ヨーロッパは大部分、ローマによって支配された。イングランド、ブリタニアもローマによって支配されたが、ローマの支配は非常に短かった。ライン下流、ユトランド半島に住む、ウーデンの教えを奉じる異教徒が5世紀後半に、ブリタニアに移住。そこで、ローマが残しておいたキリスト教に遭遇して、キリスト教化されていった。
450年ころ、アングロ・サクソン人が来襲。原住民ブリトン人はウェールズやアイルランドに逃亡し、キリスト教もイングランドには残らなかった。だから、6~7世紀、アイルランドが一番文化水準が高かった。6~8世紀、他のヨーロッパはローマ人の言うバーバリアンが侵略してきて、バーバライゼーションが進行しており、ヨーロッパの中で被害を受けていない唯一の島がアイルランドだった。だから、当時、アイルランドの文化水準が高かった。カール大帝がカロリング・ルネサンスを起こしたときの学者は大部分、アイルランドと北イングランド出身だった。8~9世紀のアイルランドは、「聖人と学僧の島」としてヨーロッパじゅうに知られ、尊敬を集めた。
540~550年、聖デイヴィッドがウェールズをキリスト教に改宗した。
スコットランドのアイオナ島に、アイルランドの聖コルンバがアイオナ修道院を設立。563年、アングロ・サクソン人がそこではじめてキリスト教と出会った。アイオナ島がピクト人布教の拠点になった。聖ケンティゲルンは、スコットランドのグラスゴー司教に就任。聖ブリジッドは、アイルランドのキルデアに女子修道院を創設した。
5世紀後半、聖デュヴリグは、ウェールズのヘンソン・モクロスに修道院創設。ブルターニュ人の聖イルティッドは、シャニルティッド・ヴァウル修道院を創設。
597年、ローマ教皇グレゴリウス1世(590~604)の命を受け、ベネディクト派の聖オーガスティン(アウグスティヌス)がアイリッシュ・キリスト教ではない、本物のカトリック教を布教するため、ドーヴァー海峡を渡ってケントに来訪。ケント王国エゼルベルト王の許可を得て、初代カンタベリー大司教に就任。ブリタニアのキリスト教は、アイリッシュかカトリックか、2つの流派となったが、大部分はウーデンの教えを信奉していた状況。
663年、ノーザンブリア王国オスウィ王の主催、ホイットビー宗教会議で、ローマ・カトリックを採用することに決定。
668年、タルソスのテオドルスがケントに来訪、カンタベリー大司教(668~690)に就任した。7世紀、東ローマのビザンツ教会が優勢になっており、バルカン半島のゲルマン人をキリスト教に改宗させていた。また、ギリシア人のキリル兄弟がスラヴ人をキリスト教に改宗させた。
672年、ハーフォード宗教会議で、テオドルスが司教区を6つから14に増やした。
734年、ノーザンブリア王国に、ヨーク大司教を設置。ノーザンブリアは政教一致していたのでキリスト教布教がスムーズだった。サウザンブリアは小国に分裂していて、カンタベリー大司教の管区になっていた。ローマ教皇グレゴリウス1世の構想では、ヨークとコンチェスター(のちにロンドン)に大司教管区を置いて、12人の司教を作るはずだった。カンタベリーのあるケント、ロンドンのあるミドルセックス、ウィンチェスターのあるウェセックス王国が、ロンドンを取り合っており、そんな危ないロンドンにカンタベリー大司教は近づけなかった。しかし、カンタベリー大司教は、宗教会議だけはロンドンで開催した。
7世紀末ころから、マーシア王国が強大になり、オッファ王、ケンウルフ王で最盛期を迎えた。オッファ王もケンウルフ王もカンタベリー大司教が開催する宗教会議に参加した。キリスト教が目的というより、ケント王国やウェセックス王国にマウントをとるためだった。カンタベリー大司教も自分の領地、財産の保全のために、マーシア王国に接近。
マーシア王国が統一するかと思ったら、急速に衰退し、825年、ウェセックス王国エグバート王がマーシア王国を撃破。さらに、829年、ノーサンブリア王国も撃破。その孫アルフレッド王(871~899)のとき、ヴァイキングが来襲し、教会や修道院は荒廃した。ウェセックスの国王は宗教会議に出なくても、ケント、エセックス、マーシア、ノーサンブリアを十分制圧できるという環境が整った。エゼルスタン王(924~939)のときから、逆にヨーク大司教とカンタベリー大司教をウェセックス国王評議会に出席させるまでになった。
910年、クリュニー修道院のクリュニー改革が起こり、イングランド王国エドガー王のとき、戒律をよく守る修道士に、修道院や教会内局の運営を依頼するようになった。さらに王は修道士に、王妃は尼僧に、1日7回祈祷してもらっていた。エドガー王は、マーシア地方の支配を確実にするため、マーシア地方の修道院に息のかかった人物を送り込んだ。
