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2009年6月29日 (月)

思いは自由だ

フランス・ナポレオン皇帝が諸外国による対仏大同盟に1815年敗北を喫したのち、オーストリアのメッテルニヒが、自国やプロイセンにウィーン体制を敷き、ブルシェンシャフト(学生団体)の思想言論の自由を弾圧した。そんななかで、この歌がさかんに歌われた。マスコミ情報統制の現代、この歌を声を大にして歌いたい。

http://www.bierpruegel.com/Lieder/diegedanken.html

1  Die Gedanken sind frei
wer kann sie erraten?
Sie fliehen vorbei
wie nächtliche Schatten.
Kein Mensch kann sie wissen,
kein Jäger erschießen
mit Pulver und Blei:
Die Gedanken sind frei!

思いは自由だ。誰が思いを推測できようか?思いは夜のかげのように逃げ去る。それを知ることのできる人はなく、いかなる狩人が火薬と鉛をもってしても、思いを射止めることはできない。思いは自由だ!

2  Ich denke, was ich will
und was mich beglücket,
doch alles in der Still’
und wie es sich schicket.
Mein Wunsch und Begehren
kann niemand verwehren,
es bleibet dabei:
Die Gedanken sind frei!

ぼくは、やりたいことを考え、自分を幸せにしてくれることを考えるんだ。しかし、すべては静寂の中にあって慎ましやかに従順だ。僕の願いと欲望は誰も止められないし、そんなもんだよ。思いは自由だ!

3  Ich liebe den Wein,
mein Mädchen vor allen,
sie tut mir allein
am besten gefallen.
Ich bin nicht alleine
bei meinem Glas Weine,
mein Mädchen dabei:
Die Gedanken sind frei!

ぼくはワイン、ぼくの恋人をなにより愛しているんだ。片思いだけど、ぼくは彼女のことを一番好きなんだ。このグラスのワインがあれば、ぼくはひとりぼっちじゃない。ぼくの恋人ってそんなもんだよ。思いは自由だ!

4  Und sperrt man mich ein
im finsteren Kerker,
das alles sind rein
vergebliche Werke.
Denn meine Gedanken
zerreißen die Schranken
und Mauern entzwei:
Die Gedanken sind frei!

暗い牢獄の中に閉じ込められても、すべてが全く無駄な仕事だよ。なぜならぼくの思いは、格子や壁を真っ二つに引き裂くからなんだ。思いは自由だ!

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2009年6月26日 (金)

アルト・ハイデルベルク

これがドイツ学生歌の代表作でしょう。日ごろよく口ずさみます。

http://www.bierpruegel.com/Lieder/altheidelberg.html

1  Alt Heidelberg du feine
Du Stadt an Ehren reich
Am Neckar und am Rheine
Kein andre kommt dir gleich
Stadt fröhlicher Gesellen
An Weisheit schwer und Wein
Klar ziehn des Stromes Wellen
Blauäuglein blitzen drein.

古きハイデルベルクよ、すてきな町、栄光に富んだ町よ、ライン川支流のネッカー川のほとりにある町。おまえは、ほかのどの町とも比べ物にならない。難解な知恵とワインをもつ、愉快な遍歴学生たちの町。ネッカー川の波が清く流れ、その中に青い眼が光っている。*gleich 等しい(=equal)

2  Und kommt aus lindem Süden
Der Frühling übers Land,
So weht er dir aus Blüten
Ein schimmernd Brautgewand.
Auch mir stehst du geschrieben
Ins Herz gleich einer Braut,
Es klingt wie junges Lieben
Dein Name mir so traut.

おだやかな南のほうから、春が地面をこえてやってくる。春はきらめく花婿のように、おまえ(ハイデルベルク)に(祝福の)花を投げかける。おまえは花嫁のように、私の心に刻み込みつづける。おまえの名前は実になつかしく、若い恋人(の名)のようにわたしの耳にひびく。*gleich=wie ~のように

3  Alt Heidelberg du feine
Du Stadt an Ehren reich
Am Neckar und am Rheine
Kein andre kommt dir gleich
Und stechen mich die Dornen
Und wird mir's drauß zu kalt
Geb ich dem Roß die Sporen
Und reit' ins Neckartal.

