2022年9月28日 (水)

潤花ちゃん退団

残念ですが、お疲れさまでした。アダルトな芝居も躍動的なダンスもお上手なジェンヌさんでした。屈託のない明るさに励まされてきました。猫の芝居で足音を立てないように踊ってますというコメントが一番感心していました。宙組組替えから真風涼帆(ゆりか)さんの名前の連呼では仕方ありませんね。

待ちに待った(待ちくたびれた)芹香斗亜(キキ)さんのトップ時代が到来、ますます楽しみです。トップ娘役は、じゅっちゃん(天彩峰里)でしょうね。神戸Wコンビになるかな。2番手娘役は、ひろこちゃん(水音志保)で。

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2022年9月25日 (日)

山の辺の道を歩いて

大和西大寺8:40発の天理行き急行に乗って嫁と天理へ。七支刀の石上(いそのかみ)神宮をスタートして、大神(おおみわ)神社がゴールの山の辺の道を歩きました。長岳寺など寄り道をしましたので、ざっと28000歩。

石上神宮 百済七支刀と神の使いの鶏たち

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芭蕉も沢庵和尚も訪ねていた内山永久寺。今は廃寺ですが、鳥羽天皇が創建し、後醍醐天皇も訪れ、江戸時代まで、ものすごく栄えていたようです。

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二上山(ふたかみやま)を遠く見て

大津皇子と山辺皇女の殉死。

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馬見(まみ)丘陵を遠く見て 

神武天皇と登美の戦いは激烈でした。

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長岳寺 本堂で休憩、足の疲れを癒しました。朱印帳に記帳。

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阿弥陀三尊坐像 1151年 玉眼を使用した仏像としては日本最古!

日本最古の鐘楼門 平安時代

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崇神天皇陵 四道将軍を派遣

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景行天皇陵 日本武尊を派遣

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ヒガンバナが山の辺の道に咲き乱れていました。

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耳成山と畝傍山を遠く見て

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日本武尊を偲びつつ

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桧原(ひばら)神社 朱印帳に記帳。

古代イスラエル末裔と言われる秦氏の三つ鳥居。

祭神は、元伊勢、天照大神。

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大神(おおみわ)神社 朱印帳に記帳。

祭神は大物主。この神様は古いよ!縄文時代でしょう。

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JR万葉まほろば線 三輪駅を15:10発、JR奈良下車し、日焼けした身体を冷やしました。

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2022年9月23日 (金)

玉木俊明著「物流は世界史をどう変えたのか」を読んで

新しい視点から国家繁栄の要因を考えさせてくれる本。船舶の歴史は世界史の学習にとって重要だ。

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ローマ人はフェニキア商人とギリシャ商人が作り上げた地中海交易ネットワークをパクっただけなのは知っていた。ギリシャ・ローマは、フェニキアのバイレム船を改良して、トライレム船を使用した。戦闘時、体当たりしたときの衝撃がより強い。驚きは、紀元前8世紀にフェニキアがこんな船をすでに持っていたことだ。さすがエーゲ海・メソポタミア諸国を全滅させた「海の民」の末裔だわ。

バイレム船(2段櫂)

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トライレム船(3段櫂)

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やがて地中海交易はイタリア商人が一手に引き受ける。ガレー船が一世風靡したが、木材伐採がひどくなり造船ができなくなった。地中海に台頭してきたスウェーデン船にとって替わられた。地中海交易は廃れ北欧バルト海交易が繁栄したのは、北欧が木材の宝庫だから。

ガレー船

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オランダがスウェーデンに替わって、バルト海諸国の穀物と木材を地中海諸国にもたらした。

フリュート船

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地中海ヨーロッパと、唐・宋・元を結ぶ海の道は、アッバース朝~インドイスラム王朝のムスリム商人が有名だが、16世紀に独立したグジャラート王国のヒンドゥ教徒グジャラート商人と覇権を争っていたのは知らなかった。安史の乱で食いっぱぐれたソグド商人がアラビア半島の海上で再就職していたのは有名な話。彼らは季節風だよりのダウ船を使用。17世紀になるとポルトガル商人が乱入した。ポルトガルのカラヴェル船に関してよくわかっていないそうで、厳しく造船技術を秘匿していたからみたい。

ダウ船

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カラヴェル船

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東南アジアから中国まではジャンク船が主流。

ジャンク船

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スペインのガレオン船が新大陸から大清帝国に銀を運んだ。清朝が税を銀一律で納める地丁銀制を採用できたのは、銀があふれていたおかげだ。

ガレオン船

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オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が、大型商船でヨーロッパ・アジア貿易に参入してくる。とくにオランダ東インド会社は貧乏なドイツ人を雇い入れインドネシアに住まわせ商売した。ドイツ人シーボルトがオランダ人の顔をして出島に紛れ込んできたのもこんな背景があったようだ。サファヴィー朝ペルシャに住むアルメニア人がネットワークを駆使して東インド会社の交易を支えた。

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イギリスが繁栄できた(パックスブリタニカ)のは、産業革命による工業ではなかった。航海法により物流を支配し、蒸気船を使って海運業を支配したからであった。イギリス東インド会社は中国との茶貿易を独占し、関税が高い高級茶をイギリスにもたらした。フランス東インド会社とスウェーデン東インド会社は、中国から低級茶を密輸してイギリスに輸出して儲けた

 

ヴァイキングのロングシップ(ドラカー船)が、ハンザ同盟のコッゲ船、のち改良されカラック船に敗れた。波が穏やかなバルト海にしか通用しない船たちだ。体当たりされたらドラカー船はすぐに沈没する。

ドラカー船

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コッゲ船とカラック船

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2022年9月22日 (木)

宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習まとめpart2

外交方針

 洋務派 西洋かぶれと言われようとも、西洋に学べ

 清議派 西洋を直ちに攘夷しろ。洋務派はもはや同胞ではない。クリスチャンを粛清するボクサー集団(=義和団)に発展。

 

1.清王朝体制側

 曽国藩 洋務派。太平天国の乱(1851~1864)鎮圧で列強武力の凄さを目の当たりにした。

 李鴻章 曽国藩を尊敬する洋務派。世論支持を得るため洋務派か清議派は明確にしたくない。ビスマルクのように多方面外交で乗り切りたい。さすがに西洋式海軍(北洋艦隊)を作っちゃうと清議派連中から洋務派と思われ同胞じゃないと言われるので海防が遅れ、虚勢を張ったけど戦争になり、日清戦争で日本に準備不足で完敗した。初期国会の紛糾でまさか日本が宣戦布告してくるとは思わなかったよ。デキル男だと買っていた袁世凱は朝鮮からとんで逃げてきたしね。下関条約では李鴻章が欠席する講和では話にならんと陸奥宗光と伊藤博文に言われちゃったし、老体でしんどかったけど出席した。ヨーロッパには逐一講和内容を打電して三国干渉をお願いしておいたからね。俺、ヨーロッパじゃ人気者だったし、ほんもののビスマルクと会談したこともあるよ。日本の動向は常に気にかけていたのにね。朝鮮の動向は若い袁世凱に任せて、朝鮮独立にうるさい日本を退け、ロシアの兵力を使ってでもなんとか属国を維持してくれ。(←ここ大事!日露戦争の要因は李鴻章がつくった!)

 

1898年、光緒帝の変法運動後に分裂

(守旧派)栄禄

(光緒派)譚嗣同 ←康有為・梁啓超が支持を宣伝

*宰相・譚嗣同は、軍を掌握している袁世凱を信じて栄禄殺害を命じるが、栄禄とズブズブ関係だった袁世凱は、頤和園で我が世の春だった西太后に密告。西太后は、光緒帝ともども光緒派粛清をおこなう。

 

1899年、義和団事件 外国公使館員を大虐殺!

 西太后 義和団を支持。義和団よ、その勢いで忌々しい列強をやっつけて。栄禄よ、義和団に加勢してあげて。

 栄禄 義和団に関しては中立を保つも、列強8カ国に配下軍をボコボコにされる。

 栄禄の部下・袁世凱 列強に味方して義和団を弾圧。列強は袁世凱を支持し、配下軍が残った。

 

1900年、孫文「南清独立計画」失敗。両広総督・李鴻章に独立支援するよう、日本・東亜同文会と台湾総督・児玉源太郎の協力を仰いだ。

ナンバー1は孫文であり、ナンバー2が黄興であった。孫文は外国から支持を出し、中国で闘うのは黄興だった。

 

2.ジャーナリスト

 孫文 異民族国家である清朝を革命で滅ぼして漢人国家を作れ。多くの日本人が支援するも中国に拠点がないためアメリカに拠点を置き、のちに中国共産党と同調する。(のちに国民党・蒋介石が孫文に猛反発するも、スターリン・コミンテルンにモスクワまで拉致殺害されかけ国共合作を強制される。)「党国体制」賢明な党が上から愚かな人民を救済する。

 康有為梁啓超 洋務派。清朝を残し、憲法と国会を作れ。皇室が変わることで上からの改革を目指した。守旧派は従来通りの皇室を維持する。

 宋教仁 革命で清朝を滅ぼせ。武力に劣る孫文が清朝体制側の袁世凱に「中華民国大総統の座、どうぞどうぞ。」したことに怒る。

五四運動後の新文化運動、儒教批判

 陳独秀 1903年に安徽愛国会結成。北京大学学長・蔡元培とともに暗殺団を育成し爆弾テロを計画する。自由で自立した人民が下から支える国家づくりを主張。孫文の「党国体制」を批判。国民の解放、国民の自由な権利回復を目指すのではなく、袁世凱から国家権力を奪い返すことを目的とした孫文の中華革命党をさらに批判した。アテネフランセでフランス語を学んだ。1915年に「新青年」執筆。民主主義と民権主義を主張した。多くの革命家のバイブルとなった。1920年にソ連コミンテルンのヴォイチンスキーが陳独秀に接近。ソ連の武力で社会主義革命を実現しろ。「マルクス主義研究会」を結成。のちスターリン主義を批判したため、中国共産党から抹殺された。

 *毛沢東は初期の共産党活動には存在しない。途中から参加。

 李大釗(りたいしょう)1918年にボルシェビキを紹介。ソ連コミンテルン・ヴォイチンスキーに、「自分より陳独秀のところへ行ったほうがいい。」と助言した。

 胡適 白話運動。忌まわしき儒教用語を離脱して、自分の言葉で思いを綴った。

 魯迅 狂人日記、阿Q正伝。中国人の欠点を羅列して強烈に批判した。そのなかに「食人文化」もある。

 

