2026年10月 5日 (月)

東西ローマ帝国、フン帝国、新羅

フン帝国(375~453)は、東西ローマ帝国の北方に位置し、莫大な領土に住む多民族を支配した一大帝国であった。北匈奴を起源とするフン帝国は、西方移動に伴って、アジア系からヨーロッパ系に遺伝子が変化。「草原の道」が築かれた。傭兵と西洋文物のやり取りで西ローマ帝国と協調したフン族が、主に東ローマ帝国から頻回にローマガラス器を強奪。そのローマガラス器を、主にソグド人が草原の道を通って運搬して、柔然、北燕、高句麗、新羅と直接交易していた。仁徳天皇陵から出土したローマガラス器をみてわかるように、5世紀前半の神功皇后治世下、畿内の大和朝廷は、百済や任那ではなく、もっぱら新羅と金製品、鉄、ローマガラス器など西域文物を交易していた。フン帝国が瓦解した5世紀後半、ササン朝ペルシアガラス器が代わって、北魏、高句麗、新羅と搬入されるようになった。ササン朝ペルシアは、シルクロードを掌握して、東魏や西魏や梁と交易をおこなったため、西洋文物の搬入ルートが変化した。

扶桑国 親新羅

倭国 親百済

*フン帝国酋長の変遷

バシク、クルシク

ウルディン、ドナート

ルーア、オクタル、ムンズク

ブレダ、アッティラ

エラック、イルナック、デンジギク

ウトリグール族とクトリグール族に分かれて抗争。

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2026年10月 4日 (日)

近鉄とオリックス

私が応援していたころの1989年近鉄バッファローズ。

仰木彬 監督 中西太コーチ

1 大石

2 新井

3 ブライアント

4 リベラ

5 鈴木

6 淡口

7 金村

8 山下

9 真喜志

エースピッチャー 阿波野

 

「百万ドルの夜景」を誇った1994年オリックスブルーウェーブ。

仰木彬 監督

1 イチロー

2 福良

3 タイゲイニー

4 キャブレラ

5 藤井

6 小川

7 田口

8 高田

9 勝呂

エースピッチャー 星野

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2026年10月 1日 (木)

いま流行っている病気

1 インフルエンザA型

2 ヒトメタニューモウィルス感染症

3 RSウィルス感染症

4 新型コロナウィルス感染症

5 マイコプラズマ感染症

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2026年9月30日 (水)

宝塚歌劇星組「RRR」(3回目)をみて

午前診を終え、近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。井高野君と現地集合。1階8列21,22番の良席でした。ひとつ前がSS席の、コスパ最高のS+席。

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下手花道のうらんちゃん、ひよりちゃんのデュエットダンスを凝視。

下手ワキで、小芝居が多い。

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2026年9月26日 (土)

た藁やで関目君と飲み会3

関目君が来訪。クリニックで白河りりちゃんを絶賛して、居酒屋へ向かいました。

白河りりちゃんへのお手紙の話から、AIちゃぴ、ボイスメモへと話題が盛り上がりました。

花組エリザベートは全敗。秋は学校健診もあるし、仕方ないか。年末年始は、有沙瞳ちゃんのスパイ・ファミリー2回、雪組梅芸モンクリ1回、月組アルテミス2回、まどちのミーマイ1回はチケット確保している。光一君&あーちゃんのEndless Shockはチケット争奪中。宙組は休憩。5年前の最盛期とは雲泥の差。

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2026年9月24日 (木)

レコンキスタの軍資金

ユダヤ教からキリスト教に改宗した人たちをコンベルソと呼んだ。ユダヤ人は優秀で、いつの世も社会上層に君臨していた。これを妬んだ下層民がコンベルソを異端摘発することで、全財産没収。それをレコンキスタの軍資金に当てた。

コンベルソだったコロンブスは、スペイン異端審問を逃れるため、新大陸を求めていた。

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2026年9月21日 (月)

宝塚歌劇月組「稲妻開花譚」(ライブ配信)をみて

自宅でまったりと、おだりりプレプレお披露目公演を観劇しました。欽定憲法が発布されて、内閣が発足するまでが舞台。伊予松山藩は松平だし(伊達は宇和島藩)、江戸と東京大好き、保守体制派を貫くよね。会津藩のように恨み骨髄に達すると、ドイツや中国やソ連のような外国の国家転覆工作にはまりやすい。

(注)江戸後半の各藩は一種の会社。不良債権を抱えまくり。県民性の特色を決定づけた。

父・想馬(英かおと) 旧会津藩藩士、旧二本松少年隊隊長、新政府伊藤派。警視庁警視の任務として新世界グループに潜入スパイ。口の軽い警視庁巡査・浜崎義男(七城雅)を部下に持つ。

伊藤博文(佳城葵) 旧長州藩藩士。想馬と稲妻小僧に身辺警護を依頼。

永井栄(真弘蓮) 旧薩摩藩藩士、新世界グループ・反伊藤派・国家転覆派。ドイツ・ヴィルヘルム2世治下の対日スパイ・ジェイムズ商会(槙照斗)が新世界グループに資金提供。

生方利一(和真あさ乃) 旧長州藩藩士、反伊藤派。戊辰戦争中、板垣退助(大楠てら)の降伏勧告を受けた想馬の制止を振り切った、ふくの兄・渡会佐助(飛翔れいや)を殺害する。新世界グループに加入する。

風馬・稲妻小僧(風間柚乃) 旧会津藩二本松少年隊士、伊藤の不倫だけは許さねぇ、瓦版。伊予松山義塾の隣で新聞社を開業している。想馬を「伊藤の犬」だと軽蔑している。会津藩藩士としての誇りはどこへ行ったんだ。

おひいさま・伊予松山義塾(白河りり) 旧伊予松山藩藩士の娘。青少年の風紀を乱す元凶と考えて、新聞には反感がある。稲妻小僧の推し活をやっているが、風馬とは喧嘩ばかり。

母・ゆり(朝香ゆらら) 会津で想馬と知り合い、風馬を身ごもるも身分差を心労に投身自殺を図る。助かるも結核を患う。

田丸信造(彩海せら) 旧会津藩二本松少年隊士、ニセ稲妻小僧。戦友・渡会佐助(飛翔れいや)の妹ふく(一乃凜)を身請けするための資金稼ぎのため、新世界グループに接近。ふくのなじみの客・私怨の敵・生方利一が新世界所属と知り、想馬に寝返る。

