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2009年8月31日 (月)

すばらしきドイツ語教授列伝

2009831 江戸時代の学問を一手に支えたのが蘭学者たちとすれば、文明開化の日本を裏から支えていたのは明治期の語学者たちです。英語教授の代表は福沢諭吉(慶応義塾)でしょう。ではドイツ語教授は?幕末から第一次世界大戦ドイツ敗戦まで、ドイツ語教育熱は全盛でした。岡倉一郎(中央大学予科)、亀井藤太郎(東京学院)、山村一蔵(独逸学校)、谷口秀太郎(独逸語専修学校)、北里闌(ドイツ劇作家)、青木昌吉(旧制高校)、田代光雄(東京外大)、大津康(旧制高校)、堀田正次(旧制高校)、小島伊佐美(旧制高校)。このうち、みなさんはいったい何人をご存知でしょうか?わたしはひとりも知りませんでした。数多くの教授輩出の源泉であった、旧制東京外国語学校では、読法、綴字、習字、書取、文法、詩歌暗誦、会話、作文、訳文、算術、地理、歴史、物理、化学と、ドイツ語原文テキストをこと細かく教えられたようです。ドイツ語がなんと週25時間授業!英語講座はなく、ほかにフランス語、ロシア語、中国語、朝鮮語が教えられました。ヘステル読本、ボック読本、エンゲリン読本、シェーフェル文法、ウェルテル万国史、ウェベル万国史、・・・。外国人教師が暗誦や会話を重視したのに対し、日本人教師になりますと暗誦は好まれなくなり、訳読重視の授業方法に変わったそうです。やがてドイツ語文法のバイブル・超ベストセラー、大村仁太郎・山口小太郎・谷口秀太郎共著「独逸文法教科書」が生まれ、三太郎文典と呼ばれました。日本人が学びやすいように、はじめて品詞文章論が説かれたのが大ヒットの理由でした。中級者以上には、三太郎読本と呼ばれた、「独文読本」「高等独文読本」がさかんに読まれました。やがて、時代遅れで古臭いと、新進気鋭の関口存男や権田保之助に批判されるまで、ひたすら教育に打ち込む姿は感銘を受けました。ぜひとも学校の先生方にもお勧めしたい一冊です。

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2009年8月22日 (土)

ルーブル美術館展をみて

行きたいと思っていた京都市美術館にやっと行けました。ルネッサンス人間主義の影響を多分に受け、目に見えたままを忠実に描写する手法は、現代絵画には見かけなくなっただけに200908221728000 新鮮さを感じました。写真がない時代でしたが、ハイビジョンカメラ並みの繊細さは、とても真似できないすばらしさです。阪急、地下鉄を乗り継いで平日の金曜12時過ぎに到着。聞いていた大混雑はさほど無く、ゆっくりと観ることができました。大きな絵画は後ろから順番を待たずに観て、小さな絵画は列に並んでかぶりつきでじっくり観るのが、鑑賞のコツでしょう。肖像画では、フランスハルスの「リュートを持つ道化師」がよかったですね。何気ない表情の描写が、自然体で好感が持てます。表紙にもなったヨハネスフェルメールの「レースを編む女」は髪の毛や垂れた糸が1本1本描かれていて驚きました。写真ではわかりません。ピエールデュピュイの静物画「葡萄の籠」はみずみずしい葡萄の描写もいいのですが、こぼれた水滴が実物そっくりで、まさに芸術は永遠なりです。モデルとなった葡萄はすぐ腐っても、一瞬の美がキャンパスの中で半永久的に生きつづけるのは、なんとすばらしいことでしょうか。宗教画ですと、「法悦の聖フランシスコ」は信仰の世界へ吸い込まれる迫力を感じます。清貧のかがみ、聖フランシスコの伝記は、カトリック出版物でもっともすばらしいと思います。鳥や狼が彼の諭しに耳を傾ける逸話には感動をおぼえたものです。マザーテレサの法話にも、しばしば聖フランシスコが理想的な師として登場します。ジュンジュ・ド・ラ・トゥールの「大工ヨセフ」の、父ヨセフと、若きイエスの目は必見です。その潤いの瞳はなんでしょう。数枚の聖母の絵はいつみても美人ぞろいです。その当時で、一番の美少女がモデルに選ばれたのでしょうね。ヘンドリック・ファン・ステーンウェイクの「聖堂の内部」に当時の教会の様子がうかがえます。何人かの小人が描かれていますが、教会の仕事にたずさわっていたのでしょうか。デカルトの肖像画は、世界史や倫理の教科書でよく見かけましたね。ルドルフ・バクハイセンの「アムステルダム港」は、かつて世界の中心だったオランダ・アムステルダムの風景が描かれていました。なにせ灯台くらいしか高層建造物がありません。無数に並ぶ帆掛け舟の柱、柱、柱。細かく1本1本丁寧に描かれています。何年か先、ルーブルがやってくれば必ずまた観に行こうと思います。

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2009年8月17日 (月)