10世紀末、「神の平和運動」が南フランスに起こり、中部フランス・ポワティエまで波及した。フランスでは、王が頼りなく、貴族がオールマイティだったが貴族同士が喧嘩していた。しかし、イギリスには強大なエドガー王による「王の平和」があった。イギリスでは、貴族はオールマイティではない。王がオールマイティだった。貴族は王の言うことを気にしなければならず、王の逆鱗に触れると潰されてしまう。ドイツでは、王などいないのも同然で、貴族がオールマイティだった。ヴェルフェン家とかシュタウフェン家といった家門が強力だった。
その後、デーン人クヌート王が来襲。ウルフスタン、ヨーク大司教と示談。ノルマンディ公ウィリアムは、修道士ヴォルピアーノをディジョンからフェキャンに招来して「ノルマンディ公の平和」を現出していた。同じやり方をイングランドに持ち込んで、「イングランド王の平和」を現出した。
ヘンリ2世のとき、大司教以下、司教たちを国王の臣下にしようとした。ローマ教皇の言うことを聞かず、国王の言うことを聞かせた。1170年、カンタベリー大司教トマス・ベケットを殺害。1172年、アヴランシュ協定。1122年のウォルムス協定に倣い、国家は領地支配権を持ち、教会は司牧権を持つとした。グレゴリウス改革により、すべての教会をローマ教会の傘下に入れて、十分の一税の税収を全部ローマが吸い上げた。

アイルランド
北西 コノート 北東 アルスター
南西 マンスター 南東 レンスター
74~84年 ローマ将軍アグリコラがスコットランド遠征。
82年 ローマ将軍アグリコラがアイルランド侵入。
122年 ハドリアヌス帝がハドリアヌスの防壁を建設。
300年ころ ローマ文化浸透により農業技術が進展。鉄製の梨刀を木製の鋤に装着。ほかに刃物、斧、鋸、ハチの巣型の碾臼が導入された。
367年 アイルランド人がローマ支配下のブリタニアを襲撃。
397年 ブリトン人の聖ニニアンがスコットランドのロスナット(現ホイントホーン)にカンディダ・カーサ修道院を創設。
5世紀初め、ブリトン人がコーンウォールからブルターニュへ移住。
432年 ローマ教皇ケレスティヌス1世(422~432)の命で、聖パトリックがアイルランドで布教開始。
450年ころ、アルスターのエマン・マハ王国が、コノートのニール王子に滅ぼされ、オニール王朝が樹立。オニール王家の領主たちは、「タラ王」と自称。
498年、アイルランドのスコット人がスコットランド西部に上陸して、ダルリアダ王国を建国。
6世紀ころ、ピクト人がスコットランド北部にアルバ王国を建国。
5世紀末~6世紀初頭以降、司教制度が廃止され、ローマと切り離された修道院制度が始まった。
6世紀から、クロナードの聖フィニアンは、アゴール修道院とクロナード修道院を創設し、アイルランドの修道院制度を確立・発展させた。聖キアランはクロンマクノイス修道院を創設した。聖ブレンダンはクロンファート修道院を創設。聖コムガルはバンゴールとタイリー島に修道院創設。聖コルンバヌスはヨーロッパを行脚して修道院を創設した。聖エイダンは、ブリテンのリンディスファーン修道院を創設してアイオナ修道院系の学問の中心として発展させた。聖ケヴィンはグレンダロッホ修道院を創設。聖ゴールは大陸を行脚し、聖エンダはアラン諸島イニシュモア島にキリーニー修道院を創設。聖フィンバーはコークに修道院を創設。
やがて、修道院が世俗にまみれて、腐敗堕落した。774年、タラ修道院マール・ルアンは「ケーリ・デー(神の僕)」運動を開始して、禁欲的な修道院生活にもどろうとした。
8世紀末、ノルウェー人を主体としたヴァイキングがアイルランドに来襲。修道院は無抵抗で財宝を抱えていたので、この上ない御馳走だった。
9世紀初めころ、ヴァイキング来襲に対し、修道院は石造の円塔を建設した。「高十字架(ハイクロス)」と呼ばれるケルト十字架が特徴。
830年代から、ヴァイキング侵攻が激しくなった。
870年代には、ヴァイキングはイングランドに矛先を変え、アイルランドから遠ざかっていった。


イングランド七王国(ヘプターキ)
1 ケント王国 ジュート人建国
ブリトン人ヴォーティガンが、北方のスコット人、ピクト人に対抗するため、ジュート人ヘンギスト・ホルサ兄弟を傭兵とした。
フランク王国から、ぶどう酒・ガラス器・装飾品・黄金を輸入し、フランク王国へ、ウール・鉱物・奴隷を輸出した。
エオルメンリク王
メロヴィング朝フランク王国の王族?貴族?
