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2010年2月22日 (月)

ウィーン会議 「会議は踊る、されど進まず」

スイスの地方豪族にすぎなかったハプスブルク家。大空位時代を反省し1356年、神聖ローマ皇帝カール4世が金印勅書を発布。ボヘミア王(=チェコ)、ファルツ伯(=フランスとの境界)、サクソニア伯(=初代皇帝オットー1世を輩出した南ドイツにある国)、ブランデンブルク辺境伯(=ドイツ騎士団領と合併したプロイセン王)、マインツ大司教、トリエル大司教、ケルン大司教の7人から選挙で皇帝が択ばれることとなった。ハプスブルク家は帝国から半分独立したボヘミア王やイスラム教を奉ずるオスマントルコと死闘を繰り返し、ついにウィーン、ボヘミア周辺を支配した。ハプスブルク家お膝元のスイス農民が反乱を起こし、スイスは独立。スイスは外国に傭兵を売って収入を得た。15世紀から神聖ローマ帝国の皇帝位を独占した。プロイセンのフリードリヒ大王がもし生きていたら、ナポレオンは皇帝なんぞにならなかったと述懐している。そのナポレオンなきあとに国境線をどうするかで紛糾したウィーン会議であった。

プロイセン  フリードリヒヴィルヘルム3世、ハルデンベルク

オーストリア  フランツ1世、メッテルニヒ

ロシア  アレクサンドル1世、ネッセルローデ

イギリス カッスルレー   *国王は君臨すれど統治せず

最初、この戦勝国4カ国で国境を決めようとしたが、敗戦国フランスの外相タレイランが待ったをかけた。彼こそ、フランス革命5年前(1784年)にフリーメイソン・パリ支部(=ジャコバン・クラブ)を設置した超ど級の黒幕、裏切り者であった。周辺各国の要人と交流があり、マルチリンガルで、1794年、ジャコバン党による風紀粛清(=倫理に反する者をギロチン刑に処する)を察知するや、浮気者のタレイランは海外亡命。革命後ナポレオン独裁に貢献し、外相を務めた。ロシア遠征の2年前(1810年)、アレクサンドル1世にナポレオン攻略を進言し、フランツ1世にマリールイーズの輿入れを進言した。計画通りナポレオンは倒れ、タレイランが再び歴史の表舞台に立つこととなった。

1805年、トラファルガー海戦で、ナポレオン率いるフランスは、ネルソン率いる宿敵イギリスに敗北。しかしアウステルリッツ三帝会戦でオーストリア・ロシア連合軍を破った。1806年、大陸封鎖令によってイギリス経済を困らせようとしたが、産業革命を経たイギリスには蚊にかまれた程度。困ったのはヨーロッパ、とくにロシアであって、密輸がおこなわれた。王様を抱えるドイツ諸国をひっくるめてライン同盟を結成させ、ナポレオンが盟主となり、ハプスブルク家は、神聖ローマ帝国の皇帝位をわたすことになった。皇帝は2人あってはならないからだ。ポーランド、イタリアなど多くの領土を奪われたが、オーストリア皇帝を名乗ることだけはかろうじて許された。1791年フランス革命によってユダヤ人にフランス人と同等の権利義務が与えられ自由解放されたが、1806年ナポレオンによりユダヤ人に再び圧力がかけられた。1807年、イエナでプロイセンを破り、フリートラントでロシアを破った。1809年、オーストリアがフランスに抵抗。マリアテレジア所縁のシェーンブルン宮殿から的をはずしながら、ウィーンに向けてナポレオンが大砲の弾を降らせウィーン入城。アスペルンの戦いで、カール大公率いるオーストリア軍に敗北。ナポレオンは陸上戦で初めて敗北を喫しヨーロッパ中が驚いた。ワグラムの戦いで雪辱戦を臨み、オーストリアに辛勝。こどもの生めない、浮気妻ジョセフィーヌを離婚しつつあったころで、ハプスブルク家マリールイーズと1810年再婚した。1812年、ボロディノの戦いで冬将軍とロシアに敗北。1813年、ロシア、プロイセン、さらにタレイランとの密約で遅れ気味にオーストリアが参戦して、ライプチヒの諸国民戦争でフランスを撃破。1814年、勢いに乗る同盟軍がパリ占領。一番乗りのロシア皇帝アレクサンドル1世が勝手に、ポーランドいただきます宣言。ナポレオンはエルバ島の王として流刑。1815年2月ナポレオンがイギリス軍監視の目を盗んでエルバ島を脱出し、3月パリにはいり帝位につく。ウィーンにいた皇妃マリールイーズも呼び戻されるが、ナイペルク伯と浮気して子供までもうけていた彼女は恐れおののきフランスに行こうとはしなかった。6月ワーテルローの戦いでイギリス・プロイセンに敗北。セントヘレナ島に囚人として流刑。ナポレオンの百日天下と呼ばれる。フランスは、革命でかちとった共和制でなく、ルイ18世を擁する王制に逆戻りした。

