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2009年9月29日 (火)

日本語の起源

日本語の起源はどこでしょうか?私は一時期の日韓ブームに飲み込まれて、古代朝鮮語かなぁと漠然と考えていた時期もありましたが、どうやら日本古来の言霊からできた言語のようです。ところが、古事記や日本書紀のモトネタ本ではないかと目されている「ホツマツタヱ」という文献が40年くらい前に愛媛県伊予で発見されたらしく、漢字輸入以前に縄文時代から神代文字(ヲシテ文字)や立憲国家が存在していたのではないかという説もあるようです。ともかく「アイウエオ」の50音図が太古の日本に存在していたようで、私は日本古来の文明を信じようと今は思っています。古代の人々は豊かな心の持ち主で、「こころ」の動きをよく知っており、「こころ」の移り変わっていく模様を、古事記上巻に神々の名前(=言霊)を借りて説いているそうです。では、殺人、窃盗、裏切り、姦淫など、人々が戒律にそむくようになったのはいつからなのかな?犯罪は結構昔からあると思いますが。古代人も心や欲望のコントロールがなかなか利かなかったのではないでしょうか。「日本」が「にほん」や「にっぽん」と呼ばれたのは最近のことで、「ひのもと」と呼ぶのが正式です。漢字にすると、「霊(ひ)の本(もと)」と書きます。「言霊(ことだま)の幸(さきわ)ふ国」と称せられるだけのことはありますね。

ウ 欲望をあらわす。経済・産業の言霊。

オ 経験知をあらわす。むかしの記憶をたどって判断する。学問・科学の言霊。

ア 喜怒哀楽など感情をあらわす。愛・宗教・芸術の言霊。

エ 実践智をあらわす。進路を選択する。道徳・政治の言霊。

イ 生きたいと思う意志をあらわす。創造意志の言霊。

これら母音は主体、つまり自分に関する言葉ですが、ワ、ヰ、ウ、ヱ、ヲという半母音は客体、つまり相手に関する言葉です。現象が現れる今を清音(ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ)であらわし、現れた結果を濁音(バ、ビ、ブ、ベ、ボ)、一瞬だけ現れた結果を半濁音(パ、ピ、プ、ペ、ポ)であらわします。

子音は古事記では父韻として描かれています。チイキミシリヒニがそれぞれ、t,y,k,m,s,r,h,nをあらわします。ヤマトに”l”はないようですね。イザナミ(女)からイザナギ(男)に交わろうと言って生まれた子が蛭子(奇形児)だった。天津国に相談したら、順番が逆だからと言われ、今度はイザナギ(男)からイザナミ(女)に交わろうと言って生まれた子は正常だったという、有名な一節があります。言霊からみると、母音(女)→父韻(男)の順でitと発音しようとしても言葉にならない。父韻(男)→母音(女)の順でtiと発音すれば言葉になると解釈されます。

和歌の枕詞も言霊学から意味がわかってきます。

あおによし 奈良: 感情=芸術(あ)と、経験知=学問(お)に良い奈良。奈良は芸術と学問の中心だと言いたいようです。

たらちね(足道音)の 母: 道理=言霊を生む音の母。母親の言葉を聴いて、子は生まれ育ちますね。

ちはやふる(千早振る) 神: 道理=言霊を早く振る神。神様は人間より早く言霊をしゃべれるみたいです。

なかなかおもしろいですね。 

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2009年9月23日 (水)

山の辺の道は、もののべの道

200909231041000 近鉄天理駅を下車して、天理教の色濃い商店街をくぐりぬけ、天理教の御社(おやしろ)がなくなったところに、ようやく物部氏(もののべし)ゆかりの石上神社(いそのかみじんじゃ)が見えます。神代のむかし、武=祭祀であったころ、ニニギ の子孫である神武天皇以前に、ニギハヤヒの子孫であった物部氏が河200909231038000_3 内から大和にかけて勢力を伸ばしていました。境内には神の使いとされるニワトリが餌がほしいと、人懐っこくまとわりついてきます。

石上神社からいよいよ山の辺の道がはじまります。道端にはおいしそうな柿の実がたわわに実っていました。収穫前で垂れた稲穂に混じって、ヒガンバナがきれいに咲いていました。しばらく田んぼの中を進むと、夜都伎神社(やとぎじんじゃ)があります。イザナギの十束剣(とつかのつるぎ)から生まれたとされる武甕槌命(タケミカヅチ) や、天照大神を天岩戸から引きずり出したときに働いた天児屋命(アメノコヤネノミコト)を祭ってあるらしいです。しばらく田んぼを進むと、最古の神社と書かれた、大和神社(おおやまとじんじゃ)お旅所がひっそりとあります。日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)を祭ってあります。近くに大和三山(畝傍山、耳成山、天の香具山)、遠くに二上山、生駒山が見え、まっこと絶景です。200909231104000