古きハイデルベルク、すてきな町、栄光に富んだ町、ライン川支流のネッカー川ほとりの町。おまえは、ほかのどの町とも比べ物にならない。とげがわたしの心に刺さり、ほかの土地で私の心がとても寒くてたまらないときは、馬に鞭当てて、このネッカーの谷に馬に乗ってやってくるんだ。 

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2009年6月25日 (木)

ムシデン

wandern”ヴァンダン”、意味は”遍歴する、さすらう”。この言葉に憧れますね。「プロイセン」と呼ばれた多民族国家の大学は、すべて国立大学で安価な授業料でした。アビトゥアAbiturと呼ばれる全国共通の入学試験に受かりさえすれば、好きな先生の講義を全国どこへでも聴きにいけて単位を取得して、めでたく卒業となったわけです。しかも授業料は大学事務による一括徴収ではなく、講義ごとに収めており、学生が教授や講師の”おまんま”を食べさせているという状態でした。ゲーテ、シラー、カント、ヘーゲル、グリム兄弟、ガウス、マルクス、アインシュタインなど、多数の著名人を輩出しました。地元の恋人と遍歴学生というカップルの出会いと別れも、大学街のひとつの風物詩だったようです。

http://www.youtube.com/watch?v=IUupK-JdOGY

1  Muß i' denn, muß i' denn
Zum St
ädtele hinaus,Städtele hinaus
Und du mein Schatz bleibst hier
Wenn i' komm', wenn i' komm'
Wenn i' wiederum, wiederum komm'
Kehr' i' ein mein Schatz bei dir
Kann i' glei' net allweil bei dir sein

Han' i' doch mei' Freud' an dir
Wenn i' komm', wenn i' komm'
Wenn i' wiederum, wiederum komm'
Kehr' i' ein mein Schatz bei dir.

ぼくはここを出て、町へ行かなくちゃいけないんだ。でも君はここにいてね。ぼくがきたら、ぼくがここへもどってきたら、ぼくの宝、君のところへ立ち寄るよ。ぼくはいつもでなくても、すぐに君のもとにいることができたら、どんなにうれしいだろう。ぼくがきたら、ぼくがここへもどってきたら、ぼくの宝、君のところへ立ち寄るよ。*i'=ich, komm'=komme, glei'=gleich, Freud'=Freude, kehr'=kehre, han'= handele

2  Wie du weinst, wie du weinst,
Da
ß ich wandern muß, wandern muß,
Wie wenn d'Lieb' jetzt w
är vorbei
Sind au' drau
ß, sind au' drauß,
Der M
ädele viel, Mädele viel
Lieber Schatz, ich bleib' dir treu.
Denk du net wenn ich an and're seh

No sei mei' Lieb' vorbei
Sind au' drauß, sind au' drauß,
Der Mädele viel, Mädele viel
Lieber Schatz, ich bleib' dir treu.

君はなぜ泣くの?ぼくは次の大学へいかなくちゃいけないのに。君はなぜ泣くの?まるで、愛が終わるかのように。よその町に女の子がたくさんいても、愛する宝よ、ぼくは誠実に君のもとに居続けるよ。ぼくがほかの女の子をみても、ぼくの愛が終わったと決して思ってはいけないよ。よその町に女の子がたくさんいても、愛する宝よ、ぼくは誠実に君のもとに居続けるよ。*d'Lieb'=die Liebe, au'=auch, bleib'=bleibe, mei' Lieb'=meine Liebe, and're=andere

3  Übers Jahr, übers Jahr
Wenn mer Tr
äubele schneidt, Träubele schneidt,
Stell i' hier mich wied'rum ein
Bin i' dann, bin i' dann,
Dein Sch
ätzele noch, Schätzele noch
So soll die Hochzeit sein.

