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2010年1月26日 (火)

「百済と倭国の物語り」を読んで

よさそうな題名だから読みたいなと思って、探してみたら絶版になってました。2006年初版なのに、もう絶版ですか。電子書籍で安価に買えましたので、読みました。

「百済と倭国の物語り」 山辺 土筆 著  文芸社

女流作家の山辺土筆って、「やまのべのつくし」とよむんですね。九州王朝説も取り入れつつ、大和と筑紫をバランスよく描写した小説でした。

平城山 http://www.youtube.com/watch?v=DlbfwX3kzcA

仲哀(ちゅうあい)天皇の妃にして、神がかったトランス状態になる巫女(みこ)として、神功皇后(じんぐうこうごう)が描かれています。仲哀天皇の死によってクマソ征伐を中断し、中臣(なかとみ)、物部(もののべ)、大伴(おおとも)、宇佐(うさ)、宗像(むなかた)、住吉(すみよし)、遠賀(おか)国王、伊都(いと)国王を集め、百済(くだら)・任那(にまな)支援のため高句麗(こうくり)遠征で勝利を重ねました。当時の高句麗は広開土王(こうかいどおう)、百済は近肖古(きんしょうこ)王と貴須(きゅうしゅ)王子がおさめていました。神功皇后はその功績により、貴須(きゅうしゅ)王子に「倭王旨」と呼ばれ、二人は恋仲になり応神(おうじん)天皇を宿しました。帰国後凱旋する先々で歓呼のもとに迎えられました。倭王讃=応神天皇の時代は、高句麗では長寿王の代になっており、各国が中国に朝貢(ちょうこう)し、少しでも優位に立とうとした時代でした。筑紫で軍馬の大量生産が行われました。

やがて倭王武=雄略(ゆうりゃく)天皇の時代になります。雄略は乱暴な気性で、平群(へぐり)氏ら地元有力豪族から娘をもらえず、結局、自分が滅ぼした葛城(かつらぎ)氏と、吉備(きび)氏から娘をもらいました。物部目(もののべのめ)は筑紫で、大伴室屋(おおとものむろや)は大和で、雄略の政治を補佐しました。百済は蓋鹵(こうろ)王の代になっており、倭をうとましく思っていました。任那(にまな)を治めた重臣、木満致(もくまんち)は、高句麗僧・道琳(どうりん)との政争に負け、倭国を任那・百済支援に耐えられる強国に育てようと、任那の技術者や軍人を大和に連れて、亡き葛城(かつらぎ)氏の跡地に腰を据えました。木満致(もくまんち)は任那の印璽(いんじ)を雄略に献上し、自ら蘇我満致(そがのまんち)と名乗りました。

当時、百済・任那と倭・筑紫の間に生まれた混血児、「韓子(からこ)」が急増し、渡来系有力住民だった東漢(やまとのあや)氏と、日本古来の伝統を重んじようとする大伴室屋(おおとものむろや)との間がギクシャクし始めました。蓋鹵(こうろ)王が高句麗に攻められて壊滅しそうになったとき、大和に応援要請がきました。まさにそのとき雄略が死にました。大伴氏と平群氏の跡目争いが激化するなか、武烈(ぶれつ)天皇は大伴金村(おおとものかなむら)とともに平群真鳥(へぐりのまとり)を滅ぼしました。さらに吉備(きび)氏の星川皇子(ほしかわのみこ)も倒され、大和制覇の夢が絶たれた物部荒山(もののべのあらやま)は大和への物資輸送を止めるのが精一杯の抵抗で、九州を制覇しつつあった筑紫の君・磐井(いわい)のもとで働くこととなりました。

武烈(ぶれつ)天皇の頃、百済は武寧(ぶねい)王の代になっており、倭の救援を要しない強大な国になっていました。武烈と地元豪族と不仲が続いたため、娘をなかなかもらえませんでした。武烈は大和豪族を抑えるべく、任那復興を悲願とする蘇我高麗(そがのこま)を武寧(ぶねい)王に遣わし、百済王子・斯我君(しがのきみ=淳陀王子じゅんだおうじ)を次期天皇有力候補として招来しました。斯我の斯は武寧(ぶねい)王=別名、斯麻(しま)王の斯と、蘇我の我をとった偽名、ペンネームでした。聖徳太子は淳陀王子への帰依が篤く、淳陀太子が法隆寺の百済観音像のモデルと言われています。