 日本で「特高による赤狩り」が行われたというが、中国人マルキストの日本での活動は野放しだ。そりゃ日本人マルキストも後を絶たないわけだ。マルクスは英国産業の分析だけを行って資本論を書いただけで、ほかの国々はそれぞれ事情が異なり資本論を適用できない。いまの共産党は主権在民を捨て、新たな皇帝を作り上げただけだ。

 

1911年、辛亥革命後の中華民国大総統選挙

国民党 宋教仁

共和党 黎元洪

民主党 梁啓超

統一党 章炳麟

1912年、中華民国南京政府

臨時大総統 孫文(そんぶん)

臨時副総統 黎元洪(れいげんこう)

陸軍総長 黄興(こうこう)

教育総長 蔡元培(さいげんばい)

実業総長 張謇(ちょうけん)

外交総長 王寵恵(おうちょうけい)

1912年、中華民国北京政府

臨時大総統 袁世凱(えんせいがい)

1913年、袁世凱討伐に失敗し、多くの革命派が日本へ亡命。孫文、黄興、李烈鈞、柏文蔚、陳炯明(ちんけいめい)。孫文が「中華革命党」をつくるも、孫文に絶対服従を求めたため、革命派が分裂し、反孫文派は「欧事研究会」を立ち上げた。

1914年、第一次世界大戦。日本がドイツに宣戦布告、日英同盟により英国と共同し山東占領。一気に反日運動が高まる。

1915年、加藤高明外相主導のもと、日置益・中華公使が袁世凱大総統に対華二十一か条の要求。

大隈重信首相は袁世凱帝政に不干渉、石井菊次郎外相は反対。袁世凱は第一次世界大戦に参戦することで列強から承認を得ようとした。日本は中華帝国が戦勝国になると山東利権が脅かされるので反対。

1916年、中華帝国皇帝・袁世凱死去後の軍閥割拠

大総統 黎元洪(れいげんこう)

副総統 馮国璋(ふうこくしょう) 北洋軍直隷派

国務総理 段祺瑞(だんきずい) 北洋軍安徽派

 

1919年、五四運動。日本から山東利権回収困難に反対した反日運動。

北京政府

 直隷派 呉佩孚(ごはいふ)・曹錕(そうこん)

 安徽派 段祺瑞(だんきずい)

 奉天派 張作霖(ちょうさくりん)

広東政府 「連ソ容共扶助工農」

 孫文・陳炯明(ちんけいめい)・蒋介石

1920年、安直戦争

 直隷派が張作霖と共同して安徽派を破る。

1922年、第一次奉直戦争

 直隷派が奉天派を破り、張作霖は滿洲へ逃れる。

1923年、第二次奉直戦争

 曹錕が賄選で大総統に就任。張作霖が安徽派・広東政府と結び、さらに馮玉祥が寝返って、直隷派を破る。

1924年、直隷派の馮玉祥(ふうぎょくしょう)が反乱、曹錕を監禁、紫禁城の宣統帝溥儀を放逐した。ソ連は馮玉祥と孫文を革命勢力とみなし武力提供した。

1925年、孫文死去。

1926年、蒋介石が汪精衛(汪兆銘)から主席を奪い、北伐。直隷派の呉佩孚、孫伝芳を各個撃破。

1927年、蒋介石が反共クーデタ、南京国民政府を樹立し、武漢の国民党に決別。ソ連の軍資金援助を失った蒋介石が田中義一首相に軍資金援助を依頼。蒋介石「新生活運動」で日本を模倣し、ラジオ放送を用いて規律ある国民生活を強要した。

1928年、蒋介石、馮玉祥、閻錫山、李宗仁が北伐を再開。孫伝芳、張宗昌、張作霖を破り、北京・天津を平定した。済南事変と張作霖爆殺事件により反日感情が高まった。張学良が東三省を統治。

1930年、中原合戦。蒋介石が張学良の協力を得て反蒋派を撃破した。

1931年、蒋介石が胡漢民を幽閉し内紛。そのとき起きた満洲事変に対抗するため、孫科を首班とする南京国民政府が発足。すぐ倒れ、蒋介石・汪精衛が協力体制で復帰。

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2022年9月21日 (水)

消化管ESD(粘膜下層剥離術)

長崎大学消化器内科の山口直之先生のご講演を拝聴いたしました。大変感銘を受けました。

食道早期癌に対する消化管ESDの症例提示がわかりやすく、ステロイドや再生組織パッチなどで少数ながら起こりうる術後狭窄を防止したり、血液抗凝固療法中の症例の消化管出血予防を考慮した内服薬選択、抗潰瘍薬と遺伝子多型の関連、〇%の確率で存在する筋層欠損症例の術中早期発見や穿孔サインの発見方法、術後穿孔の有無の確認方法、内視鏡光強度、インジゴカーミン低濃度設定など具体例の提示があり大変参考になりました。

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2022年9月19日 (月)

宝塚歌劇宙組「High&Low」「Capriccosa!!」(4回目)をみて

台風接近のなか、近畿自動車道、中国自動車道を走って宝塚大劇場に行ってきました。井高野君とSS席ど真ん中で観劇しました。宝塚阪急は15時閉店。キャトルレーヴに二人で行きましたが、今日も水音志保ちゃんと花宮沙羅ちゃんのブロマイド写真は売り切れてました。

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まずプロローグ、秋音光君がジッと私をみてくれ、次に桜木みなと君がジーっと私を見て、潤花ちゃんと視線がジーっとあいました。潤花ちゃんは雪組時代から咲さまとの別箱主演公演は欠かさず観てきましたし、光栄ですぅ!基本左斜め上に目線をおく水音志保ちゃんはチラッと目が合ったかなという感じ。高嶺の花ですわ。天彩峰里ちゃんは、目が合いませんでした、残念。真風涼帆君は右斜め前の女性にウィンク、ピョンと浮き上がって撃沈するさま、いとをかし。残念ながら芹香斗亜君は、キャバ嬢を守るのに忙しくて、目線が合わず。

前の席ふたりが男性でしたが、カップル2人で相手女性側に身をもたれてはりましたので、センター0番からズドーンと私がクローズアップされる形となりました。コアなファンアピールで例によって必要ないけど大きなオペラグラスを首にかけてましたし。

歌うま、有愛きいちゃんは相変わらず笑顔満載で楽しそう。双子ちゃんの一禾あお君ともども応援していますよ。

台風で高速道路と近鉄電車が止まったらシャレにならないので、終演後、速攻で帰宅しました。

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宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習まとめ

キーポイントは、中央と地方の分離。

原因は少ない滿洲人が大多数の漢人を支配するための亀裂だろう。皇室は皇室、民間は民間、別々に生きてきた。地方派遣の官僚は腐敗し自警組織を民間が作るしかなかった。この社会風潮はアヘン巣窟を生み、政治であれ宗教であれ秘密結社を生んできた。同郷者に金を投資して成功者から分け前をもらう仕組みは昔も今も変わらない。隣人の敵を陰口で貶め合う。これが中国の政治の温床にして原動力だろう。

いまの中国も、都市は都市、農村は農村、別々に生きている。なんら変わっていないのである。

雪組公演は現代中国に根本課題を想起させるものである。数々の挫折を乗り越え、真の民主主義国家が生まれることを切に期待している。

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宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習part5

袁世凱(えんせいがい)

淮軍将校の呉長慶と養父の袁保慶が兄弟の契りを結んでいた。

受験が苦手で科挙を受けていない。

二十一か条の要求 

中華民国大総統の袁世凱が勝って、加藤高明外相が敗れた。

侵略・日本のイメージが国際社会に根付いた。いったい日本がいつ侵略したというのだろうか?

 

1881年、呉長慶の慶軍に入隊。

1882年、壬午事変で慶軍とともに袁世凱が朝鮮出兵。

1884年、甲申事変。慶軍が清仏戦争に駆り出され、少数の軍を率いて日本軍と銃撃戦、朝鮮国王を奪回し日本人婦女子を凌辱して虐殺。金玉均ら独立党は竹添進一郎公使とともに日本へ亡命。

1885年、露朝密約が発覚。李鴻章が雇い入れたドイツ人メレンドルフが、朝鮮にロシア人軍事教官を招こうとしていたことが発覚し、メレンドルフが罷免された。ロシアを警戒していた英国が巨文島を占拠。

李鴻章は袁世凱を朝鮮総督に任じ、袁世凱は朝鮮朝廷に対し高圧的な態度で接した。

1887年、袁世凱は国王高宗を廃しクリスチャンを弾圧したため、アメリカ人顧問デニーと対立した。

1893年、朝鮮保護国化を主張した自由党・大石正己が朝鮮公使に就任。大石も粗暴な態度で臨み、戦争寸前までいくが、伊藤博文と李鴻章の連絡協調によって回避。北京公使の大鳥圭介が朝鮮公使を兼任。

1894年、東学教徒が袁世凱に援助を求め反乱を起した。袁世凱の朝鮮出兵を察知した杉村濬(ふかし)書記官が日本へ出兵要請。袁世凱は唐紹儀に指揮を預けて清に帰国逃亡した。大鳥圭介公使が最後通牒を朝鮮に突きつけ開戦。

洋務派 李鴻章

清議派 李鴻藻・翁同龢(おうどうわ)・栄禄

1895年、残存した淮軍をもとに、胡燏棻(こいつふん)が定武軍を組織訓練したが、ハネケンと馬が合わず更迭、袁世凱が後任についた。歩兵・騎兵を追加徴募して新軍を結成した。ドイツ軍を模範とした。段祺瑞(だんきずい)、馮国璋(ふうこくしょう)、王士珍(おうしちん)が袁世凱の部下となった。のちに北洋三傑と呼ばれた。

1896年、胡景佳(こけいか)・李鴻藻が袁世凱を弾劾したが、栄禄が保護した。

1895年、科挙試験中の康有為(こうゆうい)が下関条約調印の知らせを聞き、日本との停戦に抗議、内政・制度改革を政府に提出した。「変法」運動の始まり。梁啓超とともに、「強学会」「保国会」という団体を発足させ、「強学報」「時務報」という機関誌を発行した。下級官僚と知識人をターゲットにしたジャーナリズム運動。康有為は袁世凱と交流をもちはじめた。

1898年、光緒帝が戊戌変法を号令し、翁同龢(おうどうわ)を罷免、王文韶(おうぶんしょう)を後任とした。譚嗣同(たんしどう)を宰相に任じた。科挙を廃止して、京師大学堂(のちの北京大学)を創立した。無駄な「冗官」を廃止する行政改革であった。外相の李鴻章を罷免。明治日本を模範とし、日本との連携を模索し、光緒帝に謁見した伊藤博文を顧問に据えようとした。さらに譚嗣同は袁世凱を招致し、直隷総督の栄禄を処刑させ、頤和園に住む西太后を包囲攻撃させようとした。