Übers Jahr do is' mei' Zeit vorbei
Do gehör' i' mein und dein
Bin i' dann, bin i' dann,
Dein Schätzele noch, Schätzele noch
So soll die Hochzeit sein.

何年か年月がたって、ブドウの実を刈るころに、ぼくは再び現れるよ。そのとき、もしぼくが君の宝であったのなら、そのときは結婚式をあげようね。何年か年月がたって、ぼくのお勤めが終わって、ぼくの身が自由になってぼくの身が君のものになり、そのとき、ぼくがまだ君の宝であるのなら、そのときは結婚式をあげようね。*i'=ich, is'=ist, mei'=mein, gehör'=gehöre

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2009年6月22日 (月)

アルト・マールブルク

恩師の通ったマールブルク大学の歌は味わい深いですね。とても解釈がむずかしいですが、拙訳してみました。赤点食らいそう??

http://www.bierpruegel.com/Lieder2/alt_marburg.html

1 Ich habe in deutschen Gauen
Manch traulichen Winkel gesehen,
Doch was ich auch draußen mocht schauen:
Mein Marburg, wie bist du so schön!
Gern denk ich im Mai jener Stunde:
Wie ward mir so eigen zu Mut!
Bald sang ich mit lachendem Munde:
Alt-Marburg, wie bin ich dir gut!

森と水豊かな地方で、いくつか人知れずなつかしい場所をみた。たとえ郊外でなにをみようとも。わがマールブルク、あなたはなんと美しい!5月のあのときのことを思い出すのが好きだ。得も言われぬ気分になった!すぐに私は微笑んで歌った。あの古きマールブルク、その名はなんと心地よい! *was auch mögenは認容

2 Am Berge ihr lauschen Fleckchen,
Ihr Giebel versonnen, verträumt!
Leis murmelt der Brunnen am Eckchen,
Vom Schimmer des Mondlichts umsäumt;
Auf heimlichen Treppen und Stufen,
Auf Turm und Gemäuer es ruht ...
Ich mußt in die Maiennacht rufen:
Alt-Marburg, wie bin ich dir gut!

山の小さな町々は彼女に耳を傾け、彼女の切妻は物思いにふけって夢見ている。月光の輝きに縁取られた、小さなすみっこでは泉が小さくせせらいでいる。秘密の階段の上にも、塔や壁の上にも静けさが漂う。5月の夜になると呼びかけずにはいられなかった。古きマールブルク、その名はなんと心地よい! 

3  Sah früh von des Schloßhofes Runde
Hoch über die Dächer ins Land,
wo rings durch die Auen im Grunde
Die Lahn flicht ihr silbernes Band.
Und feierlich wogte im Tale
Der Glocken tiefdröhnende Flut,
Verklingend im Dankeschorale!
Alt-Marburg, wie bin ich dir gut!

朝早く、王宮中庭周囲から、高い屋根を越えて、地面に視線を落とした。そこでは、ラーン川が地面の草の中をくねくねうねり、銀のひもを編んでいる。鐘が谷間で荘厳に揺れ、深く轟くような大波となり、感謝の賛美歌の中に消えていく!古きマールブルク、、その名はなんと心地よい!

4  Bin froh durch die Wälder gezogen,
Als Füxlein mit Laute und Stab,
Dem Bursch war manch Mädel gewogen,
Die Gassen bergauf und bergab!
Im Herzen ein Schwingen und Singen,
Daß heißer mir wallte das Blut ...
Die Mützen empor und die Klingen,
Alt-Marburg, wie bin ich dir gut!

リュートと杖をもって、子狐たちのように、森の中を楽しくそぞろ歩いた。 かなりの女の子は学生に好意を寄せていた。裏の坂道を上がったり下がったり!心の中には、揺れる気持ちと歌があり、血がますます熱く沸きたった。気高き学生帽と刀剣。それが古きマールブルク、その名はなんと心地よい!