福澤諭吉展をみて

2009817 福澤諭吉先生の展示を見に、天王寺公園内の大阪市立美術館に、トボトボと行ってきました。十代の福澤先生が蘭方医・緒方洪庵先生の適塾に通っていた頃、麻酔手術の開祖・華岡青洲先生の末弟が開いた、中之島の華岡塾(合水堂)の漢方医塾生としばしば喧嘩したそうです。貧乏だった福澤先生にとって、リッチな華岡塾塾生は腹立たしかったようです。酒をやめる代わりに、タバコをはじめたのに、結局酒もタバコもたしなんでしまった諭吉先生。着火点が低くて喧嘩っ早く、心は金ピカだけれども、みすぼらしい身なりのバンカラ(蛮カラ)であった福澤先生には親しみを感じています。「男児、笈(きゅう)を負いて集う至誠の寮=日本男児が寝泊りすべく、ふとんの竹籠を背負って集う、最高の徳である誠を主義とする寮」 福澤先生は、健康への心がけこそ、「一身独立して一国独立す」の実践であるとして、健康に気をつけておられたにもかかわらず、高血圧性脳出血を患われたことをみても、いかに短気かがわかります。適塾は大阪大学医学部、のちの東京大学医学部の前身であり、バンカラな塾生が、「ヅーフハルマ」と呼ばれたご禁制のオランダ語辞書に群がって猛烈に勉強し、くさいアンモニア実験をしたり、豚肉を食うついでに豚の解剖をしたりで、地元の大阪商人から嫌われていました。明治7年頃、東京の慶応義塾のほかに、大阪・京都にもそれぞれ、大阪慶応義塾、京都慶応義塾を設立していたことをはじめて知りました。どちらも塾生が集まらず、東京三田の慶応義塾だけが残ったそうです。ところが、東京三田に集まったのは「慶応ボーイ」と呼ばれる、リッチでハイカラな男子ばかりでした。あたりのいい秀才よりは、ごつごつした角の立つ鈍才のほうが私は好きです。福澤先生も本音はきっとハイカラ学生嫌いではなかったのかな。福澤塾長が慶応義塾塾生に訓示された「修身要領」はすばらしいのですが、ご自分の若い頃を棚に上げておられるようで、なんだかなぁと思いますね。でも教育勅語よりはずっといい。憲兵にあとを付け狙われていたのも、うなづけますね。ジェンダーフリーの先駆けとして紹介されていましたので、なんのことかと思ったら、夫の姓が原田、妻の姓が山田だとして、おのおの一文字ずつとって、いっそのこと「原山」にしたらどうだとのご提言。妻が一方的に夫の姓に変えるのは男女平等に反するとも。やっぱり、これはちがうんじゃないですかね。浄土真宗の大谷派とも親交が深かったとのこと、これもはじめて知りました。こちらがエーっと身をひくことも多い福澤先生ですが、漢文の造詣も非常に深いバンカラな先生のことがやっぱり好きです。

修身要領29箇条  福澤諭吉

1.人は人たるの品位を進め、智徳をみがき、ますますその光輝を発揚するをもって本分となさざるべからず。わが党の男女は独立自尊の主義をもって修身処世の要領となし、これを服膺(ふくよう)して人たるの本分を全うすべきものなり。

2.心身の独立を全うし、みずからその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、これを独立自尊の人という。

3.みずから労してみずから食うは人生独立の本源なり。独立自尊の人は自労自活の人たらざるべからず。

4.身体を大切にし、健康を保つは、人間生々の道に欠くべからざるの要務なり。常に心身を快活にして、かりそめにも健康を害するの不養生を戒むべし。

5.天寿を全うするは人の本分をつくすものなり。原因事情のいかんを問わず、自ら生命を害するは、独立自尊の旨に反する背理卑怯の行為にして、最も賤(いや)しむべきところなり。

6.敢為(かんい)、活発、堅忍、不屈の精神をもってするにあらざれば、独立自尊の主義を実にするを得ず。人は進取確守の勇気を欠くべからず。

7.独立自尊の人は一身の進退、方向を他に依頼せずして自ら思慮判断するの智力を備えざるべからず。

8.男尊女卑は野蛮の陋習(ろうしゅう)なり。文明の男女は同等、同位、互いに相敬愛してそれぞれその独立自尊を全たからしむべし。

9.結婚は人生の重大事なれば配偶の選択は慎重ならざるべからず。一夫一婦終身同室相敬愛して互いに独立自尊を犯さざるは人倫のはじめなり。

10.一夫一婦の間に生まれる子女はその父母のほかに父母なく、その子女のほかに子女なし。親子の愛は真純の親愛にしてこれを傷つけざるは一家幸福の基(もとい)なり

11.子女もまた独立自尊の人なれども、その幼時においては父母これが教養の責に任せざるべからず。子女たるものは父母の訓戒に従いて、孜々勉励(ししべんれい)、成長の後、独立自尊の男女として世に立つの素養をなすべきものなり。