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やがて第10代崇神天皇の大きな御陵に出会います。崇神天皇は第2~9代天皇を擁した葛城王朝を滅ぼして、新たに王朝を打ち立てたとも言われており、強大な権力を誇りました。ここで山の辺の道を少しそれると、木々の固まりがポツンとある天神山古墳の中に、崇神天皇創立の伊射奈伎神社(いざなぎじんじゃ)があります。農家の方が100円で柿や極早生みかんや野菜を道端で売っていました。やがて景行天皇陵に出会います。このあたりから、山なみが急接近し、道も狭くなり、木々に覆われ暗くなってきます。あいにくこのあたりで雨に逢い傘をさしてトボトボと歩みを進めていきました。

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200909231419000 三輪山の細い山道を進むと、桧原神社(ひばらじんじゃ)に出会います。元伊勢と称せられており、天照大神が祭られています。三つの鳥居が一つになっているところが、大神神社(おおみわじんじゃ)系列の特徴らしいです。もうここは三輪山の一角で、しばらく山道を進み、チョロチョロの狭井川(さいがわ)を越えると、狭井神社(さいじんじゃ)に出会います。ここは大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を祭っているそうです。14時までに行けば、ご神体の三輪山に登れるそうですが、なんだかバチがあたりそうですね。参道横にひっそりとたたずんで、少名毘古那命(すくなひこなのみこと)が祭られています。少名毘古那命は遠い国から流れてきた、とても小さな神で、大国主命といっしょに国造りをしました。あとは砂利道をご神体である三輪山に沿って進むだけ。最終地点の大神神社(おおみわじんじゃ)に到着です。この間、ゆっくり歩いて5時間を要しました。大物主命(おおものぬしのみこと)と呼ばれる、大国主命の和魂が祭られています。なんとか閉館時間15時半前に参拝できましたので、大神神社宝物収蔵庫を拝観できました。ちょっと参道から横道に逸れると、荒れ果て顧みられることのない崇神天皇の都、磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)があります。200909231458000_2

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山の辺の道は、物部(もののべ)の道でもあります。郡山から田原本にかけて、古墳時代、奈良盆地湖という大きな湖が存在しました。淡水魚を食べようと、カモメが飛んできておりました。田原本にある藤原京は湖が干上がってから、持統天皇がつくったわけで、それまで人が住める状況ではありませんでした。だから西ノ京にある唐招提寺以南の寺社仏閣はすべて山沿いにあるのです。法隆寺しかり、石上神社しかり、山の辺の道しかり。長い間、この謎が解けませんでしたが、最近やっと解けました。大和は宍道湖の松江に酷似していませんか?

邪馬台国と目されている纒向(まきむく)古墳へ、吉備(岡山県)発祥の特殊器台型土器や、吉備発祥の前方後円墳の文化が流れ込みました。朝鮮から持ち込まれた鉄器は北九州の前・邪馬台国で全盛期を迎えましたが、瀬戸内海の制海権を握っていた物部氏が大和へ鉄器が流入するのをコントロールし、大和での政権争いに優位を保っていました。葛城王朝の大王(おおきみ)を擁立した葛城氏が、物部氏の最大のライバルでした。

587年、百済から渡来した蘇我氏から出た蘇我馬子(そがのうまこ)と聖徳太子の崇仏派連合軍が、物部守屋(もののべのもりや)を首長とする廃仏派を打ち滅ぼしました。ここで物部氏は中央利権を失いましたが、地方各地にまだまだ多くの利権を残していました。643年、蘇我入鹿(そがのいるか)が、聖徳太子の子である山背大兄王(やませのおおえのおう)を信貴山(じぎさん)の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)に包囲し、法隆寺で殺し、聖徳太子のDNAを根絶やしにしました。645年、大化改新にて中臣鎌足(なかとみのかまたり)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)父子を殺しました。しかし、蘇我氏は物部氏同様、しぶとく政争の舞台に生きつづけました。

物部氏復権を託された最後の大物政治家、石上麻呂(いそのかみのまろ)は、藤原京の世、藤原不比等(ふじわらふひと)との政争に破れました。関門海峡、吉備を拠点とする瀬戸内海、河内湖(大阪平野は古代、遠浅の海に沈んでいた)といった制海権、出雲、尾張、静岡、東大阪、八尾、そして大和といった制地権を掌握していた物部氏は、天武以来急激に強大化した持統・文武天皇に覇権を禅譲することとなりました。ところが天皇のすぐ背後には、百済から渡来し中臣氏内紛に乗じて中臣姓を詐称した藤原氏一門が大きな口を開けて待ち構えており、物部氏の血を継ぎ道教にも通じていた道鏡による天皇家乗っ取りを封じ込め、平城京で天智系vs天武系の政争に明け暮れることとなりました。

