ウィーン会議 「会議は踊る、されど進まず」
スイスの地方豪族にすぎなかったハプスブルク家。大空位時代を反省し1356年、神聖ローマ皇帝カール4世が金印勅書を発布。ボヘミア王(=チェコ)、ファルツ伯(=フランスとの境界)、サクソニア伯(=初代皇帝オットー1世を輩出した南ドイツにある国)、ブランデンブルク辺境伯(=ドイツ騎士団領と合併したプロイセン王)、マインツ大司教、トリエル大司教、ケルン大司教の7人から選挙で皇帝が択ばれることとなった。ハプスブルク家は帝国から半分独立したボヘミア王やイスラム教を奉ずるオスマントルコと死闘を繰り返し、ついにウィーン、ボヘミア周辺を支配した。ハプスブルク家お膝元のスイス農民が反乱を起こし、スイスは独立。スイスは外国に傭兵を売って収入を得た。15世紀から神聖ローマ帝国の皇帝位を独占した。プロイセンのフリードリヒ大王がもし生きていたら、ナポレオンは皇帝なんぞにならなかったと述懐している。そのナポレオンなきあとに国境線をどうするかで紛糾したウィーン会議であった。
プロイセン フリードリヒヴィルヘルム3世、ハルデンベルク
オーストリア フランツ1世、メッテルニヒ
ロシア アレクサンドル1世、ネッセルローデ
イギリス カッスルレー *国王は君臨すれど統治せず
最初、この戦勝国4カ国で国境を決めようとしたが、敗戦国フランスの外相タレイランが待ったをかけた。彼こそ、フランス革命5年前(1784年)にフリーメイソン・パリ支部(=ジャコバン・クラブ)を設置した超ど級の黒幕、裏切り者であった。周辺各国の要人と交流があり、マルチリンガルで、1794年、ジャコバン党による風紀粛清(=倫理に反する者をギロチン刑に処する)を察知するや、浮気者のタレイランは海外亡命。革命後ナポレオン独裁に貢献し、外相を務めた。ロシア遠征の2年前(1810年)、アレクサンドル1世にナポレオン攻略を進言し、フランツ1世にマリールイーズの輿入れを進言した。計画通りナポレオンは倒れ、タレイランが再び歴史の表舞台に立つこととなった。
1805年、トラファルガー海戦で、ナポレオン率いるフランスは、ネルソン率いる宿敵イギリスに敗北。しかしアウステルリッツ三帝会戦でオーストリア・ロシア連合軍を破った。1806年、大陸封鎖令によってイギリス経済を困らせようとしたが、産業革命を経たイギリスには蚊にかまれた程度。困ったのはヨーロッパ、とくにロシアであって、密輸がおこなわれた。王様を抱えるドイツ諸国をひっくるめてライン同盟を結成させ、ナポレオンが盟主となり、ハプスブルク家は、神聖ローマ帝国の皇帝位をわたすことになった。皇帝は2人あってはならないからだ。ポーランド、イタリアなど多くの領土を奪われたが、オーストリア皇帝を名乗ることだけはかろうじて許された。1791年フランス革命によってユダヤ人にフランス人と同等の権利義務が与えられ自由解放されたが、1806年ナポレオンによりユダヤ人に再び圧力がかけられた。1807年、イエナでプロイセンを破り、フリートラントでロシアを破った。1809年、オーストリアがフランスに抵抗。マリアテレジア所縁のシェーンブルン宮殿から的をはずしながら、ウィーンに向けてナポレオンが大砲の弾を降らせウィーン入城。アスペルンの戦いで、カール大公率いるオーストリア軍に敗北。ナポレオンは陸上戦で初めて敗北を喫しヨーロッパ中が驚いた。ワグラムの戦いで雪辱戦を臨み、オーストリアに辛勝。こどもの生めない、浮気妻ジョセフィーヌを離婚しつつあったころで、ハプスブルク家マリールイーズと1810年再婚した。1812年、ボロディノの戦いで冬将軍とロシアに敗北。1813年、ロシア、プロイセン、さらにタレイランとの密約で遅れ気味にオーストリアが参戦して、ライプチヒの諸国民戦争でフランスを撃破。1814年、勢いに乗る同盟軍がパリ占領。一番乗りのロシア皇帝アレクサンドル1世が勝手に、ポーランドいただきます宣言。ナポレオンはエルバ島の王として流刑。1815年2月ナポレオンがイギリス軍監視の目を盗んでエルバ島を脱出し、3月パリにはいり帝位につく。ウィーンにいた皇妃マリールイーズも呼び戻されるが、ナイペルク伯と浮気して子供までもうけていた彼女は恐れおののきフランスに行こうとはしなかった。6月ワーテルローの戦いでイギリス・プロイセンに敗北。セントヘレナ島に囚人として流刑。ナポレオンの百日天下と呼ばれる。フランスは、革命でかちとった共和制でなく、ルイ18世を擁する王制に逆戻りした。