武烈の死後、大伴金村(おおとものかなむら)は斯我君(=淳陀王子)の即位を良しとせず、倭国王印璽と任那印璽を持ち逃げし、手白香皇女(たしらかのひめみこ)、橘皇女(たちばなのひめみこ)、春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)ら天皇家のDNAを受け継ぐ娘たちをみんな引き連れて大和を脱出し、越前の男大迹(おとど)王、のちの継体(けいたい)天皇に娶わせました。淳陀王子と結ばれて子供ができれば、百済王統の天皇ができあがり、倭はいずれ百済の属国となるため、大伴金村(おおとものかなむら)が亡国の危機を防ごうとしたのです。日本書紀の作者は、武烈天皇や蘇我氏を非難しています。物部麁鹿火(もののべのあらかい)、巨勢男人(こせのおひと)も大伴金村に賛同しました。物部(もののべ)氏は出雲をも治める吉備の古豪、巨勢(こせ)氏は大和の古豪です。

応神の子孫と自称してはいるものの出自不明な継体天皇は大和豪族の抵抗にあって、大阪府茨木市~高槻市から奈良県へ20年間都入りすることができませんでした。大切な王子の即位を反故にされた百済との戦争を回避する策として、武寧王に任那を譲渡する代わりに斯我君(=淳陀王子)即位の話は消え、大和への都入りを果たし、やがて五経博士・段楊爾(だんように)が渡来しました。おもしろくないのは蘇我高麗(そがのこま)ですね。もともと祖父が所有していた任那印璽まで勝手に武寧王の手に渡されてしまったのですから。今度は淳陀王子の子であり武寧王の孫でもある、法師君(ほうしのきみ)を擁立しようとしました。が、またしても武寧王の死によって計画が破綻しました。

倭に捨てられ百済(くだら)に売られた感の強い任那(にまな)は、強大化しつつあった新羅(しらぎ)に接近しました。継体は百済の聖明(せいめい)王を救援すべく、新羅遠征を計画しました。近江毛野(おうみのけぬ)を任那に派遣しようとしましたが、筑紫(つくし)の磐井(いわい)と物部尾輿(もののべのおこし)がそれを妨害しました。今度は物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣し、磐井を戦死させました。磐井の子、葛子(くずこ)は糟屋(かすや)の軍港を献上する引き換えに命乞いをしました。磐井のあと、宗像(むなかた)氏が糟屋の軍港を管理することとなりました。継体の死後、辛亥(しんがい)の変が起きました。物部尾輿(もののべのおこし)と蘇我稲目(そがのいなめ)が、欽明(きんめい)天皇、安閑(あんかん)天皇、宣化(せんか)天皇らと宝物を奪い取るクーデターでした。以来、蘇我氏は聖明(せいめい)王に救援軍を送らず、聖明王は管山城(かんざんじょう)の戦いで新羅に敗死し、やがて百済は滅亡しました。

この小説を通して、いまの日本の原点が見えてきますね。目先の利益しか見えない政治家やら、官僚腐敗やら、外国人による政治干渉やら。みんな古代からある日本の問題点です。日本は日本人のための領土ですよね。

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2010年1月15日 (金)

記紀は俀・倭の系図を重ね合わせた?!

古代日本史には多くの謎があります。なかでも倭の五王、磐井の乱、聖徳太子、大化改新(乙巳の変)、壬申の乱あたりはとくに謎だらけのように思います。いま話題の新刊本をアッという間に読み切りましたので、少しご紹介します。

百済の王統と日本の古代  兼川 晋 著  不知火書房

百済の王統と日本の古代

百済の王統と日本の古代

価格:2,625円(税込、送料別)