エゼルベルト王(589~616)
フランク王国カリベルト1世の娘・ベルタ王女と結婚。
強勢だったウェセックス王国ケアウリン王(581~588)・息子クッサと戦った。
アングロサクソン語で書かれた成文法「エゼルベルト法典」を編纂した。
メロヴィング朝フランク王国を真似て、金貨を鋳造した。
597年、ローマ教皇グレゴリウス1世(590~604)の命を受け、ベネディクト派の聖オーガスティン(アウグスティヌス)がアイリッシュ・キリスト教ではない、本物のカトリック教を布教するため、ドーヴァー海峡を渡ってケントに来訪。エゼルベルト王がキリスト教に改宗。
エセックス王国スレッド王に妹を輿入れ、子供のサベルト王を操り、キリスト教に改宗させた。
イーストアングリア王国レドワルド王をキリスト教に改宗させた。
エアドバルド王(616~640)
キリスト教を弾圧したが、カンタベリー大司教ラウレンティウスの尽力で改宗。
フロスヘレ王(673~685)が、サセックス王国の援軍を得た甥のエアドリック王(685~687)に敗死。
686年、ウェセックス王国カドワラ王(686~688)がケント王国を侵略して荒廃させた。ムサを擁立してケント王国を支配したが、すぐに火刑に処せられた。
ウィトレッド王(690~725)
ウェセックス王国と和約。「ウィトレッド法典」を編纂し、教会を免税した。
マーシア王国オファ王が、エセックス王国、サセックス王国、ケント王国の宗主国に収まった。
776年、オットフォードの戦い
マーシア王国オファ王(757~796) vs ケント王国エグバート2世(764~785)
798年、マーシア王国ケンウルフ王(796~821)がケント王国を征服。
825年、エレンダンの戦い
ウェセックス王国エグバート王(802~839) 勝ち
vs マーシア王国ベオルンウルフ王(823~826) 負け
ウェセックス王国がケント王国を征服。
2 イーストアングリア王国 アングロ人建国
レドワルド王
625年、ウェセックス王国キネギルス王(611~642)のワイト島侵攻を阻止。
シグベルト王(630~640)
司教フェリックスとともにキリスト教布教につとめた。
654年、マーシア王国ペンダ王がイーストアングリア王国アンナ王(640~654)を処刑。
794年、マーシア王国オファ王がイーストアングリア王国エゼルベルト王を処刑。
825年、マーシア王国ベオルンウルフ王を撃退。
869年、ヴァイキング大異教徒軍団がエドマンド王(855~869)を処刑し、イーストアングリア王国を滅ぼした。
878年、ヴァイキングのグズルム(878~890)が、デーンロウ王国を建国した。
3 バーニシア王国 アングロ人建国
エゼルフリッド王(597~617)
西方のブリトン人国家を侵攻、さらに南のデイラ王国にも侵攻した。
4 デイラ王国→ノーサンブリア王国 アングロ人建国
エドウィン王(617~633)
625年、ウェセックス王国キネギルス王(611~642)のワイト島侵攻を阻止。
626年、ウェセックス王国クウィケルムが、エドウィン王暗殺未遂。エドウィン王がウェセックス王国を侵攻。
627年、ヨークの教会で、エドウィン王はキリスト教に改宗した。司教パウリヌスをヨークに住まわせた。
ケント王国レドワルド王の死後、エルメット王国を征服。さらにウェールズのグウィネズ王国カドワロン王を侵攻。
633年、ハットフィールド・チェイスの戦いで、敗死。司教パウリヌスはカンタベリー大司教ホノリウスのもとに逃亡、のちケントのロチェスター司教に就任した。
オスワルド王(634~642)
亡命先だったスコット人のダルリアダ王国から帰国。634年、ヘブンフィールド(デニセスブルナ)の戦いで、グウィネズ王国カドワロン王を敗死させ、復讐を果たした。
635年、エドウィン王が請来したローマカトリックではなく、アイオナ島の司祭エイダンを招来し、リンディスファーン島を拠点にアイリッシュ・キリスト教を布教した。