袁世凱から報告を受けた栄禄は、西太后に謁見し、変法派が弾圧された。譚嗣同は処刑、康有為と梁啓超は日本に亡命した。

守旧派は、排外に旋回した。その外国排斥の社会風潮の一環で、義和拳というボクサー(拳匪)の秘密結社が山東省に生まれた。山東巡撫の李秉衡(りへいこう)はその結社を黙認していた。ボクサーがクリスチャンを襲撃し、毓賢(いくけん)が山東巡撫に後任となるも結社をまたもや黙認した。さらに「扶清滅洋」を掲げる団練として政府公認した。

栄禄が武衛軍を結成した。これは当時最大の軍で、配下には、

聶士成(じょうしせい)の武毅軍(ぶきぐん)

董福祥(とうふくしょう)の甘軍(かんぐん)

袁世凱(えんせいがい)の新軍

1899年、栄禄は列強に不人気だった毓賢を罷免し、袁世凱を山東巡撫とした。袁世凱は義和団を弾圧すると明言したため、暴動を起こし清朝軍と交戦。列強は公使館を守るため自国の兵を派遣上陸させた。西太后側近の剛毅は義和団を支持し義兵として参戦。董福祥の甘軍が日本公使館の杉山彬書記生を殺害した。

1900年、西太后は、反対派官僚を処刑して、列強に宣戦布告。列強連合軍は聶士成の武毅軍を破り天津を占領。北京に進軍して西太后と光緒帝は西安に逃亡。列強は「黄禍論」を唱えて殺戮をつづけた。

袁世凱の新軍は義和団を虐殺して外国人を保護した!栄禄は中立だったため処刑は免れたが、武衛軍は壊滅した。

1901年、李鴻章と慶親王(=愛新覚羅)奕劻(けいしんのうえききょう)が北京議定書締結。李鴻章が病死すると、

直隷総督兼北洋大臣 袁世凱

両江総督兼南洋大臣 張之洞(ちょうしどう)、劉坤一(りゅうこんいつ)

光緒新政 南洋大臣の二人が「東南互保」を経て本格的に洋務運動をはじめた。

北洋新政 北洋大臣の袁世凱も本格的に洋務運動を始めた。巡警(警察組織)を設置し西洋の刑法・民法で取り締まった。趙秉鈞(ちょうへいきん)と、日本警視庁の三浦喜伝が取り仕切った。天津に巡警総局を設置、北洋巡警学堂を創立した。

清国警察の推移 緑営→団練→巡警

外国貿易によって天津経済は活況となった。人口も膨張。

1902年、日英同盟でロシアを圧迫、満洲還付条約を結ばせるが軍を退去させなかった。

1904年、袁世凱が愛新覚羅の名で北洋六鎮を設置。江南に袁世凱子飼いの新軍を設置した。

第一鎮(北京) 北苑(ほくえん)

第二鎮(直隷) 保定(ほてい)

第三鎮(吉林) 長春(ちょうしゅん)

第四鎮(天津) 馬廠(ばしょう)

第五鎮(山東) 済南(さいなん)

第六鎮(北京) 南苑(なんえん)

1904年、日露戦争。袁世凱は局外中立を宣言。日露共倒れを期待した。

1905年、ポーツマス条約。日本が辛勝し、旅順・大連租借&東清鉄道経営獲得。北洋六鎮が直隷省で大規模な軍事演習。科挙を廃止したため、日本留学生が激増した。科挙合格者「紳士」が既得権益を守るため「文明抵制」を掲げ日本留学生に抵抗した。

1907年、第一次日露秘密協約。満洲北をロシア、満洲南を日本とした。それに対抗して、袁世凱が設置。

東三省総督 徐世昌(じょせいしょう)

奉天省巡撫 唐紹儀(とうしょうぎ)

吉林省巡撫 朱家宝(しゅかほう)

黒竜江省巡撫 段芝貴(だんしき)

1908年、西太后と光緒帝崩御。宣統帝溥儀が即位。列強視察団から袁世凱が非難されたため、新しく設置された陸軍部に第1,3、5、6鎮を移譲し、鉄良をトップに据えた。袁世凱は第2,4鎮のみ直轄した。

1908年、欧米日本を視察した大臣たちが憲法大綱を発布。

1909年、宣統帝溥儀の実父にして摂政だった載灃(さいほう)が袁世凱を罷免。養壽園で隠居生活を送った。

1910年、汪兆銘が載灃暗殺未遂、才能を惜しまれ死刑を免れた。

1911年、日本を模倣した内閣官制を開始。憲法大綱を口実にして、載灃の息のかかった人物が大臣を占拠。立憲派は大いに失望した。

立憲か革命か

梁啓超「新民叢報」を支持するか中国同盟会「民報」を支持するか

 

1905年、赤坂の坂本金弥邸で中国同盟会結成。満洲人支配を転覆し、漢人の政権を取り戻し、共和制を樹立する。機関誌「民報」を発行。広州に拠点を作って北伐する作戦だったが結局失敗に終わった。そこで長江流域に拠点を設け拡大する作戦に変更。

孫文 興中会

黄興(こうきょう)・宋教仁(そうきょうじん) 華興会

章炳麟(しょうへいりん) 光復会

汪兆銘(精衛)・胡漢民・章炳麟 中国同盟会

 

1911年、辛亥革命。鉄道国有化反対運動に政府軍が投じられた。革命派が武漢三鎮を制圧し中華民国湖北軍政府を樹立。反清に転じた立憲派の諮議局と、革命思想に染まった新軍も合流した。載灃が、陸軍大臣・癊昌に換えて袁世凱に鎮圧を要請。北京攻撃を回避するため、載灃は袁世凱を内閣総理大臣に任命した。

北京政府代表 唐紹儀(とうしょうぎ)

湖北政府代表 伍廷芳(ごていほう)

停戦協定を締結。

1912年、孫文を中華民国臨時大総統に選出して中華民国建国を宣言。南京臨時政府を樹立。

国民党 宋教仁

共和党 黎元洪

民主党 梁啓超

統一党 章炳麟

列強干渉と南北戦争を回避すべく、宣統帝溥儀退位を条件に、軍を持たない孫文は臨時大総統の座を袁世凱に譲り渡した。ところが、南京ではなく北京で内閣総理大臣に着任した袁世凱に南方革命派が猛反発。袁世凱は、国務総理の唐紹儀を罷免、趙秉鈞を任じた。

1913年、革命派の宋教仁が国民党を結成し、国会圧勝。宋教仁が国務総理に選出され、いずれ袁世凱を追い落とす計画だった。袁世凱は宋教仁を暗殺してしまった。革命派の武装蜂起を難なく鎮圧した。黄興、李烈鈞、胡漢民は日本へ亡命。国民党を解散させた。

1914年、国会を解散させ、袁世凱は「中華民国約法」を公布して、任期10年の大総統に就任。

1915年、二十一か条の要求に抵抗すべく共和制をやめ、袁世凱が皇帝に即位。祭鍔(さいがく)率いる護国軍が帝政撤廃を求めて雲南省で蜂起。

1916年、馮国璋の反発が効いて、袁世凱が退位、尿毒症で急逝。

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2022年9月18日 (日)

宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習part4

梁啓超

変法に挫折し、日本に亡命。清に「国家」「国民」の概念を植え付けた先駆者となった。

日本で精力的なジャーナリズム活動を通じて、愛国主義の普及と国民国家の形成に尽力した。会誌「清議報」を発行。

李鴻章に関し、外交ばかりで内政を知らない男と批評し、いまだにその評価は続いている。

皇帝専制のロシアが立憲制の日本に敗れたというイメージが、梁啓超をさらに奮い立たせた

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宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習part3

李鴻章

東洋のビスマルク」と称賛された。

父・李文安と曾国藩は進試合格の同級生!

郷試合格後、翰林院侍講学士であった曾国藩に学び、進試に合格。

春帆楼で日清戦争下関条約に出席

小山豊太郎によって左頬を狙撃されるも会議に出席

 

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乾隆帝は、治安維持のための海禁を解除。英国の茶輸入によって銀不足転じて銀収入が激増し、デフレ不況が大好況に転じた。大清帝国皇帝自身は通貨発行に関与せず、民間経済活動に関与せず、ただ税金だけを徴収させた。国がやらないので当事者同士が規則や罰則を取り決め、ばん、会、行(こう)を結成した。やがて会党によるアヘン密輸によって銀が流出した。

アヘン戦争に敗れた清は、広州以外に開港し、上海経由で貿易するようになり広州が衰退した。その広州から上帝会の蜂起が起こり、太平天国の乱に発展した。会党も太平天国に合流した。外国勢力は当初、太平天国に交易発展を期待したが、外国に対する尊大な姿勢に失望した。

湖南省を中心とする武装中間団体が、太平天国軍に付くか郷勇に付くか流動的であったため、曾国藩は審安局を設置して、太平天国に付いていると断定した敵対者を弾圧処刑し続けた。

1853年、呂賢基が咸豊帝に太平天国の防戦を建言し、それが受諾され、李鴻章とともに安徽軍司令官・周天爵に合流した。軍司令官がコロコロ変わる状況で、曾国藩の湘軍に移った。

1860年、蘇州が太平天国によって陥落。外国が上海在住の外国人を護衛するため、傭兵部隊を結成、これがのちの常勝軍となった。

曾国藩から清に推薦を受けた李鴻章が淮軍を新たに結成し、太平軍や捻軍との戦闘を後回しにして、上海紳士仲介でイギリス汽船に乗り上海上陸。天京(南京)を包囲する湘軍と、上海から進攻する淮軍&常勝軍の二方面に、太平天国の李秀成は兵を割かなければならなくなった。李鴻章は、呉煦(ごく)から上海資金を強奪した。もうひとりの上海ドンであった楊坊は常勝軍ウォードに資金提供しており、ウォードの戦死後、李鴻章は楊坊と呉煦を解任した。

用滬平呉(ようこへいご) 上海を活用して蘇州を平定した

常勝軍ゴードンと共闘した李鴻章であったが、太平軍将校の処刑を巡って意見対立し、ゴードンは常勝軍を解散した。李鴻章は曾国藩の洋務運動を引き継いだ。曾国藩は1864年天京陥落後、自ら創生した湘軍を解散し抵抗者を弾圧した。李鴻章は上海ドン・馮桂芬(ふうけいふん)を味方に付け根を張った。

西太后の命を受けた僧格林泌(せんげりんちん)が捻軍平定で戦死すると、1868年、李鴻章は淮軍を率いて捻軍を平定した。そのころの社会の風潮は、

教案 キリスト教に反感を抱き、クリスチャンを襲撃・迫害・殺害した。

清議 西洋を攘夷せよという論調

洋務 西洋を崇拝する論調

1864年、新疆、甘粛、陝西のトルキスタンが大反乱。

1865年、江南製造総局(上海)、金陵機器局(南京)を設立。

海防は洋務なので、自分が洋務か清議か態度を世に明らかに示す行為となったので、なかなか海防に踏み切れなかったのだ!!