まずは朝鮮半島の歴史のおさらいから。前漢武帝が鉄の産地であった北朝鮮に楽浪郡をおいたころ、韓族は馬韓・辰韓・弁韓を樹立しました。ツングース系扶余族が楽浪郡を駆逐して高句麗を建国。建国者は韓流ドラマでやってる朱蒙ですね。同じツングース系靺鞨族(=満州人)が立てた濊(わい)、東夷を併合しました。やがて扶余族が百済を建国し、韓族の馬韓を滅ぼしました。韓族軍人が、靺鞨族の度重なる侵略で弱った辰韓を滅ぼして新羅を建国。複数の国家から成る弁韓は、伽耶となりました。伽耶には、金官伽耶、大伽耶、阿羅伽耶(安羅)、小伽耶、多羅伽耶(多羅)、高麗伽耶などがありました。

百済人が植民した多羅から来日した渡来人をタラシヒコ、タラシヒメと呼び、百済を旧多羅=「くだら」と呼びました。12代景行天皇、13代成務天皇、14代仲哀天皇の贈り名はタラシヒコでした。母親が百済の人だったのでしょう。近江の名門豪族である息長(おきなが)氏もタラシヒメでした。ちなみに新羅(しらぎ)は古代朝鮮語で「しんらのヤツ」という意味の蔑称です。

百済本家が沸流(びりゅ)百済で、沿岸部に住んでいました。百済分家が温祚(おんじょ)百済で、内陸部に住んでいました。温祚百済が優勢になり、劣勢に回った沸流百済は「倭」を名乗り、半島経営を分家の温祚百済に預けて筑紫(福岡県・佐賀県)に進出し、貴(き)の国=九州王朝と呼ばれ、倭の五王を輩出しました。宇佐(大分県)にはトヨウケの出先機関があり、豊(とよ)の国と呼ばれていました。南九州には、土着のクマソ(熊本県)やハヤト(宮崎県・鹿児島県)がいました。温祚百済から仇台(くで)百済が派生し、一時隆盛を誇りました。663年白村江の戦いで、温祚百済は新羅・唐の連合軍によって滅ぼされましたが、倭軍の主力部隊であった沸流百済も大損害を被りました。新羅・唐の連合軍は、668年高句麗を滅ぼし、今度は靺鞨族が高句麗遺民を連れて、渤海という大国を建国しました。

ここからの推論が驚き!年代同定があやふやな資料だけに頼ることなく、元号、改元権の所有者、金石文などから推論を進めています。最後の五王である武が、実は528年磐井の乱の首謀者だったこと。継体天皇は出自が不明ですが、北陸の越の国から大和に来た継体天皇(=彦太、ヒコフト、息長氏と三尾氏のこども)、豊の継体天皇(=男大迹、ヲオト、仇台百済)の二人いて、豊の継体天皇が、武を討ったこと。百済の武寧王は武(=磐井)を遠ざけ、豊の継体天皇を支持し人物画像鏡を贈ったこと。岩戸山古墳に反逆者、磐井が手厚く葬られている理由もこれでわかります。531年豊の継体天皇の死によって、欽明天皇が即位し、百済の聖王により仏教が豊に初めて伝来したこと。大和では越の継体天皇の死後、こどもであった安閑、宣化と引き継がれていった。豊の欽明と、大和の安閑・宣化は並立していたことになる。やがて筑紫(竹斯)が反転攻勢に出て、豊が大和に逃亡したこと。豊の倭、筑紫の俀という2王朝が九州に並立していたこと。弱小で取るに足らないと思われていた俀が勝手に600年遣隋使を送って天子と自称し、隋の煬帝を怒らせたこと。倭が608年遣隋使を改めて送りなおしたこと。裴世清の調査によれば、俀の政治は兄弟が同時に統治していたこと。上宮王家は筑紫の系図であったこと。聖徳天皇のこどもが厩戸皇子、孫が山背大兄王で、聖徳天皇と厩戸皇子を合体させて、日本書紀が空想上の聖徳太子を作り上げたこと。聖徳天皇の弟(=孝徳天皇)も同時に俀を統治しており、隋の煬帝に天子と自称して親書を送ったのだが、煬帝は俀を正式の国と認めておらず怒り、裴世清を実地調査のため俀に派遣したこと。厩戸皇子、山背大兄王らは吉備や播磨(これらは俀に属する)に仏教王国を築こうとしていたこと。唐は百済殲滅を悲願としており、唐と通じていた天智天皇(中大兄皇子)が、おそらく百済語を話していた上宮王家を滅亡に至らしめたこと。筑紫の斉明天皇、豊の皇極天皇は重祚ではなかったこと。筑紫の天智天皇、豊の天武天皇は実の兄弟ではなかったこと。天智は舒明と斉明(宝皇女)の子で、天武は皇極(足姫)と高向王の子であること等々。