642年、マザーフィールドの戦いで、マーシア王国ペンダ王に敗死。
オスウィ王(642~670)
655年、ウィンウェド川の戦いで、マーシア王国ペンダ王を破り、復讐を果たした。
664年、ウィットビー教会会議。アイリッシュ・キリスト教をやめ、ローマ・カトリック教を採用した。ブリタニアに日食、疫病大流行。
*アイルランド系キリスト教
修道院を中心として自己修練を図り、研鑽を積んだ修行僧個人が各地に放浪的な布教の旅をする。前頭部を剃髪する。
*ローマ・カトリック教
大司教ー司教ー司祭という教会組織のヒエラルキーを大原則に地域に根付いた布教を行う。頭頂部を剃髪する。
エグフリッド王(670~685)
ピクト人の反乱を鎮圧。司教ウィルフリッドと対立、司教区を小分割し、国外追放した。
679年、トレント川の戦い。カンタベリー大司教セオドアの仲裁で、マーシア王国エゼルレッド1世と和平。国境リンジー地方をマーシア王国に譲渡した。
684年、ベルトに命じ、アイルランド侵攻、ブレガを荒廃させた。
685年、聖人カスバートの反対を振り切って、エグフリッド王自ら、ピクト人侵攻。ネクタンズミアの戦いで、ブリデ3世に敗死。
アルドフリッド王(685~705)
学者王であり、最盛期を迎えた。ベネディクト・ビスコップがウェアマストジャロー修道院を創設し、ローマから大量の書物を貯蔵した。歴史家ベーダがここから巣立った。のちヨーク出身の神学者・アルクィンを輩出した。
エゼルレッド1世(774~779/790~796)
793年、ヴァイキングがリンディスファーン襲撃。
オスベルト王(848~867)
865年、ヴァイキング大異教徒軍団が来襲。866年、ヨーク占領。867年、ノーサンブリア王国アエラ王(867)が敗れて滅亡。
876年、ヴァイキングのハールヴダン(876~877)がヨールヴィーク王国を建国した。
5 レゲド王国 ブリトン人建国
ウリエン王
6世紀後半、バーニシア王国を侵攻。リンディスファーン島に追い詰めた。
6 エルメット王国 ブリトン人建国
7 グウィネズ王国 ウェールズ系ブリトン人建国
カドワロン王(625~634)
ロドリ大王(844~878)ウェールズをほぼ統一
ハウエル善良王(942~950)ウェールズをほぼ統一
マレディズ・アプ・オーワイン王(986~999)ウェールズをほぼ統一
617年、アイドル川の戦い
イーストアングリア王国レドワルド王&デイラ王国エドウィン王(亡命中) 勝ち
vs バーニシア王国エゼルフリッド王 負け
633年、ハットフィールド・チェイスの戦い
マーシア王国ペンダ王&グウィネズ王国カドワロン王(625~634) 勝ち
vs ノーサンブリア王国エドウィン王 負け
634年、ヘブンフィールド(デニセスブルナ)の戦い
グウィネズ王国カドワロン王 負け
vs ノーサンブリア王国オスワルド王 勝ち
642年、マザーフィールドの戦い
マーシア王国ペンダ王&ポウィス王国キンディラン・アプ・キンドルウィン王&グウィネズ王国カドヴァエル・カドメッズ農民王 勝ち
vs ノーサンブリア王国オスワルド王 負け
655年、ウィンウェド川の戦い
マーシア王国ペンダ王&イーストアングリア王国エゼルヘレ王(654~655) 負け
vs ノーサンブリア王国オスウィ王(642~670) 勝ち
679年、トレント川の戦い
ノーサンブリア王国エグフリッド王(670~685)
vs マーシア王国エゼルレッド1世(675~704)
カンタベリー大司教セオドアが仲裁に入った。リンジー地方がマーシア王国に移譲された。
685年、ネクタンズミアの戦い
ノーサンブリア王国エグフリッド王 負け
vs フォルトリウ王(ピクト人)ブリデ3世 勝ち
8 サセックス王国 サクソン人建国 アンドレッドの森に囲まれた狭き秘境。とても貧乏。
エゼルウェルホ王
マーシア王国ウルフヘレ王(658~675)の後見で、キリスト教の洗礼を受け、ワイド島とメオンワラを譲渡された。
司教ウィルフリッドを厚遇した。