板垣退助(大楠てら) 旧土佐藩藩士、自由民権運動グループ。憲法制定でいったん矛を収めた。

*稲妻小僧世直し窃盗団

須山高生(月乃だい亜)、本木隆太(美颯りひと)、新羽半蔵(遥稀れお)、近本華(華羽りみ・りっちゃん)

田丸信造さん、あんなに拒否権だらけの大日本帝国憲法のもとで、内閣総理大臣の独裁は絶対に起きないことだけは覚えておいてほしい。

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2026年9月20日 (日)

宝塚歌劇星組「RRR」(2回目)をみて

渋滞の近畿自動車道、大渋滞の中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。娘夫婦と現地集合、嫁は孫と乳母車デート。育児から解放された娘夫婦が、星組RRRを堪能できて、とても喜んでいました。キャトルレーヴで、5回は落選した芸文稲妻公演プログラム、星組花男2Blu-ray、詩ちづるブロマイドをいっぱい買いました。Xで朝香ゆららちゃんの評判がいいみたいで、明日のライブ配信が楽しみです。月組下級生時代、入り出まちのYouTubeで詩ちづるちゃんと朝香ゆららちゃんが毎日仲良く通勤している姿を拝見していました。デキル子ちゃんなのは当然。

宝塚先生の紹介で、稀惺かずとさんの会のご厚意で、1階S+FC席で観劇させていただきありがとうございました。客席降りでは、私が恋天ロケットで注目していた厚木の108期・絢咲羽蘭(あやさきうらん)ちゃんのキレキレダンスを拝見できて、とても嬉しかったです。おけいはんの104期・綾音美蘭(あやねみらん)ちゃん、今回退団する小倉無法松あばれ太鼓の105期・鳳花(おか)るりなちゃんと並んで、娘役ダンスの頂上レベルといっていい。

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うたち、美人、綺麗。デキル子ちゃんなのだから、「眩耀の谷」のような、難解で本格的な芝居をやらせてあげてほしい。それが、星組組子の芝居力向上につながるのだから。

乙華菜乃ちゃん、綺麗ですね。トップ娘街道まっしぐら。

藍羽ひよりちゃん、薄幸可憐な役がお似合い。応援してますよ。

ロケットは月路あゆちゃんが目立つ。

エトワールの鳳花るりなちゃんが、以前より声量が一段と大きくなっていました。

ナトゥは、前作より短縮、組子の総踊りで支える感じ。まこっちゃん、ひっとんのようにはいかない。ケガしないよう最後まで駆け抜けてほしい。

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2026年9月17日 (木)

ソフトバンクホークス パ・リーグ優勝2026

ソフトバンクホークス、パ・リーグ優勝おめでとう。

昨日の戦いぶりで信じてたよ。昨日は京セラでキリンビール一番搾りを3杯飲んだ。

さきほど自宅でキリンビール一番搾りで祝杯をあげた。

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2026年9月16日 (水)

京セラドーム ソフトバンクM2観戦2026

午前診を終え、近鉄でドーム前下車、京セラドームに15時半に到着。井高野君と現地集合して、3塁側内野席で、柳田悠岐のユニフォームを着て応援観戦した。

上沢と九里の息詰まる投手戦。満塁のピンチをしのぐ上沢のほうが劣勢の印象だった。がしかし、オリックスの拙攻で助けられた。九里亜蓮はすばらしい投手だ。柳田悠岐&山本由伸&マッチョ&紅林弘太郎ファンの私が、九里亜蓮ファンの関目君にSNSで伝えたら喜んでいた。ホークスは、オスナの満塁劇場はあったが、救援陣も安定の強さだった。

柳田悠岐のバッティングフォーム

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9回、ホークスは延長戦を想定して杉山温存、オリックスは切り札マチャドを切ってくる。12回までいくなと思った矢先、マチャド連投せず、防御率5点台の岩嵜が登場。そりゃ、バッティングセンター状態に様変わりするわって。10回裏、ホークス救援陣の誰が登板しても勝てるとみて、あと井高野君がオリックス監督采配に気分が悪くなったと言うことで(来季もご愁傷様です)、退場。次回の宝塚星組RRRでの再会を約して現地解散。私は、孫と遊んだ嫁と難波で待ち合せ、近鉄特急に乗り換えて、帰宅した。

明日はオリックスに3連勝し、日本ハムが西武をがむしゃらに倒すだろう。一足先に、パリーグ優勝おめでとう。

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2026年9月13日 (日)

ソフトバンクホークス2026 M5

いよいよ来週、京セラでオリックス3連戦。9/16、オリックス&阪神ファンの井高野君と、3塁側ベンチで観戦する。いつもはオリックスファン&アンチ阪神の関目君と1塁側ベンチで肩身狭く観戦してきたが、今回は初のマイスマホチケットでソフトバンク&阪神ファンとして観戦。

正木はSB製大谷翔平。ソフトバンクの強さは2重の投手陣と鉄壁の守備にある。裏版先発・鈴木豪、裏版中継ぎ・木村、裏版抑え・伊藤が存在する。予定が狂って表版投手陣が崩れて負け越しても、裏版の好投と隙なくランナーを貯めてホームランで仕上げる強力打線で逆転勝ちのチャンスがいくらでも生まれる。「そこに周東」「韋駄天周東」の凄さは誰もが認めて言うまでもないが、安心のショートストップ川瀬、こけしバットをスリークォーターに構える打撃もバントも守備も一流選手に育ったね。

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2026年9月12日 (土)

梅田芸術劇場「GHOST」をみて

午前診を終え、近鉄、御堂筋線を乗り継いで、嫁と梅田芸術劇場シアター・ドラマシティに行ってきました。座席は1階18列ド真ん中の良席でした。プログラムを購入。

「ゴースト」と「天使にラブソング」とを混同していた節があり、コメディーだと思っていたら、けっこうシリアスなミュージカルでした。オダ・メイの「その言葉(教会)に弱いのよ。」が示すように、まんざら的外れでもなかったようですが。

モリー 星風まどか

サム 浦井健治

カール(マフィアに借金したため、会社のカネを横領) 太田基裕

ウィリー(カールが雇った犯人) 輝馬

パンク(地下鉄のゴースト) 加賀谷真聡

オダ・メイ(ペテン霊媒師) 森久美子

ルイーズ(オダ・メイの助手) 元榮菜摘

クララ(オダ・メイの助手) 飯塚萌木

 

