近鉄天理駅を下車して、天理教の色濃い商店街をくぐりぬけ、天理教の御社(おやしろ)がなくなったところに、ようやく物部氏(もののべし)ゆかりの石上神社(いそのかみじんじゃ)が見えます。神代のむかし、武=祭祀であったころ、ニニギ の子孫である神武天皇以前に、ニギハヤヒの子孫であった物部氏が河
内から大和にかけて勢力を伸ばしていました。境内には神の使いとされるニワトリが餌がほしいと、人懐っこくまとわりついてきます。
石上神社からいよいよ山の辺の道がはじまります。道端にはおいしそうな柿の実がたわわに実っていました。収穫前で垂れた稲穂に混じって、ヒガンバナがきれいに咲いていました。しばらく田んぼの中を進むと、夜都伎神社(やとぎじんじゃ)があります。イザナギの十束剣(とつかのつるぎ)から生まれたとされる武甕槌命(タケミカヅチ) や、天照大神を天岩戸から引きずり出したときに働いた天児屋命(アメノコヤネノミコト)を祭ってあるらしいです。しばらく田んぼを進むと、最古の神社と書かれた、大和神社(おおやまとじんじゃ)お旅所がひっそりとあります。日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)を祭ってあります。近くに大和三山(畝傍山、耳成山、天の香具山)、遠くに二上山、生駒山が見え、まっこと絶景です。


やがて第10代崇神天皇の大きな御陵に出会います。崇神天皇は第2~9代天皇を擁した葛城王朝を滅ぼして、新たに王朝を打ち立てたとも言われており、強大な権力を誇りました。ここで山の辺の道を少しそれると、木々の固まりがポツンとある天神山古墳の中に、崇神天皇創立の伊射奈伎神社(いざなぎじんじゃ)があります。農家の方が100円で柿や極早生みかんや野菜を道端で売っていました。やがて景行天皇陵に出会います。このあたりから、山なみが急接近し、道も狭くなり、木々に覆われ暗くなってきます。あいにくこのあたりで雨に逢い傘をさしてトボトボと歩みを進めていきました。

三輪山の細い山道を進むと、桧原神社(ひばらじんじゃ)に出会います。元伊勢と称せられており、天照大神が祭られています。三つの鳥居が一つになっているところが、大神神社(おおみわじんじゃ)系列の特徴らしいです。もうここは三輪山の一角で、しばらく山道を進み、チョロチョロの狭井川(さいがわ)を越えると、狭井神社(さいじんじゃ)に出会います。ここは大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を祭っているそうです。14時までに行けば、ご神体の三輪山に登れるそうですが、なんだかバチがあたりそうですね。参道横にひっそりとたたずんで、少名毘古那命(すくなひこなのみこと)が祭られています。少名毘古那命は遠い国から流れてきた、とても小さな神で、大国主命といっしょに国造りをしました。あとは砂利道をご神体である三輪山に沿って進むだけ。最終地点の大神神社(おおみわじんじゃ)に到着です。この間、ゆっくり歩いて5時間を要しました。大物主命(おおものぬしのみこと)と呼ばれる、大国主命の和魂が祭られています。なんとか閉館時間15時半前に参拝できましたので、大神神社宝物収蔵庫を拝観できました。ちょっと参道から横道に逸れると、荒れ果て顧みられることのない崇神天皇の都、磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)があります。
山の辺の道は、物部(もののべ)の道でもあります。郡山から田原本にかけて、古墳時代、奈良盆地湖という大きな湖が存在しました。淡水魚を食べようと、カモメが飛んできておりました。田原本にある藤原京は湖が干上がってから、持統天皇がつくったわけで、それまで人が住める状況ではありませんでした。だから西ノ京にある唐招提寺以南の寺社仏閣はすべて山沿いにあるのです。法隆寺しかり、石上神社しかり、山の辺の道しかり。長い間、この謎が解けませんでしたが、最近やっと解けました。大和は宍道湖の松江に酷似していませんか?
邪馬台国と目されている纒向(まきむく)古墳へ、吉備(岡山県)発祥の特殊器台型土器や、吉備発祥の前方後円墳の文化が流れ込みました。朝鮮から持ち込まれた鉄器は北九州の前・邪馬台国で全盛期を迎えましたが、瀬戸内海の制海権を握っていた物部氏が大和へ鉄器が流入するのをコントロールし、大和での政権争いに優位を保っていました。葛城王朝の大王(おおきみ)を擁立した葛城氏が、物部氏の最大のライバルでした。
587年、百済から渡来した蘇我氏から出た蘇我馬子(そがのうまこ)と聖徳太子の崇仏派連合軍が、物部守屋(もののべのもりや)を首長とする廃仏派を打ち滅ぼしました。ここで物部氏は中央利権を失いましたが、地方各地にまだまだ多くの利権を残していました。643年、蘇我入鹿(そがのいるか)が、聖徳太子の子である山背大兄王(やませのおおえのおう)を信貴山(じぎさん)の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)に包囲し、法隆寺で殺し、聖徳太子のDNAを根絶やしにしました。645年、大化改新にて中臣鎌足(なかとみのかまたり)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)父子を殺しました。しかし、蘇我氏は物部氏同様、しぶとく政争の舞台に生きつづけました。
物部氏復権を託された最後の大物政治家、石上麻呂(いそのかみのまろ)は、藤原京の世、藤原不比等(ふじわらふひと)との政争に破れました。関門海峡、吉備を拠点とする瀬戸内海、河内湖(大阪平野は古代、遠浅の海に沈んでいた)といった制海権、出雲、尾張、静岡、東大阪、八尾、そして大和といった制地権を掌握していた物部氏は、天武以来急激に強大化した持統・文武天皇に覇権を禅譲することとなりました。ところが天皇のすぐ背後には、百済から渡来し中臣氏内紛に乗じて中臣姓を詐称した藤原氏一門が大きな口を開けて待ち構えており、物部氏の血を継ぎ道教にも通じていた道鏡による天皇家乗っ取りを封じ込め、平城京で天智系vs天武系の政争に明け暮れることとなりました。
ちなみに真の中臣氏は東大阪・枚岡神社(ひらおかじんじゃ)あたりの豪族で、奈良・三笠山(いまの若草山)麓の春日大社(かすがたいしゃ)にも深いゆかりをもっています。石切神社(いしきりじんじゃ)でニギハヤヒを祭る物部系穂積氏と共同統治していました。藤原氏は、天皇をも凌ぎ平城京きっての最高権力者であった長屋王の暗殺にも成功しました。蘇我氏も藤原氏も、新羅に滅ぼされた百済の復興を夢見ていたのかもしれません。琵琶湖周辺の近江には、百済や高句麗の遺民が多く住んでいました。
天武天皇の夢見た律令国家は影をひそめ、平等院鳳凰堂の藤原道長を全盛期として藤原氏一門が権力を独占しました。しかし、平氏や源氏など、もののふ(武士)が忽然と現れ、武力によって藤原氏ら公家を失墜させ、天皇支配の国家から武士支配の国家へ転換を図ることに成功しました。
左から 奈良盆地湖 河内湖
墳丘墓パターン(前方後円墳・前方後方墳・四隅突出墳)
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