1866年、左宗棠(さそうとう)が上海外国企業から借金して楚軍を率いてムスリム鎮圧(~1873)。

1870年、北洋大臣に李鴻章、南洋大臣に曾国藩。柳原前光(さきみつ)が国交を求めて天津に来訪、成林が応対した。

1871年、伊達宗城(むねなり)が天津に来訪。日清修好条規を締結。清が提供した条文がそのまま通った。その狙いは、日本の朝鮮侵攻を阻止することであった。ただし西洋と一戦を交える際には日本が役立ちそうなので味方に付けておくというものであった。

欧米列強に対する日清攻守同盟だという猜疑を晴らして、

1873年、副島種臣(たねおみ)が天津に来訪。日清修好条規を批准。台湾帰属問題を協議。

1874年、西郷従道(つぐみち)が琉球宮古島島民殺害に復讐のため台湾出兵。アメリカ公使ウェードの斡旋で日清戦争回避。

1875年、江華島事件。日本は琉球に対し、朝貢を禁じた。

1876年、森有礼が天津に来訪、平行線のまま、江華条約締結。

1877年、左宗棠が東トルキスタンを制圧、イリ地方をロシアと争う。

1879年、リヴァディア条約。崇厚(すうこう)が不平等条約を結び処罰を受けた。

1881年、ペテルブルグ条約。左宗棠の軍を背景にして、曾紀澤(そうきたく)が平等条約を締結。

1879年、琉球を沖縄県に編入した。

1882年、馬建忠が米朝条約を締結させる。狙いは日本の朝鮮に対する干渉を排除すること。アメリカが睨んでくれれば清にとって有利という勝算だった。

1882年、壬午変乱。大院君が日本大使館を襲撃。花房義賢(よしもと)が日本軍を率いてソウル入り。その直後、馬賢忠が淮軍を率いてソウル入り、大院君を北京に送致し、朝鮮軍を鎮圧。済物補(さいもっぽ)条約締結で日清戦争を回避。

1884年、甲申政変。独立党が日本公使館の武力を用いて事大党政権を倒した。3日後、袁世凱は淮軍を率いてクーデタ政権を倒した。1885年、伊藤博文と李鴻章が天津条約締結。

1882~1884年、清仏戦争。ベトナム領有権を巡って清とフランスが激突した。パリ条約で終戦。

1880年、天津水師学堂設立し、海軍士官を養成した。ドイツからハネケンを淮軍に招き、ドイツ式訓練を施した。

1888年、北洋艦隊を創立し、丁汝昌(ていじょしょう)を艦隊司令官に任じた。

1890年、旅順軍港完成。

1891年、北洋艦隊が長崎で示威行為。

1894年、東学党の乱。初期議会で日本は派兵不可能とみて、李鴻章の許可のもと袁世凱が朝鮮に出兵。陸奥宗光が日本軍をソウルに入城。

1895年、威海衛が陥落し、淮軍と北洋艦隊が壊滅した。下関条約。

英国は清を見限って、日本をロシア南下防壁とみなした。

ロシアは清を舐めて、南下を始めた。

李鴻章は下関条約の経過を逐一、ヨーロッパ諸国に電報で通牒し、三国干渉を促した

1896年、ニコライ2世蔵相ウィッテと李鴻章が露清密約を締結。ロシアと清が共同して朝鮮を守る。ロシアがシベリア鉄道を旅順まで敷設することを許可した!!

1897年、ドイツが膠州湾占領、ロシアが大連・旅順租借を要求。

変法運動 康有為・梁啓超が立憲君主制を主張。親露政策の李鴻章を解任した。西太后ら守旧派が復権し、光緒帝を幽閉。変法派を弾圧するため李鴻章を復権した。

1900年、光緒帝廃立に失敗した守旧派が山東省で義和団を結成し、クリスチャンを弾圧した(教案)。「扶清滅洋

西太后が列強に対し宣戦布告。日本の杉山彬、ドイツ公使ケテラーが射殺された。義和団事変に激高した列強は北京を支配し、西太后と光緒帝は西安に逃れた。上海洋務の代表だった咸宣懐は、広州の李鴻章と連絡。「東南互保」北京・天津で列強と交戦しつつ、長江沿岸の南方では列強と和解し、清の全面破局を防いだ。1901年、北京議定書、辛丑条約を締結。ロシアの強硬な要求を受けながら、李鴻章は大量喀血し死去。

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2022年9月17日 (土)

宝塚歌劇宙組「High&Low」「Capriccosa!!」(3回目)をみて

午前診を終え、近畿自動車道、中国自動車道を通って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。座席は1階真ん中あたり下手側の良席でした。

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「ハイロー」

栞菜ひまりちゃん(ずんの妹役)に注目しました。根は優しい子だね。

お兄ちゃん、この人つらそうだよー。

歌もダンスもうまいジェンヌです。デリシューで留依蒔世くんと怪しげなSMプレイを演じてらっしゃましたので、そこから注目してます。

潤花ちゃんのセリフ「形あるものはすべて滅ぶ。

お釈迦さんのお言葉を毎公演、拝聴しています。

「諸行無常」「諸法無我」

形あるもの、つまり五感で感じるもの以外に「存在」はあるのか? むずかしい哲学です。

物理学で言えば、形あるものとはプラスとマイナスのスピンをもつクォーク&ヒッグス粒子。一瞬で消え去る反物質や、対称性が崩れて宇宙空間に物質が豊富になるなど謎はとても深いです。

天彩峰里ちゃんのセリフ「コブラの女になってやる。

こ、これはわかりやすい。カッコいいです。

花宮沙羅ちゃんのセリフ「純子が行かないのなら、あたいが行くわけにいかないよ。

「カプリチョーザ」

下手側なので、水音志保ちゃんに注目。パチコン、パチコンと可愛く、4,5回ウィンクしてはりました。めっちゃ綺麗で目立ちます。あーちゃん(綺咲愛里)の再来と言ってもいいでしょう。優希しおん君、紫藤りゅう君、芹香斗亜くん、桜木みなと君とデュエットダンス。

おしとやかな楓姫(ふうき)るるちゃんにもぜひ新公ヒロインを。

エトワールの留依蒔世くんの真後ろ向かって左に、梨恋(りれん)あやめちゃんが立ってました。真後ろ向かって右にはもちろん、花恋(かれん)こまちちゃん。

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2022年9月15日 (木)

宝塚歌劇宙組「High&Low」「Capriccosa!!」(2回目)をみて

いつものように、近畿自動車道から中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。座席は1階やや前方上手側の良席でした。じゅっちゃん中心に観劇。上手側は天彩峰里ちゃん、花宮沙羅ちゃん、下手側は水音志保ちゃん。

本公演の目玉は、真矢みきが「スパルタカス」で歌った「アリヴェデルチ・ローマ  」に乗って踊るシーンです。

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留依蒔世さんの銀橋ソロをしっかり観ました。前方のお客さんにGet you!光線かましていたのが面白かったです。

かのちゃん、ますます綺麗になりました。トップ娘役としての貫禄も十分つきましたね。

春乃さくらちゃんの絶唱、凄かったです。

花宮沙羅ちゃんはWトップで歌い、ダンスもうまいし。ミラノ・スカラ座バレエ団でレッスンしたいとは向上心がすごいですね。

トップデュエットダンスのサイドで歌ったじゅっちゃん絶唱も良かったぁ。堂々とした舞台こなしでスタンバイOK。

ホワイトラスカルズ・パーティ会場でシャンパンをトレイにのせて運ぶウェイトレス役、そしてロケットの風羽咲季ちゃんをしっかりチェックしました。楓姫るるちゃん、ちょっと見かけましたが見失いました。次回も頑張って見つけます。

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2022年9月14日 (水)

宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習part2

フランス革命&ナポレオン戦争の死者 700万人

太平天国の乱の死者 7000万人

蒼穹の昴を理解するには、太平天国を避けては通れない

源頼朝のようにさほど戦功のない武将が、武士の鑑に祭り上げられたように、実直にして戦争に弱い曾国藩が、国家の忠臣として祭り上げられた。皇帝のドル箱であった蘇州が太平天国軍によって陥落して初めてあせった咸豊帝が、曾国藩を兵部侍郎から兵部尚書に破格の格上げを行うまでは、曾国藩は一介の小役人に過ぎなかった。太平天国の後継者内紛による自滅であたかも軍神と化した曾国藩。実際、乱を最終的に鎮圧したのは、部下の李鴻章であった。

曾国藩が洋務運動をはじめた。

1861年 内軍械所(軍需工場)を安慶に設立。

これは、1854年、韮山反射炉を江川英龍が設立したのと同じ、富国強兵策であった。

1872年、曾国藩死去。国家の忠臣として、李鴻章、趙烈文が祭り上げた。

変法運動を提唱した梁啓超、新生活運動を提唱した蒋介石は、曾国藩に心酔傾倒した

滅満興漢運動を提唱した孫文は、太平天国の洪秀全に心酔傾倒し、同族漢人を大量殺戮した曾国藩を非難した

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2022年9月13日 (火)

チャールズ3世即位

エリザベス2世崩御、お悔やみ申し上げます。

チャールズ3世即位、おめでとうございます。

歴代チャールズ国王は大変な時代でしたが、大きな転換点でしたね。

ピューリタン革命

チャールズ1世 クロムウェルによって斬首刑される

チャールズ2世 クロムウェルに復讐、墓を暴き晒す

クロムウェルの業績 英国を強国化

1.航海法

イギリス海運業を保護する政策(オランダを潰す)

2.消費税

戦時に国債発行して、平時に奢侈品に消費税を課して返済する

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2022年9月10日 (土)

宝塚歌劇宙組「High&Low」「Capriccosa!!」(1回目)をみて

午前診を終え、いつものおっさん3人組で宝塚大劇場に行ってきました。近畿自動車道、中国自動車道を走り直行しました。

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座席は1階後方下手側。

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宙組大劇場だけでなく、きわみん&ほのかちゃんがバウをやっていたので、いつものフルールが大混雑。キャトルレーヴへ向かい、2000円と340円で水音志保ちゃんのブロマイド大小、さらに花組本と宙組パンフレットを買いました。