5  Und bin ich ein alter Geselle
Und bleichte die Zeit mir das Haar,
So such ich noch einmal die Stelle,
Wo damals so glücklich ich war.
Seh still auf das alte Nest nieder
Und schwing dann jungselig den Hut ...
Stimm ein in das Lied aller Lieder:
Alt-Marburg, wie bin ich dir gut!

私が古き遍歴学生だとしても、時が私の髪を白く染めたとしても、私はもう一度、あの場所をさがす。むかし実に幸せだったあの場所を。あの古巣を静かに見下ろして、若い喜びいっぱいに帽子を振るんだ。歌の中の歌、そう、古きマールブルクに唱和するのだ。その名はなんと心地よい! *und wenn, soの認容構文でwennが省略されて、直説法bin(現実)と接続法第2式bleichte(非現実)が倒置。つまり”私(ich)”が遍歴学生であったことは事実だけれども、髪はまだ白髪になっていない。

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2009年6月12日 (金)

友愛・・・フランス革命からの教訓

200906121413000フランス革命といえば、宝塚歌劇「ベルサイユのばら」が有名ですが、はたしてその実態は愛を語らうほのぼの物語だったのでしょうか?

「友愛」はイエスキリストの「隣人愛」とは似て非なるもの。隣人愛とは、「隣人を愛せ。そして敵をも愛せ。」なのですが、友愛とは、「友人を愛せ。しかし敵を殺せ。」となります。1789年8月26日、ラ・ファイエットが「自由・平等・友愛」のフランス人権宣言を発表。正式には「人間および市民の権利宣言」といいます。では、フランス革命とはなんだったのか?日本からフランスまでは遠すぎて容易に内情がつかめません。フランスの大学教授が語った教科書をおさらいしましょう。

まずは宗教のおさらいから。欧米歴史の理解にはとても重要な事項です。「旧約聖書」を信仰し自分たちだけが唯一神に選ばれたと考えるユダヤ教から派生して、イエスがキリスト教を説きました。いろんな言い伝え文200906121413001書のうち、ローマ教会の都合のいい文書だけを「新約聖書」として、イエスの死後数百年後に編纂されました。ローマ帝国の皇帝は最初、キリスト教を弾圧していたのですが、徐々に改心しキリスト教を国教にまで定めました。異教徒であったゲルマン人は侵略を受け奴隷や傭兵となりましたが、徐々にローマ文明を勉強し、キリスト教に改宗した屈強なゲルマン男たちが将軍や皇帝にまでのぼりつめ、やがて476年ローマ帝国は滅亡。ゲルマン人は僻地の異教徒をいじめていきました。逃亡したギリシャ人の一派がバルカン半島にビザンツ帝国を建国し、他国から応援派遣された十字軍や騎士たちに助けられながらオスマントルコなど強大なイスラム教国とよく戦い、1453年までギリシャ正教のビザンツ文明を育みました。イタリアに広大な領土を有するローマ教会が、天国か地獄か最終決定できるため、信仰厚かったころの国々に対し強大な権力をもちました。ヨーロッパをリードしたフランク王国の国王までもが教皇にひれ伏していたのですが、十字軍派遣で人心荒廃したせいもあり、ローマ教会内も内紛で分裂荒廃し、国王に逆転される始末。荒廃してもリッチな生活は忘れられず、神聖ローマ帝国内諸国の王様などパトロンたちに出資してもらい、相変わらず高い教会の税金を信者にかけていました。異端者は火あぶりの刑に処せされました。そんな状況に疑問を抱いたマルチン・ルターが、ドイツ各地の王様たちに守られて、ギリシャ語原典の新約聖書をドイツ語訳して、1517年「プロテスタント(新教)」を立ち上げました。ボヘミアなど新教にはいろんな派閥がありましたが、すべて排除。従来のローマ教会は「カトリック(旧教)」と呼ばれました。ドイツを舞台に1618年から1648年まで三十年戦争が勃発。周辺諸国の侵略やら旧教徒と新教徒が入り乱れて戦争を繰り返し、元の侵入とともにモンゴル高原に棲むネズミがペスト菌をヨーロッパに運んできて、人口の1/3がペストや戦争で死にました。主食ライ麦パンに含まれるアルカロイド成分のため幻覚作用がドイツの人々に起こり、魔女裁判や火あぶりの刑がさかんに行われました。こうして神聖ローマ帝国は300以上のラント(領邦)に分裂し、封建制度が色濃く残ることとなり他国より文明の進化が遅れました。カトリックでは金融経済活動は罪とされましたが、ユダヤ教やプロテスタントの解釈では罪ではなくむしろ奨励されました。ですから冒険家たちが開拓した植民地からの臨時収入がなくても、金融活動によって経済大国を維持するためには、新教に改宗する必要がありました。

