「百済と倭国の物語り」を読んで
よさそうな題名だから読みたいなと思って、探してみたら絶版になってました。2006年初版なのに、もう絶版ですか。電子書籍で安価に買えましたので、読みました。
「百済と倭国の物語り」 山辺 土筆 著 文芸社
女流作家の山辺土筆って、「やまのべのつくし」とよむんですね。九州王朝説も取り入れつつ、大和と筑紫をバランスよく描写した小説でした。
平城山 http://www.youtube.com/watch?v=DlbfwX3kzcA
仲哀(ちゅうあい)天皇の妃にして、神がかったトランス状態になる巫女(みこ)として、神功皇后(じんぐうこうごう)が描かれています。仲哀天皇の死によってクマソ征伐を中断し、中臣(なかとみ)、物部(もののべ)、大伴(おおとも)、宇佐(うさ)、宗像(むなかた)、住吉(すみよし)、遠賀(おか)国王、伊都(いと)国王を集め、百済(くだら)・任那(にまな)支援のため高句麗(こうくり)遠征で勝利を重ねました。当時の高句麗は広開土王(こうかいどおう)、百済は近肖古(きんしょうこ)王と貴須(きゅうしゅ)王子がおさめていました。神功皇后はその功績により、貴須(きゅうしゅ)王子に「倭王旨」と呼ばれ、二人は恋仲になり応神(おうじん)天皇を宿しました。帰国後凱旋する先々で歓呼のもとに迎えられました。倭王讃=応神天皇の時代は、高句麗では長寿王の代になっており、各国が中国に朝貢(ちょうこう)し、少しでも優位に立とうとした時代でした。筑紫で軍馬の大量生産が行われました。
やがて倭王武=雄略(ゆうりゃく)天皇の時代になります。雄略は乱暴な気性で、平群(へぐり)氏ら地元有力豪族から娘をもらえず、結局、自分が滅ぼした葛城(かつらぎ)氏と、吉備(きび)氏から娘をもらいました。物部目(もののべのめ)は筑紫で、大伴室屋(おおとものむろや)は大和で、雄略の政治を補佐しました。百済は蓋鹵(こうろ)王の代になっており、倭をうとましく思っていました。任那(にまな)を治めた重臣、木満致(もくまんち)は、高句麗僧・道琳(どうりん)との政争に負け、倭国を任那・百済支援に耐えられる強国に育てようと、任那の技術者や軍人を大和に連れて、亡き葛城(かつらぎ)氏の跡地に腰を据えました。木満致(もくまんち)は任那の印璽(いんじ)を雄略に献上し、自ら蘇我満致(そがのまんち)と名乗りました。
当時、百済・任那と倭・筑紫の間に生まれた混血児、「韓子(からこ)」が急増し、渡来系有力住民だった東漢(やまとのあや)氏と、日本古来の伝統を重んじようとする大伴室屋(おおとものむろや)との間がギクシャクし始めました。蓋鹵(こうろ)王が高句麗に攻められて壊滅しそうになったとき、大和に応援要請がきました。まさにそのとき雄略が死にました。大伴氏と平群氏の跡目争いが激化するなか、武烈(ぶれつ)天皇は大伴金村(おおとものかなむら)とともに平群真鳥(へぐりのまとり)を滅ぼしました。さらに吉備(きび)氏の星川皇子(ほしかわのみこ)も倒され、大和制覇の夢が絶たれた物部荒山(もののべのあらやま)は大和への物資輸送を止めるのが精一杯の抵抗で、九州を制覇しつつあった筑紫の君・磐井(いわい)のもとで働くこととなりました。
武烈(ぶれつ)天皇の頃、百済は武寧(ぶねい)王の代になっており、倭の救援を要しない強大な国になっていました。武烈と地元豪族と不仲が続いたため、娘をなかなかもらえませんでした。武烈は大和豪族を抑えるべく、任那復興を悲願とする蘇我高麗(そがのこま)を武寧(ぶねい)王に遣わし、百済王子・斯我君(しがのきみ=淳陀王子じゅんだおうじ)を次期天皇有力候補として招来しました。斯我の斯は武寧(ぶねい)王=別名、斯麻(しま)王の斯と、蘇我の我をとった偽名、ペンネームでした。聖徳太子は淳陀王子への帰依が篤く、淳陀太子が法隆寺の百済観音像のモデルと言われています。
武烈の死後、大伴金村(おおとものかなむら)は斯我君(=淳陀王子)の即位を良しとせず、倭国王印璽と任那印璽を持ち逃げし、手白香皇女(たしらかのひめみこ)、橘皇女(たちばなのひめみこ)、春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)ら天皇家のDNAを受け継ぐ娘たちをみんな引き連れて大和を脱出し、越前の男大迹(おとど)王、のちの継体(けいたい)天皇に娶わせました。淳陀王子と結ばれて子供ができれば、百済王統の天皇ができあがり、倭はいずれ百済の属国となるため、大伴金村(おおとものかなむら)が亡国の危機を防ごうとしたのです。日本書紀の作者は、武烈天皇や蘇我氏を非難しています。物部麁鹿火(もののべのあらかい)、巨勢男人(こせのおひと)も大伴金村に賛同しました。物部(もののべ)氏は出雲をも治める吉備の古豪、巨勢(こせ)氏は大和の古豪です。
応神の子孫と自称してはいるものの出自不明な継体天皇は大和豪族の抵抗にあって、大阪府茨木市~高槻市から奈良県へ20年間都入りすることができませんでした。大切な王子の即位を反故にされた百済との戦争を回避する策として、武寧王に任那を譲渡する代わりに斯我君(=淳陀王子)即位の話は消え、大和への都入りを果たし、やがて五経博士・段楊爾(だんように)が渡来しました。おもしろくないのは蘇我高麗(そがのこま)ですね。もともと祖父が所有していた任那印璽まで勝手に武寧王の手に渡されてしまったのですから。今度は淳陀王子の子であり武寧王の孫でもある、法師君(ほうしのきみ)を擁立しようとしました。が、またしても武寧王の死によって計画が破綻しました。
倭に捨てられ百済(くだら)に売られた感の強い任那(にまな)は、強大化しつつあった新羅(しらぎ)に接近しました。継体は百済の聖明(せいめい)王を救援すべく、新羅遠征を計画しました。近江毛野(おうみのけぬ)を任那に派遣しようとしましたが、筑紫(つくし)の磐井(いわい)と物部尾輿(もののべのおこし)がそれを妨害しました。今度は物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣し、磐井を戦死させました。磐井の子、葛子(くずこ)は糟屋(かすや)の軍港を献上する引き換えに命乞いをしました。磐井のあと、宗像(むなかた)氏が糟屋の軍港を管理することとなりました。継体の死後、辛亥(しんがい)の変が起きました。物部尾輿(もののべのおこし)と蘇我稲目(そがのいなめ)が、欽明(きんめい)天皇、安閑(あんかん)天皇、宣化(せんか)天皇らと宝物を奪い取るクーデターでした。以来、蘇我氏は聖明(せいめい)王に救援軍を送らず、聖明王は管山城(かんざんじょう)の戦いで新羅に敗死し、やがて百済は滅亡しました。
この小説を通して、いまの日本の原点が見えてきますね。目先の利益しか見えない政治家やら、官僚腐敗やら、外国人による政治干渉やら。みんな古代からある日本の問題点です。日本は日本人のための領土ですよね。
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