第1部「ハイロー」

ヤンキーだらけのなか、水音志保ちゃんは、ふつうの洋服を着ているのですぐわかった。オペラグラスでひたすら追いかけました。舞台はじめと、はじめの床屋のシーンにわかりやすく出ている。

ロッキー(芹香斗亜)が主催する「ホワイトラスカルズ」のパーティーがみどころ。

芹香斗亜 いいわぁ

ポチャッと可愛い渚ゆりちゃん、風羽咲季ちゃんをオペラオペラ。いよいよ宙Pさん、この美人二世コンビをコンビ売りしはじめたね。108期、恋恋コンビもちらほら。

途中から、潤花ちゃんがカナとして登場したらもう眼福、オペラオペラ。コブラ(真風涼帆)に思いを寄せるレディース棟梁として天彩峰里ちゃんが登場し眼福。ちょっとメイクがこわい。笑顔が可愛いはずの花宮沙羅ちゃん、思い切ってるね。すぐ後ろには朝木陽彩ちゃんが常に息巻いていた。

敵役のリンが、留依蒔世くん。いまだに思うのだが、いっぺん銀橋で、留依蒔世くんと朝木陽彩ちゃんがシャウトしてほしい。超絶な歌世界が広がるだろう。

銀橋にスターがずらりと並ぶのだけれど、水音志保ちゃん、桜木みなと君、潤花ちゃんの並びが貴重で最高。花娘も美人だらけなのだけれど、宙娘も美人が多いのなんのって。

山王連合会の中に、ハンサム亜音有星くん、いいわぁ。

ダルマ一家の中に、ハンサム輝ゆう君を発見、いいわぁ。

潤花ちゃんの「出ちゃった。」はおもろい。

EXILEヒロの世界観がよくわかった。難しいことは考えずに、ひたすら御贔屓をオペラグラスで追っかければ楽しめる。

第2部「カプリチョーザ」

イタリア各地のショー、デリシュー並みに最高にいい!これだけでいいくらい。

ナポリの場面。潤花ちゃんが娘役を率いて踊りまくる。待ってました。水音志保ちゃん、春乃さくらちゃん、楓姫るるちゃんを追っかけ。

ヴェネチアの場面。湖上の小舟の中に、真風涼帆&女装の桜木みなと、そこへダンサー秋音光が絡む。

フィレンツェの場面。真風涼帆&潤花、芹香斗亜&天彩峰里、桜木みなと&水音志保のトリプルデュエットダンスがよかった。

中詰めのロケット。真打ちの優希しおんがリードダンサー。グランフェッテ何回転やってるねん。渚ゆり、風羽咲季、恋恋コンビを追っかけ。

ミラノの場面。デュエットダンスが多く、水音志保(ひろこ)ちゃんは紫藤りゅう(しどりゅう)と組んでめっちゃ眼福。

ローマの場面。銀橋で留依蒔世くんがカンツォーネのソロ、凄すぎる、退団がほんとうに惜しい。

エトワールは、留依蒔世くんで締め、ほんとうに残念。

真風涼帆、芹香斗亜、潤花で意味深なダンス場面があったが、次期トップコンビは、芹香斗亜&潤花、潤花ちゃん続投なのかな?

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駐車場から観た中秋の名月。

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2022年9月 9日 (金)

宝塚歌劇星組(1991)「紫禁城の落日」をみて

久しぶりにみましたが、ずっしりと話が重すぎました。戦後に一区切りをつける総決算の演目でした。

婉容の誕生日に、愛新覚羅溥儀が蘭の花束をもってお渡り。そのときの婉容のセリフ「この蘭の花はどんな宝石よりもうれしい。」これが主題歌「花白蘭」につながるのですね。ロンドンで皇帝と暮らすことだけを夢見てかなわなかった婉容が、アヘンにむしばまれていく様は涙を誘いました。五族協和を賛美する満洲国歌がいまとなっては物悲しい。満洲国自体、社会主義の実験国家であったのがなんとも言えない。大型コンビナート、新幹線・・・・・

ヨーロッパ列強に侵略され、近代兵器を持たず雌伏に甘んじるしかなかった大清帝国、西太后ら皇帝の関心は内陸ばかり、まったく沿海には興味がなかった。王が神であること以外すべて主張が正しかった民主主義国家・太平天国をつぶし、「蒼穹の昴」でも演じられるであろうが、専制主義を脱却して民主主義国家をめざした光緒帝、康有為ら変法派をつぶし、人生一度でいいから皇帝というものになりたかった袁世凱の玩具にされ、我も我も皇帝にと張作霖、蒋介石ら軍閥が群雄割拠、ソ連から社会主義者が侵入し、長征という逃避行で多くの民を虐殺し、ナチスドイツが蒋介石に武器提供、スターリンが歯を磨かない毛沢東に武器提供、蒋介石を拉致し国共合作に成功。日本軍の強さを思い知ったスターリンが、近衛文麿を操ってソ連から米英に目線を変えさせる南進策に成功、日本軍は満洲国から万里の長城を越えて南進をはじめ、泥沼となった。満洲国に多少なりともまだ理解があった英国まで敵に回してしまった。英国では無口の小村寿太郎より饒舌英語堪能の加藤高明のほうがはるかに人気があった。その加藤も中華民国に不慣れで、袁世凱の国際的プロパガンダ策に負け日本の国際的立場をより不利にしてしまった。

建国時はめっぽう強かった満洲族八旗も、着替えも歯磨きもできない溥儀さんが皇帝ではそりゃ弱くなりますね。ソ連軍に空港を抑えられ中国共産党に渡され投獄、徹底した思想洗脳教育を受けることとなった。

日露戦争後、驕った日本は、神国精神論に走る。独裁状態だった原敬首相はアメリカにこびへつらうも、肝心のウィルソン米大統領がソ連の犬。いつしか社会主義者が、貧困にあえいでいた田舎出身が多かった日本の軍部に浸透。スターリンの思い通りに事が運んで行った。大正8年(1919年)に大きな教育改革が実施、高等教育の拡充が叫ばれた。学歴貴族と呼ばれた新興貴族たちは社会主義にかぶれ、天皇制打破、国家転覆を図るまでになった。国民学校と称する思想洗脳教育の本質は、「国のために死ね。万世一系であらせられる天皇陛下のために死ね。」日清・日露戦争の延長で、軍事物資に乏しいのを生身の人間の肉弾でカバーするための教育に変わった。軍縮で仕事を失った退役軍人が国民学校、中学校、高等学校に配置された。台湾、満洲、朝鮮の中央銀行から資本を本国に持ってきてもなお貧乏から脱却できない日本。まず結論ありきの精神論・イデオロギーが、合理主義者を駆逐し、金がなくては戦争できないはずなのに、226事件で高橋是清を殺し、風見章らが経済を統制しデフレ大不況に陥れ、ますます戦局は日本に不利となった。最後は、アメリカ社会主義者が仕組んだ偽のハルノートでTHE END。起死回生策があるとすれば、(ナチスドイツに負け宗主国フランスが不在となった)インドシナ行軍&マレー海戦に乗じて石油確保にとどまらず一気にインドを攻め英国を降伏させ講和に持ち込みアメリカを孤立させるか、真珠湾をやらずに米領フィリピン侵攻までに留め、日本近海防衛ラインで海軍大艦隊および急降下爆撃機を、補給路を伸ばした米国艦隊にぶつけるかだった。

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2022年9月 6日 (火)

いま流行っている病気

1 hMPV(ヒトメタニューモウィルス)感染症

2 Covid-19(新型コロナウィルス)感染症

3 RSウィルス感染症

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2022年9月 3日 (土)

最近の気づき

教師は独裁者である。こどもを自分の言いなりにできる力を持つ。だから自分の発言に最大限注意を払い続けなければならない。

こどもはおとな以上に観察眼がある。

宿題をしなかったこどもを叱るだけだと、宿題をしたこどものやる気を失う。

教師に忖度するだけのこどもを育てていることになる。教育とはマネージメントである。

 

100%正しい政策はない。少数意見を聴く習慣を小学校からつけるべき。

幕末の人は、欧米人に臆することなく対等に渡り合ってきた。なぜか。国民として両親から生まれたという意識、言い換えれば「自分はこのままでいいのだ。」という自己肯定感をしっかりと身に着けていたから。

国民の歴史を学ぶということは、自己肯定感を育てることにほかならない。

 

1921年(大正10)後藤新平が水道水塩素滅菌開始。陸軍秘密兵器だった液体塩素を応用。

主に結核菌が殺菌でき、乳児死亡率が激減、平均寿命が延びた。

非結核性抗酸菌は現在も水道水に含まれるため、免疫不全患者には水道水ではなく蒸留水を用いなければならない。

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2022年9月 1日 (木)

2022年灘中入試算数1日目9番を解いて

AB=x, AD=y, CD=zとおく。さらに求める比z/y=tとおく。

ア=150°を90°と60°に分解したくなるので、BC上に点Eをおき、∠BAE=60°とすると∠EAD=90°

BC=5x, CE=4xとなる。

ピタゴラスの定理より、ED*2=x*2+y*2=(4x)*+z*2

ゆえに15x*2=y*2-z*2  式①

 

AからBCに垂線をひきBCと交わった点をFとするとBF=9/2x

ピタゴラスの定理より、AC*2=3/4x*2+(9/2x)*2=21x*2

∠EAD+∠ECD=180°なので、共円点定理より、E,A,C,Dは同一円周上にある。

トレミーの定理より、ED×AC=AE×CD+AD×CE 両辺を二乗して式を代入。

(x*2+y*2)21x*2={xz+(4xy)}*2 両辺をx*2で割ると

21x*2+21y*2=z*2+8yz+16y*2

式①を代入して、

7/5(y*2-z*2)+21y*2=z*2+8yz+16y*2

両辺をy*2で割って、tの一変数二次方程式に変形して、

7/5(1-t*2)+21=t*2+8t+16

12t*2+40t-32=0 

3t*2+10t-8=0   この二次方程式を解くとt>0より

t={-5+root(25+24)}/3=2/3 答え

 