ちなみに真の中臣氏は東大阪・枚岡神社(ひらおかじんじゃ)あたりの豪族で、奈良・三笠山(いまの若草山)麓の春日大社(かすがたいしゃ)にも深いゆかりをもっています。石切神社(いしきりじんじゃ)でニギハヤヒを祭る物部系穂積氏と共同統治していました。藤原氏は、天皇をも凌ぎ平城京きっての最高権力者であった長屋王の暗殺にも成功しました。蘇我氏も藤原氏も、新羅に滅ぼされた百済の復興を夢見ていたのかもしれません。琵琶湖周辺の近江には、百済や高句麗の遺民が多く住んでいました。

天武天皇の夢見た律令国家は影をひそめ、平等院鳳凰堂の藤原道長を全盛期として藤原氏一門が権力を独占しました。しかし、平氏や源氏など、もののふ(武士)が忽然と現れ、武力によって藤原氏ら公家を失墜させ、天皇支配の国家から武士支配の国家へ転換を図ることに成功しました。

左から 奈良盆地湖    河内湖   

墳丘墓パターン(前方後円墳・前方後方墳・四隅突出墳)

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2009年9月13日 (日)

出雲大社参拝

200909121259000水の都・松江、そして八雲立つ出雲を、車でひとり旅してきました。中国自動車道も米子自動車道も平日のためか、ガラ空きでした。出雲大社は、明治維新まで杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれておりました。物部氏の所縁深い奈良県富雄の里にも、杵築神社(きづきじんじゃ)があります。出雲大社は平成大修理中で、平成25年高層神殿が完成するまで、大国主命は仮の神殿に移されています。通常、神社の参拝方法は2礼2拍手1礼なのですが、出雲大社だけは2礼4拍手1礼です。拍手1回は、10本の指で10個の言霊(ことだま)を発しています。観光バスツアー添乗員のお姉さんの話を立ち聞きさせてもらいましたが、うまいこといいますね。「工事中だとがっかりする方がいますが、考えようによっては、大国主命さまがみなさんの前まで出てきていらっしゃるのですから、こんなチャンスはなかなかありませんよ。」

200909121336000 神社敷地内の宝物殿にはいると、スーツ姿の職員さんが寄ってきて、うれしそうに展示品を解説してくれました。ひょっとして宮司さんだったりして?古代の出雲大社には川が流れ、鹿が棲んでいたようです。車で5分、駐車場から移動すれば、古代出雲歴史博物館があります。すばらしい展示品ばかりで、奈良の資料館とは比べ物になりませんね。荒神谷古墳の銅剣や銅鐸が一面に並べてるのは感動しました。武士の剣は波紋があって少し反っていることはご存知でしょう。しかし古代の剣は左右対称です。合気道の解釈では、剣は人を切るためでなく、神と交わりむすぶためであると。刀身が反っていると、神とのむすびが得られません。神話シアターでは、スサノオ、オオクニヌシノミコト、出雲風土記の三部作をCGで無料上映しており、全部見てしまいました。神の力が宿るとされた勾玉(まがたま)は、宍道湖南岸の玉造温泉で作られていました。玉造温泉はすっかりさびれてしまって、宍道湖北岸の松江温泉のほうが盛り上がってますね。

200909111539000_2松江は、川、湖、海、山がすべて揃っていて、私の好きなスポットのひとつです。ただ料理は鳥取県米子の境湊(さかいみなと)に負けますね。眺めをとるなら松江温泉、料理をとるなら皆生温泉でしょう。松江城の天守閣は風が涼しく、大変心地よいものでした。松江の堀川めぐりは、船頭さん自慢の歌声が聴けたりして、のんびりすごせます。低い橋をくぐるのに、4回、船の屋根を落とされるので、腰にきました。お堀が完全に残っているのは、松江だけらしいです。まあそれだけ、松江藩が他藩に比べ、無視できるくらい弱かったということになりますので、あんまり名誉なことではありません。松江の冬の寒さが嫌で1年ちょっとしか滞在していなかったラフカディオハーン(小泉八雲)の旧居があったり、中級武士の武家屋敷が保存されています。武士の家は個人所有資産ではなく、公務員宿舎のように無料レンタルでした。だから用済みになれば引っ越さなくてはなりませんでした。松江のメロンパンは神戸や京都よりおいしいですね。