さて、王権は神から授かったと考えるのが絶対王政。民衆との契約で王権が保障されると考えるのが啓蒙専制君主政。簡単に言えば、前者が大臣任せで遊びほうけた王様、後者が政治の要諦のお勉強を熱心にされていた王様。当時の大英帝国(新教)、神聖ローマ帝国(新教)、プロイセン(新教)、ロシア(旧教)はみな後者だったのに、フランス(旧教)だけが前者と出遅れていた。そのブレーキ役がパリ高等法院だった。王宮が消費する金は膨れ上がるばかりで、天候不順も重なって庶民の経済状態は悪化の一途をたどるばかり。国王の暴走に待ったをかけたのが裁判権を有するパリ高等法院で、人気取り目的で国王サイドから民衆サイドへ転向し、1789年5月三部会を170年ぶり召集したが、貴族と平民が対立し、僧侶が仲介する形となった。6月憲法制定まではなんびとも議会を妨害できないというテニスコートの誓いにて憲法制定国民議会設立。7月14日たった数人しかいない政治犯囚人を解放すべくバスティーユ牢獄襲撃。地方農民が反乱を起し、自警団を組織した。租税や虐げられた身分制度の源となっていた土地台帳の保管場所をとくに襲撃した。8月4日封建的諸権利廃止の決議。つまり第三身分の廃止。8月26日「人間および市民の権利宣言」を公布。10月5日パリ婦人による「パンよこせ」デモ行進が起こり、翌日国王をベルサイユからパリへ移送。1790年4月ジャコバンクラブ所属の豪傑ダントンが会費の安い過激派コルドリエクラブを設立。6月第二身分(貴族)の廃止とそれに伴う領主裁判権の廃止。7月聖職者民事基本法制定により教会の私有財産を没収し、教会と信者、教会とローマ教会を絶縁させた。つまり第一身分の廃止。11月僧侶議員は、国民、国王、法律、憲法の下僕であることを宣誓しなければ聖職から平民に転向となり選挙を経ないと議員になれないとした。上級僧侶は宣誓しなかったが多くの下級僧侶は宣誓し、ローマ教皇からカトリック除名処分を受けた。まだ議員になっていない僧侶の立候補者が、宣誓の有る無しで教会の門前にて乱闘騒ぎとなった。このときすでにルイ16世はローマ教皇に新法の許しを請うという名目で、国外逃亡を画策していたが、うわさは議員たちにずっと前から知られていた。1791年6月ルイ16世、オーストリア亡命に失敗し売国行為で逮捕された。パリ市長バイイは国王逃亡は外国にそそのかされたとうわさをふりまき人気を得ようとした。貴族の亡命が相次ぐにつれ、義勇軍の数が増していき、戦争ムードが高まっていった。7月コルドリエクラブがパリ市民を扇動して王位廃止・共和政樹立を求めたが、バイイ市長やラファイエット国民軍が鎮圧した。この暴発をジャコバンクラブの責任とみた一般市民の反感を買い、翌日、ラファイエットとミラボーが率いる穏健派フイヤン党がジャコバンクラブから分裂独立。8月オーストリアとプロイセンの2皇帝がピルニッツ宣言にてフランス王室救済を宣言。実際にはその気は無かった。9月憲法が制定され、改名と同時に解散総選挙。10月立法議会設立。右翼がフイヤン党、左翼が「百科全書」を奉じるインテリ集団ジロンド党と、ジャコバンクラブを母体とするジャコバン党の2つ、中立が沼沢派(マレ)であった。12月ルイ16世はプロイセンにフランス干渉の権利を与えた。国王はジロンド党の好戦態勢を歓迎しわざと外国に負けて、外国の力で王政復古をたくらんでいることをロベスピエールは見抜いていた。1792年4月ブリソ率いるジロンド党がフイヤン党に勝ち、オーストリアに参戦。ラファイエットはオーストリアと協力し、ジャコバン党を倒し立憲王政を敷くことを画策していた。ジャコバン党のダントンがコルドリエクラブと組んで国家の危機を説き、対外戦争を鼓舞した。一方で国王引渡しを条件に外国から金銭を得ようと画策していた。8月無名市民によるパリ蜂起コミューンによってテュイルリ王宮が急襲され国王は幽閉された。国王に通じているとされたジロンド党やラファイエットが失脚。ジャコバン党が息を吹き返し9月国民公会設立。王政を廃して共和政を宣言。右翼がジロンド党、左翼がジャコバン党、中立が平原派(プレヌ)であった。10月オーストリアに勝利。11月テュイルリ王宮から国王売国行為の証拠書類が発見。1793年1月ルイ16世をギロチンの刑。3月対仏同盟が結成され連敗。革命裁判所設置や30万人徴兵制と、恐怖政治の準備段階にはいった。4月公安委員会設置。5月ジロンド党を追放。中立の平原派もなびいてジャコバン党独裁となる。7月「人民の友」新聞編集長マラーがジロンド党員・美女シャルロットコルデーにより暗殺。穏健的なダントンが排除されロベスピエールが公安委員会にはいり司法権を掌握。8月総動員令により対外戦争連勝に転じた。9月反革命容疑者逮捕法が可決。10月王妃マリーアントワネット(長男ルイ17世は1795年暗殺?)を処刑。地方に残存したジロンド党員、バルナーヴ、バイイを処刑。11月10日ノートルダム寺院で「自由と理性の祭典」1794年3月「デュシェーヌおじさん」新聞編集長エベール処刑。4月ダントン処刑。