相変わらず、我ながら、まどちを追ってるねぇ。陶芸のシーンは、どんな形の陶器を作ってくれるかオペラグラスでガン見。舞台はニューヨークの現実と煉獄。モリーは彫刻家、陶芸家、サムの婚約者。サムとカールはビジネスマン。ウィリーはカールのヤバい密命を受けた、プエルトルコ人のプー太郎。パンクは、なんかよくわからんが、物を動かしたりピカチュウ電気攻撃ができる、地下鉄で死んだゴーストであり、新入りサムの師匠。そしてオダ・メイは3代目霊媒師。祖母と母親はほんとうの超能力を持つ有名人だったが、孫のオダ・メイにはその素質がなく、ただ、かろうじてサムの声だけは聴くことができた。しかし無数の詐欺行為のせいで、信用しかけたモリーの信用を再び完全に失うことになる。ルイーズとクララのうまい歌唱が降霊ショーを盛り上げる。

犯人ふたりを始末し終えたサムがいよいよ昇天することになり、モリーと最後の抱擁を交わしたいところだが、サムには肉体がないし、モリーに見えない。そこで、オダ・メイにサムが憑依する相談をオダ・メイが快諾。いよいよオダ・メイとモリーのラブシーンかと思わせたシーンが笑えた。

サムとモリーの涙駄々洩れ熱演が光っていた。マリー・アントワネット「さようなら、ベルサイユ。さようなら、パリ。さようなら、フランス!」を連想するラストシーンがよかった。

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2026年9月 2日 (水)

宝塚歌劇星組「RRR」(1回目)をみて

午前診を終え、近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきました。ロビーで紫峰あけのさんを見ました。座席は、1階5列下手側の最高の席でした。下手花道目の前で、ドレスを着た藍羽ひよりちゃんが踊ってくれましたし、ラストの階段上り(?)のダンスは真横で奏碧タケル君と鳳花るりなちゃんがガシガシ踊ってくれました。暁千星くん、めっちゃドアップ、詩ちづるちゃんが、ますます綺麗になってます。うたち、どうしたの。8月29日、あーちゃんDS&RRR初日のとき、キャトルレーヴでうたちの四つ切写真、プログラムは購入済。

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メインキャストは、

ラーマ 暁千星 (子役 藍羽ひより)

ビーム、偽装アクタル 瑠風輝

前半は女神、後半はシータ 詩ちづる

ジェニー 乙華菜乃

ジェイク 稀惺かずと

ひたすら影ダンス 夕渚りょう

ひたすら影ダンス、エトワール 鳳花るりな 目力込めて舞台出まくり、退団ラストがんばってください。

途中から影ダンス 希沙薫

途中から影ダンス 綾音美蘭

ラーマの伯父(ヴァンカテシュワルル) 天飛華音

ビームの捕囚妹(マッリ) 茉莉那ふみ

あとの組子はひたすら総踊り、迫力満点の舞台です。男役だけのダンスはカッコいいし、娘役だけのダンスも綺麗でした。

人力大仕掛けの空中戦が見もの、暁千星くんが弓矢を放ちまくって、英連邦警察の銃撃に勝ちまくるのが、義和団事変かと突っ込みたくなりました。

プロローグ、ドドーンと月路あゆちゃん、目立ってましたよ。

御曹司・稀惺かずと君は王道の歩み、乙華菜乃ちゃんも劇団の先生方にしっかり花嫁修業を積ませてもらってます。

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2026年8月29日 (土)

綺咲愛里DS Le Lienに参加して

午前診を終え、近鉄快速で今津下車、阪急今津線&阪急宝塚線に乗り継いで宝塚ホテルに行ってきました。売布神社君と井高野君と現地集合。

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セトリは、インスタでの曲募集にわたしが「これぞ、あーちゃん代表曲」と思って送信した3曲を歌ってくれて感動しました。めっちゃよかった。スカピンはトップお披露目で、2番手・新公主演くらっち(有沙瞳)も大好き。美しきヘップバーンが踊る姿は、ダンサー&ピアニストあーちゃんの舞台を彷彿させます。

スカーレット・ピンパーネル「ひとかけらの勇気」

マイフェア・レディ「I could have danced all night (踊り明かそう)」

ベルサイユのばら「薔薇は美しく散る」

ただ微笑んで暮らせばそこそこ幸せで平穏な日々を送れたはずが、情熱に動かされて茨の道をあえてたどる人生。男前なあーちゃんの代表曲。ピアノの恩師も参加されていたみたい。

お姉ちゃんを後追いしてきた妹の美里玲菜さんが学業で忙しい中、あーちゃんと連弾したコーナーも、ほのぼのしていてよかった。104期ロケット「さくらルージュ」を、あーちゃんが陰でご指導したそうで、やっぱりそうだったのねと納得しました。不遇の104期、きよら羽龍、美羽愛、麻花すわん、咲彩いちご、美海そら、おけいはん綾音美蘭、楓姫るる、都姫ここ、愛蘭みこ、くらっち党・麻丘乃愛も応援しています。

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2026年8月27日 (木)

イタリア王国

なんでドイツにローマ帝国ができてんねん?

ローマ皇帝になるにはローマで教皇に戴冠してもらわなあかん。いつのころからか、ローマ教皇が田舎に出張して戴冠するようになり、ドイツ皇帝もいつのころからか、ローマ旅行がめんどくさくなり、ローマ教皇なしに地元で戴冠式を開催して皇帝を宣言できるようになった。皇帝選挙といっても、隣国や地元の豪商から賄賂金を受け取って選挙人に賄賂を渡していた。選挙会場は子飼いの軍団で包囲した。ヨーロッパじゅうの人たちも神の栄光ある皇帝だということで納得していたというわけだ。西フランク王は、教皇を南フランスに拉致して、教皇庁を息のかかった人物で固める。バチカンよりはるかに立派なアヴィニョン教皇庁を建設した。俺のほうが偉いんだぞというのが、絶対王政期のフランス国王とスペイン国王。実際、三十年戦争でドイツのローマ帝国は滅んでた。1648年ウェストファリア条約が、「ローマ帝国死亡診断書」。ポッと出のナポレオンは、そんなローマ皇帝の血を欲した。

 