ここからが私の個人的感想です。豊とは東北地方の都に住んでいた豊受(トヨウケ)が、熊襲(クマソ)や隼人(ハヤト)を支配するための重要な基地ではなかったのかな。景行天皇の息子、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が九州征伐してから先は、朝鮮半島から渡来人が筑紫に侵略しました。これが暴力的侵略か平和的移住かは議論が分かれるところでしょう。筑紫が百済人、高句麗人といった渡来系の人たちで、豊が天孫降臨した天孫族、原日本人、縄文人と考えていいだろう。では倭の五王と、雄略・武烈天皇らとの間に戦争はなかったのか?大和の継体も3代で滅び、仇台百済系統の豊の欽明が大和朝廷の君主としてとってかわり、沸流百済系統の筑紫の俀をも滅ぼしたということなのか?大和の継体は、物部氏らとともに日本古来の神道を忠実に守っていたと聞く。仏教を奉じた蘇我氏との激闘は、おそろしく根が深い。

豊の系図と筑紫の系図を重ね合わせて、血のつながらない人物を兄弟姉妹にしていたとすると、藤原氏による重大な犯罪になるだろう。古田武彦氏の九州王朝説に基づく理論展開だと思うが、大和そっちのけで、九州に偏りすぎているような気がする。系図が一変する、にわかには信じがたい内容でした。

白鳥の歌 

http://www.youtube.com/watch?v=upRvQRIUzp8&feature=related

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2010年1月12日 (火)

淡路サービスエリアから明石海峡大橋を眺めて

201001111418000_2明石海峡大橋をわたって、淡路サービスエリアに行ってきました。タンカーや漁船がのんびり航海する風景は癒されました。タコの明石、寿司の垂水ときて、源義経が駆け下りた須磨一の谷も見えました。西宮市内から西宮北有料道路を走り、六甲山を貫通する盤滝トンネルを越え、知る人ぞ知る北神戸線でスイスイと明石に向かい、垂水から明石海峡大橋をわたって、淡路サービスエリアに40分ちょっとで到着しました。阪神高速や中国自動車道で行くのは渋滞やし論外。芦有ドライブウェイで有馬温泉へ行く観光客が多いですが、高くて時間がかかり損でしょう。西宮北有料道路の船坂交差点を左折して平地を10分走れば、有馬温泉街に到着です。渡橋込みで高速休日料金1000円で行けるのは大きい。にゃほほ、きゃほー。

淡路サービスエリアの下り徳島方面は、徳島ナンバーや愛媛ナンバーの列・列・列。逆に上り神戸方面は、神戸ナンバーや大阪ナンバーのオンパレード。高知名産、土佐日記や野根まんじゅうも売っていました。眺めは下り、食事の質は上りの方がいいでしょう。淡路島といえば、ハモ、たまねぎ、淡路牛、あわじピルスナービールが名産です。なかでもたまねぎスープが大人気。とてもおいしいですので、ぜひご賞味あれ。ハモ料理のメッカは京都やおまへん。ここ淡路島です。

100111_142025_2 こんな看板をみつけました。トンビが急降下して、明石のたこ焼きやスターバックスのホットドックなんかを狙ってくるようです。3~5月にくるときは要注意ですね。

瀬戸の浦波ゆらゆらと 白帆傾く夕まぐれ

汀(みぎわ)に立ちて眺むれば 霞に浮かぶ淡路島

沙羅(しゃら)の双樹(ふたき)の色褪せて 夢見る春の夜の月や

鵯越(ひよどりごえ)にほの青く 平家栄華のあと哀れ 

 (旧制神戸商業大学予科逍遥歌)   

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2010年1月 8日 (金)