三部会とは第一身分(僧侶)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)から成る議会だった。第三身分とは都会の裕福なブルジョア階層の人たちであって、実はかげの第四身分とよばれる地方の農民やプロレタリアート(労働者)階層の人たちは、革命の蚊帳の外に置かれていた。フランス革命とはブルジョアによる革命だったわけで、まずはジロンド党。これは百科全書を重視した一派で、百科全書とはWikipedia(ウィキペディア)みたいなもので、すべての人が安価に知識あるいは理性を共有すべきという目的で書かれた。日本の岩波文庫、ドイツのレクラム文庫、フランスのクセジュ文庫を考えればよい。ニュートンをはじめ自然科学の最先端を走った、秘密結社フリーメイソンの会員さんが多く所属していた。もうひとつがジャコバン党。秘密結社フリーメイソン会員であったユダヤ人が創始したジャコバンクラブを全国各地に結成して、そこそこいい値段の会費を会員に徴収していた。会員は貴族の半ズボンに対抗して、長ズボンをはいて仲間の合図とし、サン・キュロット(アンチ半ズボン隊)と呼ばれていた。のちのフイヤン党として独立した立憲派のラファイエットとミラボー、三頭派のバルナーヴ、ジャコバン党独裁者ロベス・ピエール、皇帝にのぼりつめた独裁征服者ナポレオン・ボナパルト、右派の豪傑ダントン、左派のエベールなどが所属していた。ロベスピエールは実直まじめな男で弁論術に長け、賄賂は受け取らず、不倫はせず、読書を愛し、いま日本国民が待ち望む「クリーンな政治家」の鏡みたいな人だった。第一身分をはじめ敬虔なカトリック信者を弾圧しただけでなく、中立であったはずの無神論者まで弾圧し、政敵ジロンド党を弾圧し、盟友エベールやダントンを処刑し、理性の神なるものを信奉し、1794年6月10日の「最高存在の祭典」を代表とする数多くのギロチンの祭典を開いた。疲労からか個室にこもって次の粛清ターゲットを考えているあいだに、タリヤンなど賄賂や不倫に見覚えのあるジャコバン党テルミドール派が平原派に働きかけ陰謀ネットを張り巡らし、1794年7月26日(革命暦テルミドール9日)に独裁者ロベスピエールは失脚し、翌日ギロチンの刑。青年行動隊(ジュネス・ドレ)によるジャコバン残党狩りがはじまる。