カール大帝即位から、ヴェルダン条約、メルセン条約、オットー1世神聖ローマ皇帝即位と、教科書では三段跳び(ホップ・ステップ・ジャンプ)されてしまい、訳が分からない。当時のイタリア王国中心に詳しく勉強してみた。イタリアは、古代ローマから今に至るまで大家父長制度だ。日本人がイタリア男性と結婚して帰化しているけど、ゴッドファーザーに輿入れしていると思っていい。イタリア貴族の力が強く、自分とこのイタリア王が気に食わないと、東フランク王、(ちょっと前までイタリアを簒奪していたランゴバルト人の)スポレート公、プロヴァンス王、ブルグント王を傀儡擁立した。スポレート公はひとり毛並みが違う。子・オットー2世は南イタリアのビザンツ領を取ろうとして失敗。孫・オットー3世は東フランクの都をアーヘンからローマに遷都して西ローマ帝国が本格的に再発進といった矢先に若くして病死。後世、フランスがイタリアへいっぱい遠征してくるけど、西フランク王にはお願いしていないのだ!!北フランスを拠点とするフランス王朝が、別の国だった南フランスにかこつけて大義名分と自称してイタリアに攻めてきていたと考えていい。フランスは南北で言語が違っていた。結局、東フランク王国のオットー1世に落ち着く。これを言わないと東フランクがいきなり登場では訳が分からなかった。主に東フランク王とスポレート公の、この喧嘩の中で、西暦900年前後、ローマ教皇が5~6人連続で暗殺される。これで一番影響受けたのがイングランドだ。教皇を中心にひとつのイングランドにまとまっていこうぜ!!アルフレッド大王の盛り上がり気運が一気にしぼんだ。ハンガリーのマジャール人が侵攻してきて敗けて多額のカネを渡す。ハンガリーのモラヴィア王国がどんどん裕福になる。同じころ、イングランドにデーン人ヴァイキングが侵攻してきて、カネを奪って帰国する。どんどん北欧が裕福になってきていた。イタリア4大海洋都市国家のひとつ、アマルフィー共和国はこうして登場してくる。

 

中フランク王国(イタリア王国)の置き忘れ物がロタリンギア公国、のちのネーデルランド(オランダ・ベルギー)だ!

ロレーヌ公国・ロタリンギア公国・ロートリンゲン公国

中フランク王国ロタール1世が、次男ロタール2世にロタリンギアを与えた。

843年、ヴェルダン条約で、ロタリンギアが東西フランクに分割された。

880年、リブモント条約で、ロタリンギア全域が東フランク王国に帰属した。ロタリンギア王ツヴェンティボルトが在地貴族レニエ家と対立した。

899年、サン・ゴアール条約で、西ロタリンギアは西フランク王国に帰属した。

923年、925年、東フランク王ハインリヒ1世がロタリンギア侵攻。

925年、ハインリヒ1世がレニエ家ギゼルベルトをロタリンギア大公(ロートリンゲン大公)に任命して、ロタリンギア全域は東フランク王国に帰属した。

939年、ロタリンギア大公ギゼルベルトが、オットー大帝の弟ハインリヒを擁立して反旗を翻したが、オットー大帝に敗北。

940年、オットー大帝は、ギゼルベルトを廃位して、娘婿・コンラート赤毛公(940~954)をロタリンギア大公に据えた。

954年、コンラート赤毛公が反乱するとこれを廃位。オットー大帝は、弟ケルン大司教ブルーノをロタリンギア大公に据えた。ブルーノがロタリンギアを上下に2分裂。

下ロタリンギア辺境伯(ベネルクス中心) マトフリート家ゴドフロア 965年ブルーノ死で大公に昇格

上ロタリンギア辺境伯(ライン左岸中心) アルデンヌ=バル家フレデリック 965年ブルーノ死で大公に昇格

1033年、上ロタリンギア大公アルデンヌ=バル家フレデリック3世に長子後継者なく、ブロア伯ウード2世が侵攻。皇帝コンラート2世の計略で、下ロタリンギア大公アルデンヌ=ヴェルダン家ゴデロン1世に上下併合させてブロア伯ウード2世に対抗させた。

1037年、バルの戦い。ロタリンギア大公ゴデロン1世がブロア伯ウード2世を撃破。

1044年、ゴデロン1世死去。皇帝ハインリヒ3世がロタリンギアを再び分割。

上ロタリンギア大公 長男ゴドフロワ3世髭公

下ロタリンギア大公 次男ゴデロン2世

1045~1047年、ゴドフロワ3世が反乱したが皇帝ハインリヒ3世に敗北。

上ロタリンギア大公 シャトノワ家アダルベール

下ロタリンギア大公 アルデンヌ=ルクセンブルク家(リュッツェンブルク家)フレデリック(フリードリヒ)

敗北後のゴドフロワ3世は、トスカーナ辺境伯ボニファーチオ未亡人ベアトリクスと結婚。1057年には、弟が教皇ステファヌス9世に就任。

1065年、ゴドフロワ3世は、下ロタリンギア大公に返り咲いた。

 

アルザス公国(642~740)

642年、アウストラシア王シギベルト3世が、アルザス公国を創建。修道院文化が繁栄した。

740年、調子相続者がなく、公国廃絶。フランク王国のグラーフシャフトに再編されて、下アルザス(ノルゴー)伯領と上アルザス(スンゴー)伯領に分割された。

870年、メルセン条約で東フランク王国に帰属。

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ロタール1世(840~855)

ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)(855~875)

855年、プリュム条約

 長男ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世) イタリア・皇帝位

 次男ロタール2世 ロタリンギア(ロレーヌ)

 三男シャルル(カール) プロヴァンス

869年、ロタール2世死去、断絶。ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)はバーリ首長国を攻略中でロタリンギア相続に参戦できなかった。

870年、メルセン条約

東フランク王ルートヴィヒ2世と、西フランク王シャルル2世禿頭王がロタリンギアを勝手に分割相続した。

871年、ベネヴェント公国の兵士がルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)とエンゲルベルガ皇帝一家を捕囚。解放されたルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)は、教皇ハドリアヌス2世(867~872)の許可を得て、ベネヴェント王国を侵攻したが失敗。

875年、皇帝ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)死去。娘はいたが男子相続人がないため、東フランク王国カールマンと西フランク王国シャルル2世禿頭王が後継者争い。西フランク王シャルル2世が選出された。ロドヴィコ2世の娘は、ボゾン家ボソに嫁いで、息子ルイを産んだ。

 

シャルル2世禿頭王(875~877)

イタリア王とイタリア皇帝に即位。877年、急死。

カールマン(877~879)

イタリア王に即位。皇帝空位。

病弱のため、ルートヴィヒ3世にバイエルン王位、カール3世にイタリア王位を与えた。

カール3世肥満王(881~887)

879~882年、ボゾン家ボソが独立して、下ブルグント(キスユラブルグント)王国を再興したが、弟のブルゴーニュ公リシャール正義公が率いた西フランク軍に敗れて滅亡。