ネット上で見かけませんので、小学生には難しいけどシンプルな解法を記しておきました。ポイントは、円を透視して辺の長さだけで関係式が成り立つトレミーの定理に持ち込むところと、方程式を二つ立てx,y,zの三変数からy,zの二変数に減らして、tの一変数方程式に変換するところ。あとはシンプルに解くだけ。比を問う問題なら方べきの定理も動員します。問題文に記されている条件をすべて使い切っているか目視が必要ですし、補助線をこちょこちょ引く作業は不要です。これは微積分や図形軌跡で大学入試に応用できます。

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2022年8月25日 (木)

宝塚歌劇雪組「蒼穹の昴」の予習

アヘン戦争・アロー戦争で敗北を喫した大清帝国は、同治帝のとき洋務運動を起こした。しかし旧態依然の国体のまま、日清戦争で日本に敗れてはじめて近代化に踏み切りました。1898年、変法派は政権を握り戊戌の変法。しかし西太后のクーデタにあい戊戌の政変。光緒帝は幽閉され、国の行く末を思う若き志士も、官僚や宦官をはじめ旧態依然の国体に押しつぶされ処刑されました。そんな悲劇の主人公・梁文秀は梁啓超がモデル。

光緒帝 11代皇帝 17歳で親政。

公羊学派(康有為・梁啓超)を重用。変法運動で、日本の明治維新に学び立憲君主制を目指しましたが、洋務派によって100日で弾圧処刑されました。「わが朝の変法、ただ日本を鏡とすれば、すべてこれ十分である。」

 

洋務派(曽国藩・李鴻章・左宗棠・袁世凱) 西太后が支持

洋務運動 1.専制を支持

     2.産業・軍事の近代化(中体西用)

 

立憲派(康有為・梁啓超) 光緒帝が支持

変法運動 1.日本に学び立憲制を導入(憲法と国会を)

 

その後の中国。

洋務派を中心とする軍閥で中国全土が分裂。ソ連から社会主義ファシストが侵略する隙を与えてしまった。皇帝を奉ずるほうがよく治まるランドパワー国家には似つかわしい国家体制なのかもしれないと冷ややかな歴史評価を与えておこう。言論思想の自由がない似非民主主義と、嘘つきが経営する似非資本主義と、農村に富を再分配しない似非社会主義、民族浄化を推進し倫理観など微塵もない儒教幻想をチャンポンにした新皇帝による非立憲・専制主義国家が超大国として隣に君臨し、恩人の日本に核ミサイルを向け続けている。日本は間違った歴史観を植え付けられ、精神的苦痛を与えた損害賠償と称する多額の軍事費を中国に奉納し続けている。

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上部・下部消化管内視鏡検査

今日は、upper endoscopyとcolonoscopyを、かかりつけ医で受けてきました。未病のうちに病の芽を摘む年1回ペースのイベント。

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2022年8月21日 (日)

鎌倉時代の足利氏

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得宗家に娘を嫁入りさせていたのが安達氏

足利氏は、得宗家から嫁を迎えていたのが、宝治合戦以後は北条傍流からの嫁入りに変わっている。

斯波氏 管領

渋川氏 九州探題

この二家の発祥がよくわかった。

 

新田義重は平重盛に接近し、上野の所領を安堵した。

矢田義清は義重の猶子となり、上野国八幡荘矢田郷を獲得、上西門院に仕え八条院近臣となり以仁王の乱で源頼政とともに敗れ、源義仲と合流し、下野の所領を安堵するも、水島の戦いで平教経に敗死。その子は足利義兼の猶子となり、細川氏や仁木氏になった。

足利義兼は源頼朝を頼って下野の所領を安堵しようとした。頼朝の御紋葉になった。

足利義氏は、和田合戦や承久の乱で戦功。

足利泰氏が九条頼経を将軍に立てて執権になるというクーデタが発覚。名越方の家氏は廃嫡され、北条方の頼氏が家督相続。

足利家時自害事件。外戚の佐介時国の騒動に無実を証明するため。

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2022年8月19日 (金)

宝塚歌劇雑感22

振り返ってみると、朝月希和ちゃんが一番輝いていたのは、マスカレードホテル、瀬戸かずやさんとのデュエットダンスだったと思う。音くり寿ちゃんのソロがすばらしすぎて。

なんの事情か知らないけれど、ここ5年くらい観ているが、男役に女装させるなど、雪組の娘役の扱いが雑すぎるのではないかと思う。

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2022年8月18日 (木)

雪組退団者2022発表

HPをみて、ほんとうにびっくりしました。

千風 カレン 副組長 お疲れ様でした
朝月 希和  トップ娘役 お疲れ様でした
羽織 夕夏  ビックリ!
花束 ゆめ  ビックリ!

花束ゆめちゃんは応援していただけに残念。103期首席で、豪快なラテンダンスが目立つので、月組とか花組に組替えかもと考えてた。月組なら、羽音みかちゃんとコンビ組むとか、花組なら、ことの&ゆゆ上昇気流に加わるとか。退団公演「蒼穹の昴」に配役がないというのはなぜ?どうしたのだろうか?

羽織夕夏ちゃんも、アリスと愛すみれとローテでエトワール、歌がうまいし、ダンスでは希良々うみちゃんと100期同期うまうまコンビで並ぶことが多かっただけに、雪組娘役の戦力ダウンは否めない。

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2022年8月17日 (水)

承久の乱(続)

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も比企氏が滅亡して佳境に入ってきました。ファイナルに向けて残るビッグイベントは、実朝暗殺が誘因となった承久の乱です。

私は、この辺の歴史をかなり詳しく勉強してきましたが、盲点を述べておられましたので記しておきます。

サービスする朝廷

承久の乱後、朝廷は「雑訴の興行」と「人材の抜擢」を打ち出します。武力を放棄した朝廷は国衙領や王家領荘園の住人を守ってくれません。朝廷の税収は激減し、荘園数が減ることで受領になるための4位5位クラスの貴族たちからの裏献金も減りました。

一方、新補地頭が立荘した荘園は、雑訴(土地争い)には幕府は忙しいので関知しない、当事者同士で解決しろというのが基本姿勢。そこで王家領荘園や国衙領はその辺のサービスいいでっせと宣伝して、働き手を集めたようです。キャリア上級貴族は京都内裏の有職故実や和歌や楽器には詳しいけれど、細かな計算・記録やトークが苦手。ノンキャリア下級貴族の下衆なお仕事と扱われてきました。そこで、細かな計算・記録や感じ良いトークが得意なブレインを地方に派遣して、幕府が嫌がる訴訟をしっかり解決します、安心快適な生活を保障しますと言ってきたわけです。

ここら辺、東大文系2次試験に出題されそうですね。

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2022年8月16日 (火)

室町時代のお勉強

応仁・文明の乱後、守護交代には将軍の意向だけではダメで、被官人(重臣)の意向も必要となった。

1483年、山名政豊が旧領だった播磨に侵攻。赤松政則が敗走。

浦上則宗は有馬澄則を支持、在田氏と廣岡氏は赤松大河内氏を支持。

1488年、赤松政則が山名政豊を撃退。

1493年、赤松政則死去。再び播磨が分裂。

浦上氏・別所氏・小寺氏・龍野赤松氏・薬師寺氏ら重臣の意見が分裂。浦上則宗は幼い赤松義村の執政をおこない、アンチ派の別所則治を牽制。

 

鎌倉時代のお勉強は、元寇がクライマックスだから、在郷の菊池氏と元寇後の九州探題(平季基・千葉常胤・今川了俊・一色・渋川)まで詳しく勉強しておきたい。

室町時代のお勉強は、南北朝天皇家、足利氏、斯波氏の目線を中心に勉強すればわかりやすい。三管領(斯波・細川・畠山)のなかでも斯波氏が別格にやんごとないようだから。キーパーソンは斯波。

足利高経は足利尊氏とともに六波羅探題攻撃。建武新政で越前守護になる。1334年、護良親王失脚に伴い、楠木正成の代わりに佐々木目氏の乱を鎮圧。湊川の戦いで楠木正成と戦い、金ヶ崎の戦いで恒良親王を捕縛。藤島の戦いで脇屋義助に敗れたが、1341年、越前を平定。観応の擾乱で直義・直冬方につき、北朝皇族を置き去りにさせて義詮を京から追放した。1361年、細川清氏失脚後に斯波義将を執事に、斯波義種を侍所別当にして一門で幕政を掌握。南朝方の大内弘世と山名時氏を幕府に帰順させ、義詮の三条坊門邸建設が遅れた赤松則祐の所領を奪い、五条大橋修理が遅れた京極道誉の代行をしてメンツをつぶした。

陸奥将軍府(義良親王・北畠顕家・北畠親房)は陸奥の武士に守護並みの権限を与えた。奥州総大将・斯波家長は箱根竹之下の戦い後、鎌倉の足利義詮の関東執事につく。西上する北畠顕家に敗れ、東上する北畠顕家に敗死。

*室町幕府は北畠顕家のような人物を出したくないために、奥州管領・奥州探題(大崎氏)・羽州探題(最上氏)や九州探題(一色氏)に大きな権限を与えなかった!

1366年、貞治の変で足利高経失脚、斯波義将は執事罷免。高経死後、義将は赦免され越中守護になった。1371年、直義派の桃井直常を破り越中平定。義詮正室の渋川幸子に接近し、細川頼之と対立した

1379年、康暦の政変で細川頼之を追放して、斯波義将が管領に就任。畠山氏が越中守護、斯波氏は越前守護に交換。斯波義種は加賀守護になる。義満は奉公衆を設置し管領の権限を軽減していった。

1387年、美濃・尾張・伊勢守護の土岐頼康死去。

1388年、美濃・伊勢守護に土岐康行を、尾張守護に土岐満貞を任じた。土岐詮直は土岐満貞を破り、満貞は京へ敗走。

1389年、土岐康行の乱。土岐頼忠・頼益に土岐康行を討たせ、土岐頼忠が美濃守護、土岐満貞が尾張守護、仁木満長が伊勢守護になった。

但馬・伯耆・備後・隠岐の守護だった山名時義が死去。山名氏之が伯耆・隠岐守護、山名時煕は但馬守護、山名義煕が備後守護、山名満幸は病弱な義幸から受け継いだ出雲・丹後守護のまま加増なしだった。

1390年、明徳の乱。出雲・丹後守護の山名満幸と、丹波守護の山名氏清が、山名氏之、山名時煕を破る。山名満幸が隠岐・伯耆・出雲・丹後守護、山名氏清が但馬・丹波守護になった。後円融仙洞領を横領した山名満幸と、義満を門前払いした山名氏清が義満を攻撃するも内野の戦いで敗死。山名氏之が伯耆守護、山名時煕が但馬守護、山名氏家が因幡守護となった。