ナポレオン直轄領だったポーランド(=ワルシャワ大公国)をロシアに譲るか、フランスに味方したザクセンをプロイセンが奪うか、イタリアや教皇領をどう分割するか、フランス領になっていたジュネーブをスイスに返還するのか、同じくフランス領になっていたベルギーをオランダ王国に併合するのか、そしてとくにドイツ諸国をどうまとめるかで揉めに揉めたウィーン会議だった。当初オーストリア、プロイセン、ハノーバー王国(=アン女王の死後、イギリス王室を輩出)、バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国の5つで話をまとめようとしたが、各国の思惑があって紛糾。メッテルニヒが放ったオーストリア秘密警察がスパイ活動をはたらき暗躍した。夜の交渉もお盛んだったようで、たとえばアレクサンドル1世がウィーン女性を連れ込んで思いを遂げようとするが、ことごとく寸止めを食らわされているとか、デンマーク国王がウィーン下町娘に入れ込んでいるというような報告が残っている。アルトハイデルベルクをかかえ、アレクサンドル1世の皇妃エリザベータの出身地であったバーデン大公国は、バイエルンやオーストリアから領土分割を迫られたが、なんとか踏みとどまった。肝心のバーデン大公ときたら女郎屋通いに明け暮れる始末。プリンスたちとプリンセスたちが開放的なウィーンの地でご乱交、最後の輝きを放った。国民の代表者らの夜の交渉は国益にも国害にもなったあまりの議事進行の遅さに耐えかねたプロイセンとロシアは武力制圧を図ろうとしたが、タレイランの暗躍でイギリス、フランス、オーストリアの秘密協定が成立。なんとか戦勝国間の戦争が回避できた。元テルミドール派・ジョセフ・フーシェの陰謀でナポレオンがエルバ島を脱出。ナポレオン討伐準備に忙しくなったため、短期間に多くの議題が議決できたのであった。当時のフランスには、ブルボン王朝を支持する王党派、親戚筋のオルレアン公を支持する一派、共和制維持を叫ぶジャコバン党の残党たち、やっぱりナポレオン一家が好きやねんというボナパルト派、共産主義者、社会主義者などが渦巻いていた。ナポレオンの流刑地をエルバ島からセントヘレナ島に移すことは、ウィーン会議で極秘に決定していた。ナポレオンの百日天下は、フリーメイソンが仕組んだ芝居といえるだろう。

ウィーン会議はもともとオーストリア・ハプスブルク家の接待ということで、外国貴賓たちの財布の紐は固く自腹を切ろうとはせず、ウィーンの物価が跳ね上がり、外国貴賓がお金をいっぱい落としてくれると期待していた市民たちからの不満が頂点に達していた。当然その矛先はハプスブルク家に向けられた。外国貴賓がオーストリア紙幣を硬貨に交換して帰国し、ウィーンに紙幣があふれたこともインフレの大きな原因だったようだ。インフレ対策として1816年ユダヤ資本の援助で、オーストリア国立銀行が設立された。

客を招いたホストが、客を接待するのがヨーロッパ流接待であったが、イギリス流接待は、客を招いておいてあとはご勝手にご歓談を式だったようで、馬鹿にされたと怒る殿方、姫から大変な不評を買っていたようだ。「これだから田舎者は・・・」という陰口を叩かれ、イギリスのパーティへの賓客も減っていった。マリアテレジア・ヨーゼフ2世の仮面舞踏会禁止令などによって風紀の乱れを抑圧されていた市民は、自由にウィンナーワルツが踊れて、貧しいながらも活気にあふれていた。大衆ダンスホールでは、ランガウス(Langaus)と呼ばれたワルツの原型を若い男女が踊り狂い、道端では、カスペルル(Kasperl)と呼ばれた道化師が猥談や駄洒落を披露して、ウィーン市民に大うけだった。