885年、モラヴィア王国スヴァトプルク1世(870~894)と平和条約締結して東方情勢を安定化。

886年、バーベンベルク家惣領ハインリヒが、パリでノルマン掃討戦に敗北。各フランク王国の諸侯たちが有能な王を選出し始めた。

東フランク王国 バイエルン王国王子のアルヌルフ(887~899)

 887年、バイエルン兵とスラヴ兵を率いてクーデタを起こし、カール3世肥満王を廃位。

 

西フランク王国 ロベール家パリ伯ウード(888~898)

 コンピエーニュで戴冠。

 

イタリア王国 フリウーリ公ベレンガーリオ1世(888~924)

 トリエント(トレント)で戴冠。

 915~924年、ローマ皇帝

 888年、ブレシアの戦いで、スポレート公国グイードに勝ち、休戦。

 東フランク王国アルヌルフに対し、トレントで臣従の礼をとった。

 889年、トレッビアの戦いで、スポレート王国グイードに負け、ヴェローナに亡命。

 898年、皇帝ランベルト死去を受けて、単独のイタリア王としてパヴィーア入り。

 899年、ブレンタ川の戦いで、マジャール人に敗北、金貨・銀貨を渡して帰ってもらった。

 899年、皇帝アルヌルフ死去、弱すぎるベレンガーリオは皇帝失格とされた。

 915年、教皇ヨハネス10世がローマ・ナポリ間のイスラム勢力を一掃した。トスカーナ辺境伯アダルベルト2世死去を受けて、ベレンガーリオがローマ皇帝に即位。

 923年、フィオレンツォーラの戦いで、ブルグント王ルドルフ2世に敗北。

 924年、マジャール人傭兵を派遣してパヴィーアに火を放つ。ルドルフ2世がヴェローナに派遣した刺客フランベルトによって殺害。

ベレンガーリオ2世(950~963)

 928年、アダルベルト1世からイヴレーア辺境伯(928~950)を後継。

 950年、亡命先だった東フランク王国からイタリアに帰還。パヴィーアでイタリア王に即位。

 

プロヴァンス(下ブルグント・キスユラブルグント)王国 ボゾン家ルイ3世盲目王(887~928)

 900~905年、イタリア対立王

 901~905年、ローマ皇帝

 900年、トスカーナ辺境伯アダルベルト2世によって、イタリア王に即位。

 901年、教皇ベネディクトゥス4世(900~903)によって、ローマ皇帝に即位。トスカーナ伯アダルベルト2世と不和になり、アダルベルト2世がベレンガーリオ1世を支持。

 903年、イタリアを国外追放され、プロヴァンスに帰国。

 905年、ヴェローナの戦いで、マジャール人傭兵を雇ったベレンガーリオ1世に敗戦、盲目の刑を受けた。

 911年、ヴィエンヌからアルルへ遷都。アルル王国と改名。

 ルイ3世が盲目の刑に処せられた後、ボゾン家アルル伯ユーグ(926~946)が実権を握った。

ユーグ(926~946)

 926年、イタリア諸侯の選出で、プロヴァンス王ユーグがイタリア王に即位。ローマ皇帝は、962年オットー1世まで空位となった。

 928年、ルドルフ2世に低地ブルゴーニュを移譲。その見返りにイタリア王としての地位を確保した。

 テオバルド スポレート公

 ボゾーネ→ウベールト トスカーナ辺境伯

 ベレンガーリオ1世の血を引くイヴレーア辺境伯ベレンガーリオ2世を圧迫して東フランク王国に亡命させた。

ロータル2世(946~950)

 ベレンガーリオ2世を顧問として受け入れ、王権行使を黙認した。

 

上ブルグント(ユーラブルグント)王国 ヴェルフ家ルドルフ1世(888~912)

 サン・モーリスで戴冠。

ルドルフ2世(912~937)

 922年、イーヴレア辺境伯アダルベルト1世の招聘を受けて、パヴィーアでイタリア王に即位。

 923年、フィオレンツォーラの戦い。ローマ皇帝ベレンガーリオに勝つ。

 924年、ベレンガーリオを暗殺。

 926年、低地ブルゴーニュ国王ユーグ(926~946)と同盟して、イタリア北部と低地ブルゴーニュ(プロヴァンス)に侵入したマジャール人を撃退。

 926年、ノヴァーラの戦い。

 義父・シュヴァーベン公ブルヒャルト2世 負け

 vs ミラノ大司教ランベルト 勝ち

 ルドルフ2世は、イタリア王位の象徴だった聖槍を東フランク王国ハインリヒ1世に譲渡し、イタリアを去った。

 926年、イタリア諸侯が低地ブルゴーニュ国王ユーグをイタリア王に選出したため、高地ブルグントに帰国。

 933年、高地ブルグントと低地ブルゴーニュが併合されて、ブルグント王国が成立。

 

スポレート公国 ランゴバルト系ヴィドー家グイード3世(883~894)

 888年、ブレシアの戦いで、ベレンガーリオ1世に負け、休戦。

 889年、トレッビアの戦いで、ベンガーリオ1世に勝ち、イタリア王即位、パヴィーアで戴冠。

 891年、教皇ステファヌス5世(885~891)により息子ランベルト2世と一緒にローマ皇帝に即位。

 894年、教皇フォルモスス(891~896)が東フランク王国アルヌルフにイタリア遠征を依頼。

ランベルト2世(891~898)がイタリア王とローマ皇帝を後継。

 896年、教皇フォルモスス(891~896)が東フランク王国アルヌルフをローマ皇帝に戴冠。急病のためランベルト皇帝遠征を断念・帰国。

 896年、教皇ボニファティウス6世(896)を擁立したが急死。

 896年、教皇ステファヌス6世(896~897)を擁立、フォルモススの遺体をテヴェレ川に投棄したため、民衆に殺害された。

 教皇ロマヌス(897)、教皇テオドルス2世(897)、教皇ヨハネス9世(898~900)、教皇ベネディクトゥス4世(900~903)、レオ5世(903)が相次いで急死。教皇セルギウス3世(904~911)が対立教皇クリストフォルスを追放。

 