12.独立自尊の人たるを期するには男女ともに成人の後にも自ら学問を勉め、智識を開発し、徳性を修養するの心がけを怠るべからず。

13.一家より数家次第にあい集まりて社会の組織をなす。健全なる社会の基(もとい)は一人一家の独立自尊にありとも知るべし。

14.社会共存の道は人々自ら権利を護り、幸福を求むると同時に、他人の権利幸福を尊重していやしくもこれを犯すことなく、もって自他の独立自尊を傷つけざるにあり。

15.恨みを構え仇を報ずるは野蛮の陋習(ろうしゅう)にして、卑劣の行為なり。恥辱をそそぎ名誉を全うするには、すべからく公明の手段を択(えら)ぶべし。

16.人は自ら従事するところの業務に忠実ならざるべからず。その大小、軽重に論なく、いやしくも責任を怠るものは独立自尊の人にあらざるなり。

17.人に交わるには信をもってすべし。己、人を信じて、人また己を信ず。人々相信じてはじめて自己の独立自尊を実にするを得べし。

18.礼儀作法は敬愛の意を表する人間交際上の要具なれば、かりそめにもこれを疎かにすべからず。ただその過不及(かふきゅう)なきを要するのみ。

19.己を愛するの情を広めて他人に及ぼし、その疾苦(しっく)を軽減し、その福利を増進するに勉むるは、博愛の行為にして人間の美徳なり。

20.博愛の情は同類の人間に対するに止まるべからず。禽獣(きんじゅう)を虐待しまたは無益の殺生をなすがごとき、人のいましむべきところなり。

21.文芸の嗜(たしな)みは、人の品性を高くし、精神を楽しましめ、これを大にすれば社会の平和を助け、人生の幸福を増すものなれば、またこれ人間要務のひとつなりと知るべし。

22.国あらば必ず政府あり。政府は政令を行い、軍備を設け、一国の男女を保護して、その身体、生命、財産、名誉、自由を侵害せしめざるを任務となす。これをもって国費を負担するの義務あり。

23.軍事に服し、国費を負担すれば、国の立法に参与し、国費の用途を監督するは、国民の権利にしてまたその義務なり

24.日本国民は男女を問わず国の独立自尊を維持するがためには、生命財産を賭(と)して敵国と戦うの義務あるを忘るるべからず

25.国法を遵奉(じゅんぽう)するは国民たるものの義務なり。単にこれを遵奉するにとどまらず、すすんでその執行を幇助(ほうじょ)し、社会の秩序、安寧(あんねい)を維持するの義務あるものとす。

26.地球上、立国の数少なからずして、それぞれその宗教、言語、習俗を異にすといえども、その国人は等しくこれ同類の人間なれば、これと交わるにも、いやしくも軽重、厚薄の別あるべからず。ひとりみずから尊大にして他国人を蔑視(べっし)するは、独立自尊の旨に反するものなり

27.我々現代の人民は先代前人より継承したる文明、福利を増進して、これを子孫、後生に伝えるの義務を果たさざるべからず

28.人の世に生まるる智愚、強弱の差なきを得ず。智強の数を増し、愚弱の数を減ずるは教育の力なり。教育はすなわち人に独立自尊の道を教えて、これを躬行(きゅうこう)、実践するの工夫を啓(ひら)くものなり

29.わが党の男女はみずからこの要領を服膺(ふくよう)するのみならず、広くこれを社会一般に及ぼし、天下万衆(てんかばんしゅう)とともに相率いて、最大幸福の域に進むを期するものなり。

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2009年8月10日 (月)

合気道

200908101745000 しばらくブログ更新をご無沙汰しているあいだ、合気道に関する本を数冊読んでいました。飛鳥時代の名門豪族である物部氏が篤く信奉していた日本古来からの「古神道」の「むすびの秘儀」が、合気道の起源です。古墳時代には、神とのむすびを得んがため、「柱」が多く立てられました。敵をわが身に受け入れ、禊(みそ)ぎ祓(はら)う。敵は罪汚れから解き放たれ清く正しき友と変わる。明治生まれの質実剛健、植芝盛平先生が合気道の開祖です。ものごとには表と裏があります。耳に聞こえる言葉(ことのは)の裏に、耳に聞こえない言霊(ことだま)があります。目に見える魄(はく)の裏に、目に見えない魂(こん)があります。合気道とは、耳に聞こえない言霊を学び、目に見えない魂を学ぶものと説かれます。

「古事記」は稗田阿礼が暗誦したものを太安万侶が書き記しました。暗誦なのですから、文字には「フシ」がついていたようです。神話の中に、いまは忘れられた「むすび」の秘儀、言霊の「ひびき」を読み取り、形にしたのが合気道であると理解しました。渡来系蘇我氏が、日本古来の物部氏を滅ぼし、渡来系中臣(藤原)氏が、蘇我氏を滅ぼしました。仏教を奉じた親百済派の斉明・天智天皇と、道教を奉じた親新羅派の天武・持統天皇とのあいだに繰り広げられた抗争は、飛鳥時代をこえ奈良時代全般にわたり続きました。やがて親百済派・天智系の勝利のうちに、易学・風水・陰陽道・密教などの神通力(?)で強固な防御をかためた平安京を、藤原氏が支配することとなりました。しかし古神道は滅ぶことなく、いまなお脈々と引き継がれています。今一度、日本人のルーツに触れてみたい思いが最近強くなりました。

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