その後1795年から1799年の間の出来事を簡単に言えば、金権汚職でテルミドール派が失脚。亡命貴族のフランス帰国もあって、立憲派フイヤン党が復活し立憲王政をめざしたが、ナポレオンの武力行使の助けを借りて、ジロンド党・ジャコバン党など共和政を固持しようとする勢力によって、立憲派が排除された。1799年11月9日、ブリュメール18日のクーデターによって、ナポレオン・ボナパルトが議会を武力制圧し、統領政府を樹立した。ここにフランス革命は完全に終わりを告げた。

同じ友愛精神をかかげた結社の人たちが、ジロンド党とジャコバン党に分かれて、フランス国内を荒廃させたのがフランス革命でした。結局、なにがのこったのでしょうか?国民の信仰支持が非常に篤かったカトリック教会の堅固な伝統的権威が破壊され、革命の敵と風評を受けた人々が裁判を経ずたくさんギロチンにかけられ、対外戦争に明け暮れたくさんの人々が戦死したり虐殺されたり、経済は改善するどころか国庫がカラになるまで破綻をきたし、食糧は相変わらず品不足でした。

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2009年6月 4日 (木)

和服の重要性

200906041052000 昭和40年代、私が物心ついたころ、老人は和服を着ていた。こどものいたずらには、他人の子であれ烈火のごとく怒り、鉄拳が頭に落ちるとてもおっかない存在だった。善いことは善い、悪いことは悪いがはっきりしていた。団塊世代以降のご老人をみるに、和服姿をとんとおみかけしない。洋服、ジーパン、エレキギター、ジャズは日本古来の産物ではない。若人とは欧米に憧れ日本の伝統文化を否定しがちなものだ。しかし人生一度は西洋かぶれしても、やっぱり原点の和にもどるという模範を、老人はこどもたちのために示さなくてはならないのではなかろうか。和の衰えは、日本の国勢の衰えとなる。国技である相撲界の衰えも気になる。数多くの政治ネタ番組をみるにつけ、公共の場で日本国家の政治を論じるのに和服を着ていないのが気になって仕方がない。下馬評と片付けるには、あまりにも社会的影響が大きい。 

聖徳太子が説いた和は倭に通ずるとして、中国・韓国・北朝鮮といった近隣諸国包囲網からの評判が非常に悪い。高句麗の広開土王碑に曰く、「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 」(解釈)”そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。” フランス・ロシア・オランダ・オーストリア連合軍に攻め入られた七年戦争で、フリードリヒ大王(Friedrich Der Grosse)の下、プロイセンが国家存亡の危機を脱することができたのは、頑固一徹に原点を守り続けた老人たちの存在であったことは忘れてはならない。

フリードリヒ大王 

http://www.youtube.com/watch?v=ZMRF11GhtfQ

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