ウィーン舞踏会 

http://www.youtube.com/watch?v=MjLt_-dVWVw

http://www.youtube.com/watch?v=a_hRPlkhKTY

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2010年2月12日 (金)

THEハプスブルク展を観て

20100211 雨に煙る京都の街を歩いてきました。紅葉の名所、東福寺、清水寺、三十三間堂の近く、東山七条あたりに京都国立博物館があり、THEハプスブルク展を見に行ってきました。祝日だったのですが、雨のせいか5分待ちくらいの混み具合でした。

ハプスブルク家といえば、ドイツにあった神聖ローマ帝国の皇帝です。16世紀、カール5世はドイツとスペインの皇帝を兼ね、宿敵フランスを挟み撃ちする体勢を築きました。ほどなくドイツとスペインはハプスブルク家から別々の皇帝を立てましたが、スペインのフェリペ2世のとき、南米インカ帝国に対する植民地活動によって、金銀など莫大な富がスペインにもたらされ、「太陽の沈まない国」と呼ばれました。地中海制海権をめぐって、イギリス女王エリザベス1世との戦争に敗れてスペインは没落の一途をたどり、新教新興国オランダが主導権を握り、ウィーンの神聖ローマ帝国が息を吹き返し、18世紀後半、シレジアをめぐって、女帝マリアテレジアとプロイセン皇帝フリードリヒ大王との一騎打ちは壮絶でした。19世紀初頭、両者ともにあっさりとナポレオン皇帝に降参し、ナポレオン失脚後はドイツ領内に残るオーストリア領(=シュレスヴィヒ・ホルシュタイン)をめぐって、オーストリア・フランツヨーゼフと、ビスマルク率いるプロイセン・ヴィルヘルム1世が対立。プロイセンの勝利に終わりました。

Photo_2今回のメインは、フランツヨーゼフ王妃で、皇太子ルドルフが自殺し、自らも殺害された悲劇の母エリザベートのでっかい肖像画でした。愛称Sissi(シシィ)と呼ばれ、国民から愛されていました。貴婦人乗りで乗馬をこなし、写真が嫌いだったようです。姉に付き添いで来たのをフランツヨーゼフに見初められたそうです。ウィーンのヴィーナスといったところでしょうか。ぜひ、美しきシェーンブルン宮殿での「皇帝円舞曲」をご覧あれ。あと歴代の皇帝たちの肖像画が並べられていました。

カール6世が家族一人ひとりのために作らせたシャーベット用センターピースは、ロシア皇帝ニコライ2世のインペリアル・イースターエッグを思い出させました。滅亡の一途をたどる皇帝を最後まで味方するのは、結局、家族だけなのでしょう。冷蔵庫がない時代やし氷は貴重品。装飾の真珠はめったにとれない、もっと貴重品。

有名なエルグレコの受胎告知が飾られていました。白をうまく使って絵に緊迫感を描き出していました。有名どころのカール5世の盾、フェリペ2世の甲冑が展示されており、めったにない機会なもので見入ってしまいました。フェリペ2世の身長がえらく低いので驚きました。これでは飛び道具なくして、屈強なモンゴル人やトルコ人たちとまともに戦えないでしょう。

それにしてもドイツ絵画の色彩は暗い。カトリックによる搾取、魔女裁判、カトリックとプロテスタントとの長期戦、17世紀の三十年戦争で大量に死者を出した影響かな。人物画の顔に死相が出ていて、気味が悪い。あ~くら!ヨハン・シュトラウスのウィンナーワルツはあんなに明るいのに。

皇帝円舞曲(Kaiserwalzer)

http://www.youtube.com/watch?v=EhZ1yBzhBGc&feature=related

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2010年2月 6日 (土)

伝説の名著を読んで

高校世界史の担任教師から、これはいいぞと言われていながら、すでに絶版だったために読めなかった本を入手できました。

201002032034000_6よくわかる世界史  旺文社 昭和42年初版

鈴木 成高(すずき しげたか) 著 (第三高等学校教授)

明治新政府から戦前にかけての天皇陛下中心主義から、日本歴史学会が離脱を図りつつあるいま、日本史の記述内容は一変するはずです。だいたい古墳発掘が進めば、古代史に百済の歴史が織り込まれますし、源平合戦の真実、明治維新の真実、戦争の真実なども噴出するでしょう。しかし、世界史の記述や歴史評価は大雑把に捉えるもので、当分変わることはないはずです。地球半周向こうの詳しい事情など簡単にわかりませんし。