ナポレオン直轄領だったポーランド(=ワルシャワ大公国)をロシアに譲るか、フランスに味方したザクセンをプロイセンが奪うか、イタリアや教皇領をどう分割するか、フランス領になっていたジュネーブをスイスに返還するのか、同じくフランス領になっていたベルギーをオランダ王国に併合するのか、そしてとくにドイツ諸国をどうまとめるかで揉めに揉めたウィーン会議だった。当初オーストリア、プロイセン、ハノーバー王国(=アン女王の死後、イギリス王室を輩出)、バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国の5つで話をまとめようとしたが、各国の思惑があって紛糾。メッテルニヒが放ったオーストリア秘密警察がスパイ活動をはたらき暗躍した。夜の交渉もお盛んだったようで、たとえばアレクサンドル1世がウィーン女性を連れ込んで思いを遂げようとするが、ことごとく寸止めを食らわされているとか、デンマーク国王がウィーン下町娘に入れ込んでいるというような報告が残っている。アルトハイデルベルクをかかえ、アレクサンドル1世の皇妃エリザベータの出身地であったバーデン大公国は、バイエルンやオーストリアから領土分割を迫られたが、なんとか踏みとどまった。肝心のバーデン大公ときたら女郎屋通いに明け暮れる始末。プリンスたちとプリンセスたちが開放的なウィーンの地でご乱交、最後の輝きを放った。国民の代表者らの夜の交渉は国益にも国害にもなった。あまりの議事進行の遅さに耐えかねたプロイセンとロシアは武力制圧を図ろうとしたが、タレイランの暗躍でイギリス、フランス、オーストリアの秘密協定が成立。なんとか戦勝国間の戦争が回避できた。元テルミドール派・ジョセフ・フーシェの陰謀でナポレオンがエルバ島を脱出。ナポレオン討伐準備に忙しくなったため、短期間に多くの議題が議決できたのであった。当時のフランスには、ブルボン王朝を支持する王党派、親戚筋のオルレアン公を支持する一派、共和制維持を叫ぶジャコバン党の残党たち、やっぱりナポレオン一家が好きやねんというボナパルト派、共産主義者、社会主義者などが渦巻いていた。ナポレオンの流刑地をエルバ島からセントヘレナ島に移すことは、ウィーン会議で極秘に決定していた。ナポレオンの百日天下は、フリーメイソンが仕組んだ芝居といえるだろう。
ウィーン会議はもともとオーストリア・ハプスブルク家の接待ということで、外国貴賓たちの財布の紐は固く自腹を切ろうとはせず、ウィーンの物価が跳ね上がり、外国貴賓がお金をいっぱい落としてくれると期待していた市民たちからの不満が頂点に達していた。当然その矛先はハプスブルク家に向けられた。外国貴賓がオーストリア紙幣を硬貨に交換して帰国し、ウィーンに紙幣があふれたこともインフレの大きな原因だったようだ。インフレ対策として1816年ユダヤ資本の援助で、オーストリア国立銀行が設立された。
客を招いたホストが、客を接待するのがヨーロッパ流接待であったが、イギリス流接待は、客を招いておいてあとはご勝手にご歓談を式だったようで、馬鹿にされたと怒る殿方、姫から大変な不評を買っていたようだ。「これだから田舎者は・・・」という陰口を叩かれ、イギリスのパーティへの賓客も減っていった。マリアテレジア・ヨーゼフ2世の仮面舞踏会禁止令などによって風紀の乱れを抑圧されていた市民は、自由にウィンナーワルツが踊れて、貧しいながらも活気にあふれていた。大衆ダンスホールでは、ランガウス(Langaus)と呼ばれたワルツの原型を若い男女が踊り狂い、道端では、カスペルル(Kasperl)と呼ばれた道化師が猥談や駄洒落を披露して、ウィーン市民に大うけだった。
ウィーン舞踏会
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