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ベネヴェント公国→ベネヴェント侯国 ランゴバルト系

 839年、右方皇帝ルートヴィッヒ1世敬虔王の調停により、ベネヴェント侯国とサレルノ侯国が分離。

 891~895年、ビザンツ帝国が占領。

 895~897年、スポレート公国が占領。

 897~900年、ベネヴェント侯国として再び独立。

 900~981年、カプア侯国が占領し、カプア=ベネヴェント侯国を創設。

 981年、ベネヴェント侯国とカプア侯国が分裂。

カプア侯国 ランゴバルト系

 861年、辺境有力者がサレルノ侯国から独立してカプア侯国を創設。

 900~981年、カプア伯がカプア=ベネヴェント公国を建国。

 967年、パンドルフォ鉄頭侯が、イタリア王国スポレート公領を支配下に置く。

 978年、パンドルフォ鉄頭侯が、サレルノ侯国を支配下に置く。

 981年、パンドルフォ鉄頭侯が死去、カプア侯国とベネヴェント侯国に分裂。

サレルノ侯国 ランゴバルト系

 839年、ベネヴェント公国から分離独立。

アマルフィ公国 ビザンツ系

 838年、ビザンツ帝国系ナポリ王国支配下だったが、ランゴバルト人支配下に入った。

 839年、ランゴバルトから再び独立し、自治共和国になる。

 958~1137年、公国に昇格。

バーリ首長国(847~871)

 アグラブ朝に仕えたベルベル人奴隷が建国。

 857年、ベネヴェント王国侵攻し貢納を要求。

 859年、カプア侵攻。

 864年、3代めのサウダーンが、カリフから知事任命された。

 866年、ローマ皇帝ルートヴィヒ2世が、妻エンゲルベルガとともにベネヴェント公国に進攻し、バーリを攻略したが失敗。

 867年、中部フランク王&ローマ皇帝ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世;850~875)が、マテーラとオーリアを攻撃開始。

 869年、ローマ皇帝ルートヴィヒ2世とビザンツ皇帝バシレイオス1世が共闘で、プッリャ、カラブリア侵攻。

 871年、バーリ要塞陥落、サウダーン捕囚、バーリ首長国滅亡。

 

 

*イタリア有力貴族

クレスケンティウス(クレシェンツィ)家

ボニファーチ家 ルッカ伯からトスカーナ辺境伯へ

トゥスクルム家(ローマ)

アルル家

カノッサ家

 

*イスラム領

915年、教皇ヨハネス10世の呼びかけで集まった連合軍が、ローマ・ナポリ間のイスラム勢力を一掃した。

しかし、シチリアはイスラムに支配されたままであった。

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2026年8月26日 (水)

た藁やで関目君と飲み会2

関目君が来訪。優勝が差し迫ってきたパリーグの野球談議に終始した。ソフトバンク優勢、オリックス劣勢のまま、別れて帰宅して結果みてみたら、お互い逆転負け、逆転勝ち。なんやそれという感じ。ソフトバンクは来年に向け、先発投手の補強が急務だ。京セラでこないだも宗選手に打たれてセーブ失敗したが、直球とフォークだけのセーブは厳しい。スライダーを覚えてほしい。

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宝塚歌劇観劇予定2026後半

星組「RRR」はS+2枚2回とFC経由娘夫婦分3枚。

月組芸文「稲妻」おだりりプレプレお披露目は全落選。9/21ライブ配信へ。

花組「エリザベート」は今まで全敗、今日抽選発表分と9/2抽選発表分を残すのみ。S+2枚抽選申し込みはかなりきつかったかな。

月組「天穹」はFC経由1枚すでに確保、他の抽選もなんとかなるかな。ただし年末の雪組梅芸「モンテクリスト」を絶対優先で全力抽選する。

綺咲愛里姉妹DS

星風まどか梅芸「ゴースト」

有沙瞳芸文「スパイファミリー」

星風まどか梅芸「ミーマイ」

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2026年8月22日 (土)

宝塚歌劇雪組「ポーの一族」(3回目)をみて

午前診を終え、近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁(飲酒するのでいつも帰りの運転お願いしてます)と宝塚大劇場に行ってきました。フルールで生ビール一杯。キャトルレーヴで、音彩唯ちゃんのメリーベル・ブロマイド5枚セット、華純沙那ちゃんと白綺華ちゃんのブロマイド(美人二人ともめっちゃ推してます)、月組呂布と雪組梅芸あさまいプレお披露目のBlu-ray購入。王寺君と現地集合。座席は2階下手側の良席でした。

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ひとりぼっちのエドガー(かわいい妹と禁断の初恋の人の面影を追って時代を超えて彷徨う寂しがり屋の少年)が、ひとりぼっちのアラン(おとなの汚さを嫌う永遠の少年)を誘うシーン、ヘリコプター?に乗って天空と時空を駆けめぐるエドガーとアランを2階席目の前ドアップで観ました。よかったぁ。

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2026年8月20日 (木)

世界史学習、座右の名著

世界史を学ぶなら、ぜひ持っておきたい書だ。佐藤賢一先生の「英仏百年戦争」を最初に読んで、ヨーロッパ史に興味を持った。とくに佐藤彰一先生のフランク史シリーズはすごい。須田武郎先生「騎士団」は痒いところまで手が届いて完璧。富沢霊岸先生「イギリス中世史」と山辺規子先生「ノルマン騎士」と中谷功治先生「ビザンツ帝国」は通史教科書としてとてもよくまとまっている。佐藤賢一先生のフランス三部作、菊池良生先生「神聖ローマ皇帝」、小笠原弘幸先生「オスマン帝国」、永島育「オスマン帝国全史」、森護先生「英国王室」は皇帝列伝なので必携。澤田典子先生「マケドニア全史」は、臥薪嘗胆を強いられ続けたマケドニア、アレクサンダー大王がいかにポッと出の大王だったかがわかる。祖父と父が偉大だった。騎兵の貴族が歩兵の平民の厚遇を妬いて王を狩場で暗殺する。菊池良生先生「戦うハプスブルク家」は、三十年戦争の本当の意義が説かれている。傭兵の生きざま、リシュリューの悪行がよくわかる。そのころオスマン皇帝は何していたと常に照らし合わせながら学びたい。藤井真生先生「中世チェコ国家」は、中欧の歴史を拡大レンズで見事に描いている。東西ユーラシアを統合した国はモンゴルだと過剰宣伝されているが、その一時代前に繁栄を極めた突厥帝国とその末裔・ハザール帝国を忘れてはいけない。通商道路は、想像以上に広範囲だったソグド商人ネットワークのおかげだ。とくにロシア語大家の城田俊先生「ハザール」は必読だ。アヴァール人、フン族マジャール人などヨーロッパ人が悪魔と呼ぶ人たちも、ビザンツ帝国と対等だったハザール人に臥薪嘗胆を強いられたふつうの民族だったことがわかる。菅沼愛語先生「7世紀後半から8世紀の東部ユーラシアの国際情勢とその推移 唐・吐蕃・突厥の外交関係を中心に」は図解がすごくまとまっている。仲麻呂はなんで怒った?中公新書「唐」をさらに詳細に論じている。新見まどか先生「唐帝国の滅亡と東部ユーラシア」は節度使の政略結婚と仮子を詳しく解説。安史の乱でなんで唐はすぐ滅ばなかったのか?がわかる。奈良時代・平安時代が好きな日本史愛好家は必読の書だ。外国から日本を見る視点も大事だ。北魏、東魏、西魏を藩鎮の目線から勉強すれば、隋・唐は鮮卑の国家であることが実感できる。その背後に南朝の梁がいる。「新三国志」隋の煬帝は、梁の武帝(菩薩天子)に憧れていた。則天武后、日本にとってやっぱり同情の余地はない。男と女の闘い。帰国したての玄奘(三蔵法師)との絡みが面白い。モンゴルは、奥さんが豪勢な財宝とたくさんの民をもってくる。モンゴルが後継者争いですぐつぶれなかったのは、バトゥのおかげだ。河出書房の図説ふくろうの本シリーズは地図や系図が学習に助かるので買っておいて損はない、むしろ西洋史学習者には必携だ。