この本のはしがきに、こう書かれています。歴史は人間がつくったものなのだからわからないはずがない。わからないとすれば、ひとえに歴史を教える教師の教え方が悪いからだと。

たしかに、薄っぺらい山川出版社テキスト「詳説世界史」の記述は漠然としてわかりにくかった思い出があります。昔の教科書は分厚く、かえってわかりやすかったと聞きます。今回、読んでみて再認識したことを羅列してみたいと思います。

(1)アレクサンダー大王がギリシャ・オリエントを統一してできたのがヘレニズム文化であることは有名ですが、それと対立概念として、ユダヤ発祥のヘブライズム文化があった。イルミナティ(フリーメイソン)の世界統一国家思想(=グローバリゼーション)がヘブライズムの中軸です。キリスト教もヘブライズム文化のひとつで、ローマ帝国で二つの文化が融合した。

マイムマイム(古代イスラエル) 

http://www.youtube.com/watch?v=LeUEatFPdyk

(2)ギリシャ系ローマ人侵略によってスコットランドに逃げたケルト人と、侵略したアングロサクソンの混血でイングランドが形成され、さらにバイキングで知られるノルマン人が北進してイングランドを侵略したことは有名ですが、同じノルマン人がロシア、東欧、バルカン半島と南進して、南イタリアに両シシリー王国を建設した。つまりイタリアは南北で大きく異なり、北部がフランク人、南部がノルマン人の国だった。

アイリッシュダンス(ケルト) 

http://www.youtube.com/watch?v=W22gpBv00gg&feature=related

(3)ギリシャ系ローマ人のローマ帝国がゲルマン民族大移動で滅び、コンスタンティノープル(イスタンブール)を都とした東ローマ帝国に逃げ、ササン朝ペルシャ、サラセン帝国、セルジュークトルコ、蒙古帝国、オスマントルコ帝国と対峙したことは有名ですが、フランク王国が分裂してできた東フランク王国(=ドイツ)だけが、ローマ教皇から皇帝の資格をもらった。こうして建国されたのが神聖ローマ帝国だった。つまり、フランク人とローマ人化したガリア人が混血した西フランク王国(=フランス)は建国当時格下だった。ドイツが新教化したあと、カトリック教会は、イタリア・メディチ家、フランス重商主義経済、ドイツ・フッガー家、ドイツ・フランクフルト資本(byユダヤ)に依存することになるし、豪華絢爛なフランス宮廷文化の巻き返しには目を見張るものがあるが。

ヨーロッパ全土が震え上がったという、オスマントルコ軍隊行進曲

http://www.youtube.com/watch?v=kpOl4kxgD1c&feature=PlayList&p=BD082D0FB458BD9C&playnext=1&playnext_from=PL&index=18

(4)市民革命とは、絶対王政を倒し、封建制度下の農民を解放することだが、チャールズ1世を処刑したイギリスのピューリタン革命は没収した特権階級の財産を農民より商人や地主に分配し、イギリスの身分階級制度は覆されることなく残存し、名誉革命で政党政治がはじまった。反対にルイ16世を処刑したフランス革命は没収した特権階級の財産を大部分農民に分配し、フランスの身分階級制度はほぼ完全に崩壊した。しかし労働者の解放はなく、二月革命、さらにパリコミューンを経てもプロレタリアートはブルジョアに敗北した。農村から都市への人口流動、科学技術の発達をベースとした産業革命により、資本家と労働者という、新たな対立構図ができた。ロシアでプロレタリアート革命が成功し、ソビエト連邦が建国された。

ソビエト連邦国歌

http://www.youtube.com/watch?v=kERsiFGUugI&feature=related

(5)中世の大学では、神学、法学、医学、学芸科といった学問が知識伝達されているにすぎず、17世紀以降発達した自然科学の研究はもともと大学構外=科学アカデミーで進められた。いまでいう理化学研究所や再生研みたいなものか。大学構内で科学実験は行われていなかった。学生は階段教室で講義を聴いて、決闘場や酒場で余暇をすごしたのだろう。言語の定義は人によってまちまち。数学は定義が厳密で、存在するや否やの命題に立ち向かうための唯一の道具である。ニュートン力学は物体運動の未来予測を可能にした神の業であった。