ウェセックス王国カドワラ王がエゼルウェルホ王を殺害。
9 エセックス王国 サクソン人建国 大陸貿易が盛んで裕福。
サベルト王(604~617)
604年、司教メリトゥスがケント王国からエセックス王国に送られ、ロンドンで布教開始。ケント王国エゼルベルト王が、サベルト王をキリスト教に改宗させた。
シゲベルト善良王(653~660)
653年、ノーサンブリア王国オスウィ王が、シゲベルト善良王をキリスト教に改宗させた。司祭ケッドがエセックス王国を来訪、ブラッドウェルとティルベリーに修道院を創設。
スウィズヘルム王(660~664)
660年、イーストアングリア王国エゼルワアルド王(655~663)がスウィズヘルム王をキリスト教に改宗させた。
664年、ブリタニアに日食、疫病大流行。マーシア王国ウルフヘレ王(658~675)が司教イェルマンをエセックス王国に送り込んだ。
マーシア王国は、ロンドンを支配し、貨幣を発行し、関税を徴収した。
シゲリック王(758~798)
王位を棄ててローマの修道院に出家した。

10 マーシア王国 アングロ人建国
初期マーシアは、まだ1人の王に統治されるような国の状態ではなく、複数の自立勢力が連合したような形であった。ペンダを首長とするグループと、ケオルルを首長とするグループの、少なくとも2つ以上のグループがあって、負けたグループの一部が大陸に亡命した。
メロヴィング朝フランク宮宰にしてカロリング朝フランク簒奪王となったピピニーデン(ピピン一門)。「ピピン」「カール」はヨーロッパ大陸に見られないケルト語由来の苗字。
ピッバ→ピピン
ケオルル→カール
この類似性から考えると、マーシア王族の一部が大陸に亡命して、メロヴィング王家によって宮宰に取り立てられたと考えられる。
マーシア王国オファ王からみて、カール大帝は大陸に逃げていった親類にすぎないわけで、お互いにプライドを賭けてマウントを取り合う気持ちが容易に理解できるだろう。
ヨーロッパを語るうえで、一次史料不足でゴミのように扱われた中世アイルランド、中世イングランド、中世スコットランド、中世ウェールズの歴史から語られなければ、中世フランクをはじめとする深い理解には至らない。ヨーロッパ中央は東方から襲来する蛮族に蹂躙・荒廃されており、南のイタリア・ギリシアから、北のブリタニア・アイルランドから、西のイベリアから、忘れられていた文明がヨーロッパ中央に再び注ぎ込まれていった。
マーシア王国は、東西南北を敵に囲まれており、防衛に難があった。国の面積は最大だったが、海にほとんど面していないので、良好な湾や港もなく、テムズ川やハンバー川のような水運に適した河川にも恵まれておらず、人や物の往来にハンディキャップを背負っていた。何事にも最新の流行に後れを取ってしまい、キリスト教への改宗も七王国で最後であった。ブリテン島に侵攻したアングロサクソン人が、早いもの順でおいしい場所をとって王国を建て、最後に残った広いけれども旨味のない広大な土地にできたのがマーシア王国だった。
ペンダ王
633年、ハットフィールド・チェイスの戦い。ノーサンブリア王国エドウィン王を敗死。
640年、イーストアングリア王国エグリック王とシグベルト王を敗死。
642年、マザーフィールドの戦い。ノーサンブリア王国オスワルド王を敗死。
グウィネズ王国カドヴァエル・カドメッズ農民王と、ポウィス王国キンディラン・アプ・キンドルウィン王の援軍を得てやっと勝った。
ノーサンブリア王国は再び2分裂。
バーニシア王国オスウィ王(642~670) 劣勢になるとダルリアダ王国に亡命した。
デイラ王国エゼルワルド王(650~655) 8~9年ほど空位だった。
645年、妹を離縁されたため、ウェセックス王国ケンワルフ王(642~673)を侵攻。ケンワルフ王はイーストアングリア王国アンナ王(640~654)のもとに亡命。
651年、ノーサンブリア王国侵攻。
652~654年、ノーサンブリア王国侵攻。
654年、イーストアングリア王国アンナ王を敗死。傀儡王エゼルヘレを擁立。