山川・実教世界史教科書は建前の綺麗ごとしか語らないが、実際本音の歴史は金儲けで動く。

佐藤賢一「英仏百年戦争」集英社

佐藤賢一「カペー朝・ヴァロア朝・ブルボン朝」講談社

菊池良生「神聖ローマ帝国全皇帝伝」河出新書

菊池良生「戦うハプスブルク家」講談社

森護「英国王室史話上・下」中公文庫

佐藤彰一「フランク史クローヴィス以前・メロヴィング朝・カロリング朝・カペー朝」名古屋大学出版会

桜井俊彰「戦国ブリテン」「消えたイングランド王国」集英社

富沢霊岸「イギリス中世史」ミネルヴァ書房

高山博「中世シチリア王国」講談社

櫻井康人「図説十字軍」河出書房

櫻井康人「十字軍国家」筑摩選書

山辺規子「ノルマン騎士の地中海興亡史」白水社

浜島書店「ニューステージ世界史詳覧」

須田武郎「騎士団」新紀元社

桜井万里子「古代ギリシア人の歴史」刀水書房

澤田典子「古代マケドニア全史」講談社選書メチエ

阿部拓児「アケメネス朝ペルシア」中公新書

青木健「ペルシア帝国」講談社

塩見七生「ローマ人の物語」新潮社

塩見七生「ギリシア人の物語」新潮社

クリス・スカー「ローマ皇帝歴代誌」創元社

フィリップ・マティザック「古代ローマ歴代誌」創元社

南川高志「ローマ五賢帝 輝ける世紀の虚像と実像」講談社

マイケル・クリコフスキ「後期ローマ帝国史」白水社 辞書代わりに

永島育「オスマン帝国全史」三才ブックス

小笠原弘幸「オスマン帝国」中公新書

中谷功治「ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち」中公新書

根津由喜夫「図説ビザンツ帝国 刻印された千年の記憶」河出書房

ジョナサン・ハリス「ビザンツ帝国 生存戦略の一千年」白水社 辞書代わりに

藤井真生「中世チェコ国家の誕生 君主・貴族・共同体」昭和堂

城田俊「ハザール」水声社

陣内秀信「イタリア海洋都市の精神」講談社

松本典昭「図説メディチ家の興亡」河出書房

黒田祐我「レコンキスタ スペインを生んだ中世800年の戦争と平和」中公新書

田澤耕「物語カタルーニャの歴史」中公新書

宮崎正勝「世界経済全史」日本実業出版社

伊藤敏「教養としてのヨーロッパ史」PHP研究社

伊藤敏「歴史を動かした決戦の世界史」ベレ出版

中国ドラマ「三國志 Three Kingdoms」 王と軍師の組み合わせがうまくいかない悲劇

三国志は渡邉義浩先生の動画と著書を読み漁れば間違いない。

菅沼愛語「7世紀後半から8世紀の東部ユーラシアの国際情勢とその推移 唐・吐蕃・突厥の外交関係を中心に」溪水社

新見まどか「唐帝国の滅亡と東部ユーラシア」思文閣出版

松下憲一「中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史」講談社選書メチエ

窪添慶文「北魏史 洛陽遷都の前と後」東方書店

小野響「五胡十六国時代」ハヤカワ新書

楊海英「モンゴル帝国 草原のダイナミズムと女たち」講談社

シリーズ中国の歴史・全5巻 岩波書店 現代中国史はこの本から読むべき。

菊池秀明「太平天国 皇帝なき中国の挫折」岩波新書

森部豊「唐 東ユーラシアの大帝国」中公新書

平田陽一郎「隋 流星王朝の光芒」中公新書

渡邉義浩「漢帝国 400年の興亡」中公新書

会田大輔「南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで」中公新書

宮崎市定「隋の煬帝」中公文庫

氣賀澤保規「則天武后」講談社

中嶋敏・周藤吉之「五代と宋の興亡」講談社学術文庫

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2026年8月18日 (火)

ヴァイキングの感想

英国は300年間に、元寇100~200回あったと思ってもらっていい。たった2回で大騒ぎする日本と雲泥の差を感じる。川をボートが急速に駆け上がっていく。お布施たっぷり、聖書殺人禁止で丸腰無抵抗の修道僧たちをまず襲う。坊さんが、異教徒は人間やないし、まあいいっか、武装してたっぷりの財宝を隠してくると次は民家を襲う。毎冬、寒い北海を行ったり来たりめんどくさくなると、近所に集落を組んで、年がら年中襲撃を繰り返す。このノリで聖遺物ほしさにエルサレム十字軍へ突入。

ヴァイキングとは、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク3国による北海制海権・大陸橋頭堡争奪戦争だ。さすが商人の国、関税問題が絡む。

(注)教会はお布施をローマに上納しないといけないが、修道院は全部自分の財産になる。ローマは教会を通じて諜報活動ができるので、メロヴィング朝国王は教会を嫌って、修道院と付き合いたがる。カロリング朝国王は、アリウス派のランゴバルトにおびえる教会にヨイショされて、教会と付き合い始める。教会は南イタリアにて舐めてかかってしまったノルマンの反撃に懲りて仲良くし始める。