200909120700000目もはろばろと桃色の 春の雲ゆく大空を 仰ぎて立てる若人に 三春清き花のかげ

ああこの若くまどかなる 丘に結べる夢と夢 永遠の命にとけてゆく 行方は知らず霞むかな    

ふるさと遠く日は落ちて 四方(よも)の山なみ紫に 夕月のぼる湖の 舟に遊子(ゆうし)の思いあり

それ鴻(おおとり)は翼はり 豁然(かつぜん)晴れし日本海 渺茫紫紺(びょうぼうしこん)波の上 青雲分けて旅ゆかん ←*   

ああ青春ぞ命なる 血潮高鳴る男の子らの 若く雄雄しきまなざしは 焔と燃えて果て知らず

さはれ恵みの丘の上の 夢やすらけき思い出の 花咲く園に輝ける 大日輪のおごりかな

 青春の歌 http://www.shimane-u.ac.jp/index.php?option=com_content&task=view&id=1007&Itemid=41

 *白鳥が飛ぼうと翼を広げたとき、視界一面が急に晴れわたった日本海よ。夕日で紫色に照らされ、果てしなく広い湖面の波の上を舟ですすむとき、頭上の青雲を突き抜けるくらいの高い志を持って、人生という旅をしよう。あの白鳥のようにね。

旧制松江高等学校の寮歌です。戦前ゆえ男子校でしたが、ふるさと遠くはなれて単身で、全国から集い来た16~20歳の男子学生が3年間の青春期を、水の都・松江で過ごしました。古き良き日本の良き理解者、ラフカディオハーンこそ居ませんでしたが、学識深い教授に囲まれて、よく学びよく遊びました。神はもともと火水(かみ)と書いて、水と深い関係にあります。無試験の帝大進学を捨て、神社宮司や寺の住職の道に進んだ卒業生が多いのは気のせいでしょうか?ボート部にでも入部して、宍道湖の湖上で、神代のむかしを空想したり哲学にふけってみたりしたいものですね。    

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2009年9月 7日 (月)

物部氏をもとめて

200997 なかむら小児科の周りには、由緒ある地名が多い。登美が丘(とみがおか)、富雄(とみお)、三碓(みつがらす)、真弓(まゆみ)、鳥見町(とりみちょう)、白庭台(しらにわだい)、秋篠町(あきしのちょう)。近くの大渕池には大本教(おおもときょう)がある。天皇家の祖である邇芸(ニニギ)が十種の神器をもって宮崎県高千穂峰に降臨したとき、物部氏の祖である邇芸速日(ニギハヤヒ)が、同じく十種の神器をもって大阪府交野市磐船神社に降臨していた。神武天皇が大和に遠征したとき、立ちはだかったのが登美の豪族・長髄彦(ナガスネヒコ)であり、彼らは邇芸速日(ニギハヤヒ)を信奉していた。東大阪でナガスネヒコに敗れた神武軍が、熊野へはいり体勢を立て直してナガスネヒコを破り、畝傍山(橿原神宮)に住むことになった。物部氏は天理~桜井に土着する豪族で、石上神社や大三輪神社を拠点としていた。合気道では「武産合気」といって武術と祓が一体化して いるが、物部氏も代々、おそらく「気」を自在に操り敵をなぎ倒し強大な軍隊を率いる、軍事兼祭祀の最高司令官だったのだろう。天皇家は物部氏、さらにその子孫である「もののふ(武士)」の一挙手一投足におびえることとなる。訪れてみればわかるが、大三輪神社には荘厳な空気が漂っており、出雲系の大国主命(おおくにぬしのみこと)を祭っている。物部氏も出雲や新羅と関係が深いのだろう。謎多き物部氏について、もう少し学びたい。ここに「サムライニッポン」のルーツがある気がしてならないからだ。 

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2009年9月 3日 (木)

仰げば尊し

200909031836000 先月、出版されたばかりの本を一冊紹介します。戦後生まれの著者が、亡き父のアルバムを紹介しています。

「かつて、日本に旧制高等学校があった」   そのロマンと残照 

  蜜書房  手束 仁 著

わたしのブログやホームページを読んで、難解と思われる方はぜひこの入門書を読んでいただきたい。わたしが何を理想とし、いまの学校になにを求めているのかが、少しはわかっていただけるのではないかと思います。

この本で著者が言っておられることで、思い知らされたことがふたつあります。

(1)教師は高い教壇に立って教えるべし。教師は生徒と対等なのではない。そして教師は教壇に立つという意味と責任を常に感じ考えなさい。

(2)「仰げば尊し」の歌詞をもう一度吟味しなさい。

 仰げば尊し http://www.youtube.com/watch?v=ihdres4pgoA

この10月12日(月祝)22:45~23:28 NHK総合テレビ「横道にそれてもいいんだ」という番組に、100歳を迎えんとする恩師、橋本武先生が出演されるようです。わたしの中高時代の国語担任教師です。教育とはこうあるべきというお話が聞けるものと楽しみにしています。

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