抹殺された古代日本史

NHK大河ドラマ「龍馬伝」がはじまりました。日本で一番人気が坂本龍馬だということです。上士が下士を執拗にいじめるシーンは、許せないという思いがいっぱいです。上士とは、掛川から来た山内氏のかかえた家臣団。高知市の高知城が本拠地。下士とは正式には郷士(ごうし)といって、土着の長宗我部氏がかかえた家臣団です。南国市の岡豊城(おこうじょう)を本拠地とし、一領具足といって、農民と武士を兼ね備えた独特の制度でした。武市半平太(土佐勤王党)、中岡慎太郎(陸援隊)、坂本龍馬(海援隊)らはみな郷士です。龍馬は気ままな風来坊として描かれますが、そうではなくサムライとしての節度は持っていました。ドラマでは高知城を追い出された武士集団という、まちがった印象がつけられていますが、郷士の心のふるさとは南国市の岡豊城であって、決して高知城ではありません。当人たちは登城できなくても平気の平左。ただ着る物などの厳しい差別に大いに怒っていました。ですから観光は高知城でなく、岡豊城址に行ってください。メロンやスイカがおいしいですよ。郷士の活躍で、明治維新が実現できたことは言うまでもないでしょう。維新後、山内氏はそそくさと東京へ逃げました。

かつて竜馬かく語りき 

http://www.youtube.com/watch?v=TEpzwybYtYU

こんな風に勝者によっていくらでも歴史は改ざんされてきました。古事記、日本書紀も然りで、「ホツマツタヱ」を改ざんして作られたようです。ただホツマツタヱは古代文字(ヲシテ文字)で書かれ難解で読みづらい。大物主命(オオナムチ)の子孫で、初代神武天皇が重用した大神神社祭主クシミカタマが前編を編纂し、10代崇神天皇が重用したオオタタネコが後編を編纂しました。

「ホツマ物語」 鳥居 礼 著  新泉社

ホツマ物語

ホツマ物語

価格:2,625円(税込、送料別)

 

わかりやすく物語風に書いてくれてあります。宮城県の多賀城に古き都があって、48音の言霊が祭られてあったそうです。国常立尊(クニトコタチ)の子孫タカミムスビが代々治めていて、5代目トヨウケのこどもがイザナミで、イザナキと結婚してワカヒメ、アマテル、ツキヨミ、ソサノオを生みました。この辺は紀元0年前後の話で、前漢武帝やイエスやローマ・シーザーと同時代の人たちでした。長女ワカヒメはことばがおそく、住吉大社で大切に育てられました。アマテルは、原見山(→藤山→富士山)に都を置き、全国のハタレ(反乱勢力)を鎮圧し、伊勢に遷都し、後日富士山麓の都を真似て名古屋の熱田神社を設立したとか。天照大神(アマテル)は実は男性で、藤原不比等が持統女帝を崇めるために女性に変えたようです。崇神天皇がアマテルゆかりの伊勢に伊勢神宮を建て、三種の神器を奉納しましたね。イエスの山上の垂訓のように、長寿を得たアマテルが伊勢神宮で民に伊勢の道(男女が仲良く生きる方法)を説法していたそうです。暴れん坊でトヨウケに死刑を宣告されたソサノオは、身分を落とす代わりに減刑されたとか。その子、オオナムチが高層建築の杵築大社をつくって、アマテルに謀反の嫌疑がかけられ、国譲りしたとか。ひな祭り、葵祭り、暦の名前などの多くのゆかりについて書かれてあったり、富士山の東西南北に8個の湖を人工的に掘って、その土を富士山頂に積んで、形を整えたとか、同様に三笠山、三輪山、比叡山も土を人工的に付け足して盛ったとか、驚愕の内容です。古墳好きな古代人ならやりそうなことですね。現代なら土は海の埋め立てに用いますね。

タカミムスビが代々伝えてきた魂(たま)返しの術とかいう蘇生の秘法が、トヨウケからツワモノヌシ、アマノコヤネ(春日大社祭神)と伝えられてきたとか、奈良で有名な猿沢の池に、アマテルが捕虜にしたハタレが入水自殺して、魂返しの術が使われたとか。

長い間、空想に過ぎないと思われていたトロイ遺跡を発掘した、シュリーマンのような考古学者が日本にも現れてほしいものです。

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