エブル(トルコ絵画)

http://www.youtube.com/watch?v=RWtr5GAZwnI

(6)17世紀のバロックは、絶対王政全盛期を背景として、大げさで力強く、男性的な直線美。ベルサイユ宮殿、バッハ、ルーベンス。18世紀のロココは絶対王政衰退期を背景として、装飾を多用し小規模で、女性的な曲線美、エッチな官能美。サンスーシ宮殿、モーツァルト、フラゴナール。市民運動がさかんだった19世紀には、ミレーのような社会派(=印象派)画家や、ショパン、シューベルトのようなロマン派音楽家が台頭した。

プロイセン・サンスーシ宮殿に眠るフリードリヒ大王

http://www.youtube.com/watch?v=f5kJ50e7N8Q&feature=related

(7)フビライが元を建国すると、モンゴル帝国は、オゴタイ汗国(蒙古)、チャガタイ汗国(中央アジア)、キプチャク汗国(ロシア)、イル汗国(イラン)に分裂した。チャガタイ汗国のトルコ人ティムールがティムール帝国を建国。その西方にトルコ人オスマンベイがオスマントルコを建国。ティムールが優勢であったが、彼の死後、帝国は崩壊。イラン人イスマーイールが800年ぶりにサファビー朝を建国。さらにバーブルが北インドに侵入して、イスラム教のムガール帝国を建国。やがてヒンズー教徒はマラータ同盟を結んで、イスラム教徒に抵抗した。トルコ系ウズベク人がシベリアから中央アジアに南下し、ティムール帝国を滅ぼし、ブハラ汗国、ヒバ汗国、コーカンド汗国を建国。オスマントルコのセリム1世がイランのサファビー朝、エジプトのマムルーク朝を滅ぼし、教主(カリフ)と皇帝(スルタン)の両方を獲得し、強大な帝国を築いた。このあとのヨーロッパ列強による植民活動はよく知られている。

中国農耕民族、ヤオ族舞曲

http://www.youtube.com/watch?v=OxHNyZs1gvI

(8)最近は自虐史観が流行して、教科書の中からこんな記述は削除されていると思われますので、少し紹介したいと思います。「アジアのめざめ」という項目が設けられてあって、こう書かれてあります。クリミア戦争で敗北したものの、露土戦争に勝ってベルリン会議で負けたことによってバルカン半島進出を阻まれ、イギリスによってイラン・アフガニスタン進出を封じられたロシアがアジア南下をはじめたこと、さらにフランス孤立化を図ったビスマルク外交を懸念して、1902年日英同盟が結ばれました。「扶清滅洋」のスローガンを掲げた義和団事変後もロシアが満州に駐留していることに、米英が不満を持っており、日本は米英の経済的援助を受け1904年日露戦争を起こしました。1905年日本の勝利は、インド、トルコ、中国、ベトナム、フィリピン、オランダ領東インド(インドネシア)といったアジア諸国の革命運動・独立運動に強い影響を与えました。インド総督カーゾンがベンガル分割令を発令すると、インド民衆は、スワラジ(自治獲得)やスワデシ(国産品愛用)の運動を展開し、1909年インド参事会法が発令され、インド人の行政参与が認可されました。1908年青年トルコ党が結党され、自由主義と立憲主義を求めました。1911年黎元洪が辛亥革命を起こし、1912年「滅満興漢」をはじめとする三民主義を掲げた孫文が南京に中華民国を建国し、国民党を発足させました。1912年、モンゴルがロシアの援助で、1913年チベットがイギリスの援助で独立しました。1913年清軍の長、袁世凱が北京に共和制政府を設立し、孫文が日本に亡命しました。1915年袁世凱が失脚。軍閥政治に対抗すべく1919年孫文が上海に中国国民党を結成。

Photo昭和48年、旧課程から新課程に文部省学習指導要領が変更され、著者も旧制三高での教え子、護雅夫(もりまさお)先生に替わっている。複雑なヨーロッパ・イスラム・中央アジア史を簡略化しており、かえってわかりにくい。旧版はほんとうに無駄がなく流れるような筆裁きで書かれてある。戦争、事件、隆盛、滅亡の原因・背景が簡潔に本文中で説明されている。いちいち欄外の用語説明を読むのは、腰を折られるので読みづらい。新版のいい点はわかりやすい地図が新しく挿入されていることだが、削除された地図も多い。文章は旧版で読んで、新版の目新しい歴史地図だけ拾っていけばいいのではないかな。

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