1391年、足利義満が細川頼之の子・頼元を管領にした。

1392年、頼之死去。斯波義将は管領に復帰。

1399年、義満は九州探題・今川了俊を筑前から駿河・遠江守護に転封。渋川満頼を九州探題に任じた。大内義弘に渋川満頼加勢を命じ、少弐貞頼・菊池武朝を討つ。今川了俊の仲介で鎌倉公方・足利満兼を立てて堺で挙兵。大内義弘敗死。この応永の乱で斯波義将は尾張・遠江守護を兼任。山名時煕は但馬・備後・安芸・石見守護に加増、1412年に因幡守護も加増。

1408年、足利義持を将軍に推挙、太上天皇号を辞退させ、日明貿易は継続させた

1410年、義将死去で、足利義持は日明貿易を廃止した

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*細川頼之vs斯波義将

細川頼之 後光厳支持

斯波義将 崇光支持

 

1433年、山名時煕、硫黄密輸で失脚、家督を山名持豊に譲る。

1435年、山名時煕死去。

1437年、山名持煕が挙兵し敗死。山名持豊は、但馬・備後・安芸・伊賀守護に任ぜられた。

1441年、嘉吉の変で山名持豊が活躍。

山名持豊 但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護

山名教清 石見・美作守護

山名教之 伯耆・備前守護

 

斯波義重は、栄仁親王に有栖川別邸を献上し、管領・越前・尾張・遠江守護になり、清洲城を築城。

斯波義敦は、甲斐将久とともに日朝外交(宋希璟)を担当。畠山満家が訴訟調停の多い管領を辞めたがっており、足利義教が義敦に管領を任じた。重臣(甲斐・織田・朝倉)の反対も義教には届かず。

*義教の宿老(最高権力機関) 畠山満家、山名時照、満済

 山名時煕は義教に賛同し、畠山満家が義教に文句をつける。

*関東使対面問題

篠川公方・足利満直の構想では、義教と持氏を争わせたあと自ら将軍になりたがっていた。満直が義教に接近。義敦と親しい関東管領・上杉憲実が二階堂盛秀を義教に派遣。その対面のやり方で義敦ひとりが義教らに反対。九州で大内盛見戦士の報に義敦が無条件和睦を成功させる。

 

斯波氏歴代当主が早逝したため、ついに養子をとることになった。

1438年、永享の乱(~1439年)

鎌倉公方 足利持氏 

関東管領 山内上杉憲実 ← 足利義教、斯波義健(越前尾張遠江守護)、足利満直(篠川公方)、今川範忠(駿河守護)

1440年、結城合戦

結城氏朝・持朝が持氏の遺児を奉じて反乱。負けて永寿王丸(のちの成氏)のみ生きる。

1455年、享徳の乱(~1483年)

鎌倉公方 足利成氏 ← 斯波義廉、畠山義就(反上杉派)

関東管領 山内上杉憲忠 ← 足利義政、細川勝元

1458年、斯波持種・義敏と守護代・甲斐常治が戦闘。

堀越公方 足利政知

1459年、金ヶ崎城を攻め甲斐常治に敗北、落ち武者として大内教弘のもとに逃亡。足利義政は、斯波義廉に斯波家家督を継がせた。

1465年、斯波義敏が、伊勢貞親と細川勝元のおかげで赦免され上洛。京の戦乱を恐れた近衛政家が陽明文庫を岩倉家に遷した。一方、九条家の藤河文庫は焼失してしまっている。

1466年、関東探題・渋川義鏡が「関東執事(関東探題)」を自称し、扇谷上杉氏・山内璟上杉氏と対立し失脚。

渋川義鏡には近衛軍がなく、斯波義廉に兵力を頼っていた。

堀河公方ー渋川義鏡ー斯波義廉ラインから、奥州探題・大崎氏ー斯波義敏ラインに方針転換して、義敏に斯波家家督を継がせた。

義廉は山名宗全と姻戚関係を結ぶ。文正の政変で、伊勢貞親と季璟真蘂が追放され、義敏が失脚し、義廉が管領に就任。

1467年、上御霊社の戦い。畠山義就が畠山政長と戦闘開始。畠山政長は後花園上皇の院宣を受けた。朝倉孝景が斯波義種邸を攻撃。

斯波義敏(斯波持種の子) 東軍

斯波義廉(渋川義鏡の子) 西軍

西軍についた朝倉孝景が越前守護を所望。伊勢貞親と浦上則宗が安堵の約束をして朝倉孝景が、1471年、東軍に寝返った。

一条大宮(上京)の戦い

東軍 細川勝元 畠山政長 斯波義敏

西軍 山名宗全 畠山義就 斯波義廉

足利義政は東軍に付き、朝倉孝景の首と斯波義廉の首を要求。斯波義廉邸が徹底的に攻撃された。

相国寺の戦い

大内政弘が西軍に付いたが、畠山政長の総力戦もあって、形勢を東西互角まで戻した。

1468年、斯波義敏が越前制圧し、朝倉孝景が越前に下向。足利義政は、管領を斯波義廉から細川勝元に挿げ替えた。足利義視と足利成氏が和睦。

1471年、朝倉孝景が東軍に寝返り、東軍の兵糧が確保された。北陸から兵站が東軍に向けて豊富に輸送された。さらに西軍を率いた大内政弘が兵糧ルート(尼崎~兵庫の摂津)確保に兵をそがねばならなかった。

1471年、鯖江・新庄の戦い

朝倉孝景は甲斐八郎を破り越前を平定。甲斐氏は加賀に逃亡。

1472年、細川勝元と山名宗全が和睦。

1474年、細川政元と山名政豊が和睦。

1475年、甲斐八郎の裏切りで斯波義廉は越前と遠江を失った。甲斐八郎は、足利義尚と斯波義良の仲裁で朝倉孝景と停戦し、遠江守護代に就いた。

1477年、斯波義廉&織田敏広(織田伊勢守)を義政は「尾張凶徒」と名指しで攻撃。斯波義敏&織田敏定(織田大和守)が勝った。義敏の子らは尾張を織田に奪われ、遠江で甲斐氏、今川氏に敗れ没落した。山名氏は、但馬・因幡守護のみになってしまった。

 

*奉公衆と奉行人

奉公衆 軍事を担当する武官

奉行人 政務を担当する文官

足利義教は合議制をやめ、将軍専制を目指し、評定衆や引付頭人を将軍直属機関として設けた。義教自ら訴訟判決に加わる御前沙汰を主宰し、奉行人のなかから御前沙汰衆を選抜した。

足利義政は奉行人を配下に置き、足利義尚は奉公衆を配下に置いた。1487年、悪政の近江守護・六角高頼を義尚自ら征伐し、多くの奉行人を自分の配下に就けることに成功。陣中で酒池肉林に溺れ病気に臥せ1489年死去。同じく義政も脳梗塞で倒れ1490年死去。

将軍両立時代を終え、新たな政界再編が起こっていた。日野富子が義材を見限って香厳院清晃(のちの義澄)を後継者と定め、小川御所を義澄に譲った。義視・義材父子は、河原者を使って小川御所を破壊し、怒った日野富子は細川政元に接近した。

足利義材 畠山政長

日野富子 細川政元 畠山義就・基家 赤松政則 朝倉貞景

1493年、明応の政変 ←戦国時代の始まり

足利義材は、畠山政長、赤松政則、斯波義寛を率いて、畠山基家を攻略。

細川政元は、足利義澄を奉じて、大内義興と赤松政則を率いて足利義材を捕縛した。男色激しかった細川政元に後継者がなく、澄之と澄元を猶子とした。

1500年、後土御門天皇が窮乏化し葬儀できず。後柏原天皇は21年間即位できず。

1506年、澄元が阿波から三好之長を率いて入京。

1507年、澄之が香西元長、薬師寺長忠とともに細川政元を謀殺した。澄之は細川高国に討伐され、澄元が家督相続。

足利義材は越中に脱獄し、細川政元追討命令を守護に向けて乱発した。1508年、足利義材は義尹と改名し、大内義興と細川高国に擁されて入京、義澄を放逐して将軍に返り咲いた。澄之と澄元を放逐し細川高国が家督相続。1513年、義尹は義稙と改名。

1521年、細川高国は義稙を廃して、義澄の子・義晴を将軍に擁立した。

1526年、後奈良天皇。9年後即位、宸翰を販売。

1527年、細川晴元(澄元の子)が細川高国を破り足利義晴を追放し、堺公方・足利義維(義稙の子)を擁立。

1532年、細川晴元が足利義維と不和になり、足利義晴を再擁立。

1549年、三好長慶が細川晴元と足利義輝を近江へ追放。

1558年、三好長慶と足利義輝が和睦。

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2022年8月13日 (土)

「ドラえもん のび太の宇宙小戦争」をみて

小人のピリカ星人と心通う物語でした。ロシア・ウクライナ戦争が元ネタになっている感じがしました。スネ夫が3度くらいくじけて、しずかが励ますシーンが印象に残りました。しずかの入浴シーンは毎度定番ですね。

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2022年8月12日 (金)

徳政令

鎌倉時代に出された御成敗式目だが、ほとんどの人が後年追加された法令(式目)の存在を知らなかった。寺社と領地を争った地頭御家人ですら人づてに聞いて回るような有様だった。調停役の六波羅探題もそこまでの式目を知らず、双方が主張する式目をみて、眺めるだけであった。原告、被告自身が法令を探してきて提示しなければならないというのが鎌倉時代の訴訟調停の実態であった。

1.幕府の裁判は徹底して当事者主義を原則とし、証拠も自ら提出したものがすべてであった。

2.御家人と非御家人の区別は甚だ曖昧でしか幕府は把握していなかった。自ら御家人リストに先祖の名が書かれてある文書を提出して証明して見せなければならなかった。

*手紙というのは送り手ではなく受け手が保管するもの。送り手の幕府には写しすらほとんど残っていなかった。法令は手紙から推理するしかないが、誤植や改ざんが多いのだ。

法に上下なし。舌でも腕力でも、実力で相手を屈服させるのみ。

1284年、幕府追加法

1.引付頭人責任制

 審議漏達の罪は頭人の責任で処罰する。

2.所領興行法

 将軍から引付頭人に管轄を移す。古寺社修理を認め新造を禁じる。寺社領を回復し年貢用途をチェックし別当・神主の私用を禁じる。

 所領を知行する資格のない「非器の人(甲乙人)」から、所領を正当に知行できる「器量の人」に返す。

3.名主職事条々

 異国警固番役に従事した者の名主職を安堵し大量の新御家人を生んだ。

4.関東御領の回復

 非御家人が買った関東御領を御家人に取り戻した。

 