655年、ウィンウェド川の戦い。息子エグフリッドを人質に差し出し多額の金貨を支払う代わりに撤退を約束することでバーニシア王国オスウィ王が承諾。息子アルドフリッドとともにオスウィ王は、ペンダ王を背後から襲撃して敗死させた。
マーシア王国ペンダ王
&イーストアングリア王国エゼルヘレ王
&グウィネズ王国カダファエル・アプ・キンフェズ王
&デイラ王国エゼルワルド王
vs バーニシア王国オスウィ王 計略がはまって大勝利
オッファ王(757~796)
「アングル人の王」と自称した。ロンドンでペニー銀貨を鋳造した。
カンタベリー大司教ジャンベルトが管轄する教会施設所有権を奪い、献金をやめ、代わりにローマ教皇へマンクス金貨を献納した。
マーシアとウェールズの国境に、「オッファの防塁」を建設した。
ミッドランドのフウィッケ王国、ミドルアングリアのリンジィ王国、ロンドンを含むエセックス王国を併合した。
764年、ケント王国エアルフモンド王(762~764)を侵攻して廃位、傀儡王エグバート2世(764~785)を擁立。
771年、支配下のケント王国を通過して、サセックス王国を征服。
776年、オットフォードの戦い
マーシア王国オッファ王(757~796) 勝ち
vs ケント王国エグバート2世(764~785) 負け
778年、ウェールズ侵攻。
779年、ベンシングトンの戦い
マーシア王国オッファ王 勝ち
vs ウェセックス王国キネウルフ王(757~786) 負け
784年、ウェールズ侵攻。
786年、ウェセックス王国キネウルフ王が暗殺されると、傀儡王べオルフトリック(786~802)を擁立。正当な王位継承者エグバートは、フランク王国カール大帝のもとに亡命した。
786年、ローマ教皇ハドリアヌス1世が教皇庁使節団をオッファ王に派遣。
787年、チェルシー教会会議。新たにリッチフィールド大司教区が創設された。
794年、ペニー銀貨を偽造した罪でイーストアングリア王国エゼルベルト王を斬首。
11 ウェセックス王国 サクソン人建国
エグバート王(802~839)
傀儡王ベオルフトリックが、オッファ王の妹エアドブルフ王妃によって毒殺。その後、カール大帝のもとに亡命。エグバートが交代でカール大帝の亡命先からウェセックス王国に帰還。814年、カール大帝死去。フランク王を後継したルイ1世が、全面的にエグバート王を支援した。しかし830年、フランク王国分割相続を巡り内乱になると、エグバート王への支援金が途絶えた。
823年、ガルフォードの戦い ブリトン人のドゥムノニア王国を撃破。
825年、エレンダンの戦い マーシア王国ベオルンウルフ王(823~826)を撃破。
エグバート王の息子エゼルウルフが、ケント王国ベアルドレッド王(823~825)を撃破。サリー王国、サセックス王国、エセックス王国が降伏。
826年、イーストアングリアに侵攻してきたマーシア王国ベオルンウルフ王(823~826)が敗死。
827年、イーストアングリアに侵攻してきたマーシア王国ルデッカ王(826~827)が敗死。
829年、エグバート王が、マーシア王国ウィグラフ王(827~840)を国外追放、マーシア王に即位。
さらに、エグバート王は、ノーサンブリア王国エアンレッド王(808~840)を侵攻・掠奪。多額の貢納金で和平。
830年、エグバート王がウェールズ遠征。マーシア王国ウィグラフ王が復位。
836年、カーハンプトンの戦い。デーン人がコンウォール来襲し、エグバート王が大敗。
838年、ヒングストン・ダウンの戦い。デーン人がブリトン人と組んでコンウォール来襲し、エグバート王が大勝。
エゼルウルフ王(839~855)
851年 アクリアフの戦い。デーン人が来襲し、エゼルウルフ王と次男エゼルバルドが撃退。デーン人がケントのサネット島で越冬。
*デーン人の目的が、単なる略奪から、イングランドの地の占拠・定住に変わってきた。
853年、4男アルフレッドを連れて、西フランク王国シャルル2世禿頭王を訪問。
