。司祭とはカトリック教高僧のことで、ミサ(儀式)でパンとブドウ酒を掲げ、祝詞を唱えた瞬間にキリストの体と血に聖別し(=変化させ)、パンを信者の口に与え(小さなかけらもキリストの体であるから信者はパンに触れてはいけないとされる)、罪の告白・懺悔に対し赦しを与える(=告解)のが務め。教皇の叙任によって司祭を正会員から出すということは、秘密結社の色がより濃くなることを意味する。また「カノッサの屈辱」とか「アナーニ事件」は、国王の方が偉いか、それとも教皇の方が偉いかという二者択一の闘争であった。

ところがである。1303年聖職者に課税したアナーニ事件で教皇ボニフェイス8世を幽閉した、カペー朝・フランス王フィリップ4世は、1307年テンプル騎士を逮捕。1312年フィリップ4世の傀儡教皇クレメンス5世は、テンプル騎士団を異端として処刑解散し、財産を没収した。フランス人やイタリア人がメンバーに多いためドイツ嫌いで、敵のイスラムと通商していた、実利主義的なテンプル騎士団が、神の栄光のために戦うという非実利主義的な聖ヨハネ騎士団と足並みを揃えなかったことが十字軍の敗因だという世論が強まったことがこの事件の背景にあった。フィリップ4世の男児はみな早死にし、カペー朝は滅び、摂政ヴァロア伯に王権が遷された。フランス国王とローマ教皇を恨み呪ったテンプル騎士団がフリーメイソンとして存続したと言われるが、にわかに信じがたい。国王の正規軍が次々と敗北し、全軍や家族や信者が絶望の淵に立たされたときも、最後まで希望を失わず励ましあい勇敢に戦った、不器用で一途なテンプル騎士団とどうしても結びつかない。テンプル騎士団は正統な信仰を貫いていたと思う。フリーメイソンは彼らとは異質のもので、理性の神を崇拝し、世界中の革命を指導し、自然科学研究を牽引し(=原子爆弾、遺伝子工学、クローン再生)、全世界のグローバル化(=債務奴隷化)を狡猾に推進している。

史上最強の大教皇インノセント3世が1202年第4回十字軍を派遣。ヴェネツィア商人は、亡命してきた皇太子アレクシオスの傀儡政権を作りたくて十字軍を動かした。十字軍の資金はアレクシオスが出すという約束で、エルサレム奪回よりトルコ人との商売を優先し、ギリシャ正教を国教とするビザンツ帝国を攻撃した。ビザンツ市民たちはクーデターを起こしアレクシオスを殺害。コンスタンティノス・ラスカリスを皇帝として選出した。そのかいなく翌日、十字軍によってビザンツ帝国は滅亡。十字軍に参加していたフランスの一諸侯にすぎないフランドル伯(現ベルギー)ボードゥアンが、選挙によって皇帝に選出され、1204年インノセント3世支配下のラテン帝国を打ち立てた。政局は不安定で、ブルガリア人がボードゥアンを討ち、その弟アンリが周辺国に亡命したギリシャ人と同盟を結んでブルガリア人を討ちリベンジ。コンスタンティノス・ラスカリスの弟、テオドロス・ラスカリスが1204年ニケーア帝国建国。1222年テサロニケ、マケドニアを奪取。ニケーア皇帝ミカエル・パライオロゴスが、ジェノヴァ商人の援助で1261年ラテン帝国を滅ぼし、ビザンツ帝国が復興した。この裏にヴェネツィアvsジェノヴァの商戦があった。

ヴェネツィア、ジェノヴァ、オスマントルコに、政治的にも経済的にも従属したパライオロゴス朝だったが、自分たちのルーツ、古代ギリシャの研究がさかんになった。パライオロゴス朝ルネサンスがイタリアに輸出され、イタリア・フィレンツェのルネサンスとして開花した

テンプル騎士団、国境を越えて集いし一途な男たちの物語

http://www.youtube.com/watch?v=Y91iCxbSl4Y

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