1285年、弘安8年法

亀山上皇が制定した公家法。「理屈」から「事実」へ。

律令制を鑑みて理屈をこねて、現実との格差があれば、新たな法で穴埋めするやり方を捨て、現実に即したやり方に変えた。公家が初めて庶民の生活に即した慣習法に目を向けた画期的な転換点であった。「旧例」「田舎の習」

神の物は神へ、仏の物は仏へ、民の物は民へ返すという大きな時代の流行がバックに存在した。これが徳政令の底に流れる「撫民」の精神となった。僧侶や神主の私物化を固く禁じた。

 

1297年、永仁の徳政令

ハレー彗星がきっかけとなって発令された。

1.所領の売り手が御家人であることに限って以下の法令を適用する。

御家人が買った所領は20年以上経過したものについては、売り手の取り戻しを認めない。

非御家人が買った所領は、売り手が取り戻せる。

2.越訴は禁じる。一審のみとする。

3.御家人の所領の売買および質入れを禁じる。

4.債権者からの債権取り立ての訴訟は一切受理しない。

「貸した金は自力で取り返せ。幕府は一切関知しない。」

 

訴訟ケース1

売り手A 田a+b → 買い手B

売り手A ← 金a 買い手B

徳政令によって金bは未払いなので売り手に田bを返す。

売り手A ← 金a+田b 買い手B

売り手A「金bをまだ受け取ってないので払え。」

つまり、「売り手A ← 金a+b+田b 買い手B」

買い手B「田bを返したのだから、金bは払う必要はない。」

幕府は買い手Bに軍配を上げた。売り手Aの二重取りを許さず。

 

訴訟ケース2

売り手A 人a → 買い手B

売り手A ← 金a 買い手B

幕府の裁定は、

人aが抵当(担保)なら売り手Aに返せ。

人aが入質なら個々の借用状の契約内容によって判断を下す。

 

訴訟ケース3

売り手A 田a → 買い手B

売り手A ← 米a、酒a 買い手B

幕府の裁定は、

買い手Bは田aを返す必要はない。徳政令は動産には適用しない。

 

1298年、徳政令の改正

御家人の所領の売買と質入れは認める。(建前を引っ込めて矛盾をなくす)

 

*馬借ネットワーク(運送ルート)

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1428年9/18、正長元年の徳政一揆

近江から醍醐に拡大。醍醐寺の満済が、

1.細川持元に醍醐寺警備を依頼

2.管領・畠山満家に状況報告

3.足利義教の許可を得て、侍所頭人・赤松満祐を山科に派遣

 *馬借や車借は当時のブラック企業であった。

11/2 近江の馬借が京に乱入。赤松満祐と対峙。

11/2 奈良・山城の馬借が奈良に侵入。興福寺僧兵と対峙。

11/6 播磨で徳政一揆。

11/17 赤松満祐、東寺に播磨荘園に守護不入権を犯して踏み込むことを通達。

京に徳政禁制を通達。

11/25 興福寺の徳政令

 伊勢で南朝・北畠満雅が挙兵する動きがあり、興福寺は板挟みを恐れた。

 1.債務の1/3の支払いでよい

 2.5年以上の債務は破棄

 3.年貢の未払い分は徳政の対象ではない

 

*中世の金融業者の本職は、荘園代官請負であった。

延暦寺下級僧侶公家雑役下人が担当した。

 12~13世紀 借上

 13世紀以降 土倉

延暦寺など金融業者は、承久の乱で、西遷御家人と新補地頭が大量に生まれ、好景気を迎えた。土地勘がない新補地頭に、代官(年貢徴収)代行しまっせと持ち掛けた。荘園年貢米保管のための耐火性にすぐれた土蔵を建造した。南北朝時代、一時的に不景気に陥ったが、すぐに景気回復した。

農民や公家・武家は秋10月にならないと収入がなく(年俸制)、5月ころに生活苦になったため、土倉からの貸付に依存していた。

13世紀末以降、土倉沙汰人(蔵預)は、地方に進出して合力銭(合銭)の運用を始めた。荘園領主相手に大きな取引をする都会の鞍預の進出で、地方の中小荘園代官がつぶれていったため。蔵預は荘園代官業をやめ、金融業に専念した。蔵預に運用資金を貸す「祠堂銭金融」が登場。祠堂銭金融は、民間銀行に金を貸す日本銀行と同じ存在であった。

 

足利義満

1.山名氏「六分の一殿」の勢力削減

2.南北朝合一。安心して商売ができるようになった。

3.土倉酒屋役。土倉と酒屋から幕府が税を徴収した。足利荘園からの税守護からの税(守護役)土倉酒屋役遣明船バブルが加わった。守護は京都で暮らすことが多くなったため、地方政治がおろそかになった。これがのちに下剋上の下地となった。

4.延暦寺雌伏。

 

足利義持

1.日明貿易中止で貿易バブルはじける。土倉酒屋役が幕府収入の頼みの綱になった。

2.祭祀儀礼の励行(五穀豊穣・戦勝祈願)

3.大飢饉

4.応永の外寇

5.日野栄子の浪費癖 年間20億円

6.1425年以降、民事訴訟は幕府が担当することに決めた。

 

足利義教

1.「諸人借物事」の制定。万里小路時房が起草。飯尾為種が中継伝達役となる。雑訴沙汰が担当した。

*奉公衆と奉行人

奉公衆 軍事を担当する武官

奉行人 政務を担当する文官

足利義教は合議制をやめ、将軍専制を目指し、評定衆や引付頭人を将軍直属機関として設けた。義教自ら訴訟判決に加わる御前沙汰を主宰し、奉行人のなかから御前沙汰衆を選抜した。

足利義政は奉行人を配下に置き、足利義尚は奉公衆を配下に置いた。1487年、悪政の近江守護・六角高頼を義尚自ら征伐し、多くの奉行人を自分の配下に就けることに成功。陣中で酒池肉林に溺れ病気に臥せ死去。同じく義政も脳梗塞で倒れ死去。

 

1441年8/28、嘉吉元年の徳政一揆

数万人が近江から京都へ伝播。馬借ネットワークが京都の情報を地方へ伝達した。侍所の兵は赤松満祐征討の為、出払っていた。侍所・京極持清が対峙。管領・細川持之は幕府軍編成に失敗。守護たちはみんな借金していたから一揆の様子を見守っていた。

9/10 室町幕府徳政令

1.永代売却して20年未満の土地は売り手に返す

2.寺社に寄進した土地、祠堂銭は返さない。

のち土倉や延暦寺が大打撃を受けるので猛反発。永代売買地は徳政令から除外された。

「徳政の大法」として後世まで、影響を及ぼし続けた。

 

1445年、分一徳政令

債務者に対し、負債額の一割を幕府に納める。奉行人はただひとりだけで、飯尾為数

1446年、追加法

幕府に債権の二割を納めれば、債権を保護してやる。債務破棄か債権保護かは早い者勝ちとする。

*幕府の主たる財源だった土倉酒屋役の収入が激減したので、この徳政令が編み出された。

*明は遣明船を制限したので、遣明船バブルは期待できなかった。

*犯罪人の住居を民間に売りに出して銭を稼ごうとまでしていた。

 

1455年、分一徳政改正令

1.分一銭は二割に引き上げる。

2.窓口は飯尾為数一人から20人に増員する。

3.すべて伊勢貞親の花押承認を要する。

義政の乳母父・伊勢貞親は、応仁の乱の最大の戦犯!!

 

1457年、土倉再建策、諸商売役

1.合銭(合力銭)に徳政を適用、返済無用となった。

2.諸商売役。土倉以外の商人に課税しまくった。

 

旧家臣団が京に潜伏、牢人となった。守護不入権をもつ京都近郊荘園に棲みつき、荘園住人たちと博打や飲酒に興じた。

1462年、寛正三年の徳政一揆

牢人が主導で、土倉と荘園の蔵を襲撃した。

1466年、文正元年の徳政令

応仁の乱直前で京に集まった兵が武具調達のために狼藉を働いた。罰すれば兵力低下になるので、土倉襲撃を承認した。荘園住人に対し、出陣すれば債務破棄を認めた。

*坂非人の徳政令

土葬が禁じられていた京中。遺体を車に積んで運んで清水寺坂に捨てていた坂非人が、その車をもらって販売して儲けていた。寺社が葬儀を担当するようになって坂非人は職を奪われたとして、寺社相手に徳政を要求。結局、勝訴して礼銭の形で寺社から銭を獲ることができた。

 

徳政令からの抜け道

誘取売券 永代売買地は徳政令の適用外。土地を貸したのではなく、売ったことにする契約書。

徳政指置状 徳政断念の礼として、最初から多めに金を払っておく証書。

徳政落居状 徳政の際、新たに金銭を払うことで当初の契約を再び確定する証書。

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2022年8月 9日 (火)

元寇後の九州武士の動向

元寇を戦ったのは主に九州の武士団でしたよね。恩賞がないことに不満で鎌倉幕府が倒れたと日本史教科書に記述があるのに、具体的にもっと詳しく載せないのはなぜだろう?ぜひ記載すべきだ。治天の君が加持祈祷し、男たちが弓矢と糞尿弾で戦っているあいだ、せっせと「てつはう」の原料、硫黄を元に輸出していたのが女院たちだった。

元寇後の歴史舞台は関東でもなく京都でもなく九州だった。

九州の武士団は、倭国時代からの古豪・海賊水軍、源平合戦の平氏落武者、鎌倉幕府から平氏落武者狩りで恩賞求めて派遣された東国御家人たちで成っている。非御家人というより誰かさんを中継して鎌倉幕府とは弱い御家人関係で結びついている武士が多かった。だから幕府のほうでも具体的に誰がどの程度元寇で戦功を挙げたのか把握できていなかったというのが正しかろう。「そんな奴いたっけ?ちょっと行って調べてこい。」

御恩奉行の安達泰盛が霜月騒動で殺害されたことは大きかった。殴り合って仲良くなった北条と名越の兄ちゃんがそのあと、のこのこ大宰府にやってきたのもまずかった。「ほら、やっぞ。」と、空腹で死にそうになっている武士たちに来るべき元寇に備え再動員命令。これは効いたね。そこへ後醍醐の親王が漂着した。あとは倒幕しかないっしょ。「尊氏、がんばって京へもどれ。」

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秀吉のif

もし秀吉が朝鮮ではなく台湾に出兵していれば、

明を征服していたかもしれない。

台湾で、土民の猛烈な抵抗と熱帯風土病で兵力が大きくそがれ、

ある意味、国内平和が早期に実現できたかもしれない。

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