エゼルバルド王(855~860)
エゼルベルト王(860~866)
エゼルレッド王(866~871)
867年、骨なしのイーヴァル率いる大異教徒軍団がノーサンブリア王国ヨークを占領し、アエラ王を処刑、868年、マーシア王国バーグレッド王(852~874)が完敗で、ノッティンガム占領。バーグレッド王がウェセックス王に応援を求め、エゼルレッド王と副将アルフレッドが駆けつけるも敵はすでに退却。869年、骨なしのイーヴァルは、イーストアングリア王国エドモンド王を殺害し、征服。870年、骨なしのイーヴァルは、レディングを制圧し、ウェセックス侵攻の基地とした。
871年、レディングの戦い。ウェセックス軍敗北。
871年、アッシュダウンの戦い。ウェセックス軍大勝。
871年、ベイシングの戦い。ウェセックス軍敗北。
871年、マートンの戦い。ウェセックス軍敗北、エゼルレッド王敗死。
アルフレッド大王(871~899)
871年、ウィルトンの戦い。ウェセックス軍敗北。貢納金を払い、大異教徒軍団はロンドンへ移動。872年、マーシア王国に矛先を変えて、レプトン占領。マーシア王国バーグレッド王(852~874)を国外追放し、873年、マーシア全土を占領した。
ここで大異教徒軍団が二つに分裂。
1 首領ハールヴダン。ノーサンブリアに戻り定住。
2 首領グスルム。875年、再びウェセックスを侵攻。ウェアハムを占領したが、アルフレッド大王がエクセターに押し戻した。貢納金を払い、さらにマーシアのグロスターに押し戻した。デーン人は、マーシア東部の五市地方(リンカン、レスター、ノッティンガム、スタンフォード、ダービィ)で定住。878年、ウェセックスを電撃襲撃。チッペナムに居たアルフレッド大王は何とかアセルニー湿地帯に逃亡。
878年、エディントンの戦い。「盾の壁」密集歩兵を用いて、アルフレッド大王がデーン軍を撃破。チッペナムに籠ったグスルムを包囲して、ウェドモア条約を締結。グスルムはウェセックスから恒久的に撤兵し、アルフレッド大王の手でキリスト教の洗礼を受けた。
エドワード長兄王(899~924)
910年、テテンホールの戦い
ウェセックス王国エドワード長兄王 勝ち
vs デーンロウ王国エオフリック王 負け
12 イングランド王国
アゼルスタン王(924~939)
927年、ヨールヴィーク王国を滅ぼし、「イングランド王」と称した。
937年、ブルナンブルフの戦い
イングランド王国アゼルスタン王 勝ち
vs デーンロウ王国エオフリック王 負け
エドモンド1世(939~946)
エアドレッド王(946~955)
エドウィ(955~959)
エドガー平和王(959~975)
エドワード殉教王(975~978)
*ノルウェー人ロロがパリ周辺を掠奪。西フランク王シャルル3世単純王は、911年、ロロにノルマンディを封土として与え、掠奪しないようになだめた。
エゼルレッド2世無策王(978~1013/1014~1016)
ノルマンディ公国の港が、デーン人イングランド襲撃のための補給港になっていた。
980年、デーン軍がサザンプトン、サネット、チェシャー来襲。
981年、デーン軍がデボン、コンウォール来襲。
982年、デーン軍がドーセット来襲。
988年、デボン従士(セイン)ゴーダがデーン軍によって戦死。
991年、モルドンの戦い
エセックス伯(エアルドルマン/エアルル)ビュルフトノース 負け
vs デーン軍・ノルウェー王オラーフ・トリグヴァソン(995~1000) 勝ち
991年、エゼルレッド2世無策王は、ノルマンディ公リシャール1世豪胆公(942~996)に対し、デーン人の寄港を許可しないように要請した。ローマ教皇ヨハネス15世(985~996)が、両国の調停に乗り出し、ルーアン協定が締結された。
1002年、エゼルレッド2世無策王と、ノルマンディ公リシャール2世善良公の妹エマが政略結婚。
1002年、聖プライスの日の虐殺。イングランドに住むすべてのデーン人を殺すように命じた。デンマーク王スヴェン1世(986~1014)の妹グンヒルドが処刑された。
1004年、デンマーク王スヴェン1世が来襲。イーストアングリア伯(エアルドルマン)ウルフケテルがこれを撃退。
1006年、スヴェン1世が来襲。デーンゲルド(貢納金)を受け取ると帰還。
1009年、対デーン大艦隊をサンドウィッチ港に待機させた。
サセックス従士ウルフノースと、マーシア伯エアドリックが対立。エアドリックがウルフノースを裁判に訴えると、ウルフノースは艦隊を率いて逃亡。追撃したエアドリック率いる艦隊が座礁し、ウルフノースが火をかけ焼き尽くした。
1009~1012年、スヴェン1世が来襲。傭兵のヴァイキングをジョムズヴァイキングと称する。ジョムズヴァイキングの首領ソーケルとヘミングがデーン軍を率いていた。1010年、リングメレの戦いで、デーン軍がウルフケテルを破るも、ロンドン占拠に失敗し、ケントを掠奪した。カンタベリー大司教エルフヘアフを人質に獲ったが、拒否・処刑。エルフヘアフに感じ入ったソーケルが、イングランド側に寝返った。
1013年、スヴェン1世が来襲、ロンドンを陥落させ、イングランド国王に即位。エゼルレッド2世無策王はノルマンディ公国に亡命。
1014年、スヴェン1世急死。エゼルレッド2世が復位。スヴェン1世の次男クヌートを逃がすため、ヘミング戦死。ソーケルが再び、デーン側に寝返った。
1016年、スヴェン1世の長男ハーラルはデンマーク王ハーラル2世に即位。次男クヌートがイングランドに来襲。
クヌート大王(1016~1035)&マーシア伯エアドリック&ソーケル
vs エドモンド2世剛勇王(1016)&エセックス伯ビュルフトノース&イーストアングリア伯ウルフケテル
1016年、ブレントフォードの戦い。エドモンド2世が勝利。
1016年、オトフォードの戦い。クヌート大王が勝利。
1016年、アシンドンの戦い。イングランド側に寝返ったマーシア伯エアドリックが敵前逃亡。クヌート大王が勝利。休戦協定で、負けたエドモンド2世をウェセックス王に据えたが、病死。クヌート大王がイングランド国王に即位。エドモンド2世剛勇王の息子たちエドワードとエドモンドを殺してくれるよう、スウェーデン王オローフ・シェートコヌングに引き渡したが、クヌートの手が届かないハンガリー王イシュトバーン1世が厚く庇護した。エゼルレッド2世無策王の息子エアドウィックを殺害した。エゼルレッド2世無策王の息子エドワードとアルフレッドは、ノルマンディ公の庇護下で健在で、気がかりだった。
*クヌート大王は4伯領を設置。
ウェセックス伯
マーシア伯
イーストアングリア伯
ノーサンブリア伯
*ウルフノース⇒ゴドウィン⇒ハロルド 3代にわたる大出世街道
ウルフノース サセックス従士(~1014)
ゴドウィン ウェセックス東部伯(1018~1020)
ウェセックス伯(1020~1053)
ハロルド イーストアングリア伯(1052~1053)
ウェセックス伯(1053~1066)
イングランド王ハロルド2世(1066.1.5~10.14)
1018年、デンマーク王ハーラル2世死去。クヌート大王がデンマーク王を兼任。
*北海帝国の争い ノルウェー王がスウェーデン王と組んで、デンマーク王を引きずり下ろしたい
デンマーク王 クヌート1世(大王) 1018~1035
ノルウェー王 オラーフ2世(オラーフ・ハロルドソン) 1015~1028
スウェーデン王 アヌンド・ヤコブ 1022~1050
1028年、イングランド・デンマーク連合艦隊が、ノルウェー・スウェーデン連合艦隊を撃破。ノルウェー王オラーフ2世を国外追放した。クヌート大王がノルウェー王も兼任した。
1029年、クヌート大王が艦隊を率いてイングランド凱旋。
1030年、ノルウェーに帰国したオラーフ2世を、ノルウェー農民たちが殺害。
13 ノルマンディ公国
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