(注)ヴァイキング船は水の侵入を防ぐためタールを塗っていた。よってぜったい火気厳禁。温かい料理は上陸してからのお楽しみ。船内に飛び越えてくる水しぶきで、不潔な排泄物が流され、疫病の船内集団感染が予防できた。

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2026年8月15日 (土)

中世アイルランド、中世イングランド、中世スコットランド、中世ウェールズ

ヨーロッパは大部分、ローマによって支配された。イングランド、ブリタニアもローマによって支配されたが、ローマの支配は非常に短かった。ライン下流、ユトランド半島に住む、ウーデンの教えを奉じる異教徒が5世紀後半に、ブリタニアに移住。そこで、ローマが残しておいたキリスト教に遭遇して、キリスト教化されていった。

450年ころ、アングロ・サクソン人が来襲。原住民ブリトン人はウェールズやアイルランドに逃亡し、キリスト教もイングランドには残らなかった。だから、6~7世紀、アイルランドが一番文化水準が高かった。6~8世紀、他のヨーロッパはローマ人の言うバーバリアンが侵略してきて、バーバライゼーションが進行しており、ヨーロッパの中で被害を受けていない唯一の島がアイルランドだった。だから、当時、アイルランドの文化水準が高かった。カール大帝がカロリング・ルネサンスを起こしたときの学者は大部分、アイルランドと北イングランド出身だった。8~9世紀のアイルランドは、「聖人と学僧の島」としてヨーロッパじゅうに知られ、尊敬を集めた。

540~550年、聖デイヴィッドがウェールズをキリスト教に改宗した。

スコットランドのアイオナ島に、アイルランドの聖コルンバがアイオナ修道院を設立。563年、アングロ・サクソン人がそこではじめてキリスト教と出会った。アイオナ島がピクト人布教の拠点になった。聖ケンティゲルンは、スコットランドのグラスゴー司教に就任。聖ブリジッドは、アイルランドのキルデアに女子修道院を創設した。

5世紀後半、聖デュヴリグは、ウェールズのヘンソン・モクロスに修道院創設。ブルターニュ人の聖イルティッドは、シャニルティッド・ヴァウル修道院を創設。

597年、ローマ教皇グレゴリウス1世(590~604)の命を受け、ベネディクト派の聖オーガスティン(アウグスティヌス)がアイリッシュ・キリスト教ではない、本物のカトリック教を布教するため、ドーヴァー海峡を渡ってケントに来訪。ケント王国エゼルベルト王の許可を得て、初代カンタベリー大司教に就任。ブリタニアのキリスト教は、アイリッシュかカトリックか、2つの流派となったが、大部分はウーデンの教えを信奉していた状況。

663年、ノーザンブリア王国オスウィ王の主催、ホイットビー宗教会議で、ローマ・カトリックを採用することに決定。

668年、タルソスのテオドルスがケントに来訪、カンタベリー大司教(668~690)に就任した。7世紀、東ローマのビザンツ教会が優勢になっており、バルカン半島のゲルマン人をキリスト教に改宗させていた。また、ギリシア人のキリル兄弟がスラヴ人をキリスト教に改宗させた。

672年、ハーフォード宗教会議で、テオドルスが司教区を6つから14に増やした。

734年、ノーザンブリア王国に、ヨーク大司教を設置。ノーザンブリアは政教一致していたのでキリスト教布教がスムーズだった。サウザンブリアは小国に分裂していて、カンタベリー大司教の管区になっていた。ローマ教皇グレゴリウス1世の構想では、ヨークとコンチェスター(のちにロンドン)に大司教管区を置いて、12人の司教を作るはずだった。カンタベリーのあるケント、ロンドンのあるミドルセックス、ウィンチェスターのあるウェセックス王国が、ロンドンを取り合っており、そんな危ないロンドンにカンタベリー大司教は近づけなかった。しかし、カンタベリー大司教は、宗教会議だけはロンドンで開催した。

7世紀末ころから、マーシア王国が強大になり、オッファ王、ケンウルフ王で最盛期を迎えた。オッファ王もケンウルフ王もカンタベリー大司教が開催する宗教会議に参加した。キリスト教が目的というより、ケント王国やウェセックス王国にマウントをとるためだった。カンタベリー大司教も自分の領地、財産の保全のために、マーシア王国に接近。

マーシア王国が統一するかと思ったら、急速に衰退し、825年、ウェセックス王国エグバート王がマーシア王国を撃破。さらに、829年、ノーサンブリア王国も撃破。その孫アルフレッド王(871~899)のとき、ヴァイキングが来襲し、教会や修道院は荒廃した。ウェセックスの国王は宗教会議に出なくても、ケント、エセックス、マーシア、ノーサンブリアを十分制圧できるという環境が整った。エゼルスタン王(924~939)のときから、逆にヨーク大司教とカンタベリー大司教をウェセックス国王評議会に出席させるまでになった。

910年、クリュニー修道院のクリュニー改革が起こり、イングランド王国エドガー王のとき、戒律をよく守る修道士に、修道院や教会内局の運営を依頼するようになった。さらに王は修道士に、王妃は尼僧に、1日7回祈祷してもらっていた。エドガー王は、マーシア地方の支配を確実にするため、マーシア地方の修道院に息のかかった人物を送り込んだ。

10世紀末、「神の平和運動」が南フランスに起こり、中部フランス・ポワティエまで波及した。フランスでは、王が頼りなく、貴族がオールマイティだったが貴族同士が喧嘩していた。しかし、イギリスには強大なエドガー王による「王の平和」があった。イギリスでは、貴族はオールマイティではない。王がオールマイティだった。貴族は王の言うことを気にしなければならず、王の逆鱗に触れると潰されてしまう。ドイツでは、王などいないのも同然で、貴族がオールマイティだった。ヴェルフェン家とかシュタウフェン家といった家門が強力だった。

その後、デーン人クヌート王が来襲。ウルフスタン、ヨーク大司教と示談。ノルマンディ公ウィリアムは、修道士ヴォルピアーノをディジョンからフェキャンに招来して「ノルマンディ公の平和」を現出していた。同じやり方をイングランドに持ち込んで、「イングランド王の平和」を現出した。

ヘンリ2世のとき、大司教以下、司教たちを国王の臣下にしようとした。ローマ教皇の言うことを聞かず、国王の言うことを聞かせた。1170年、カンタベリー大司教トマス・ベケットを殺害。1172年、アヴランシュ協定。1122年のウォルムス協定に倣い、国家は領地支配権を持ち、教会は司牧権を持つとした。グレゴリウス改革により、すべての教会をローマ教会の傘下に入れて、十分の一税の税収を全部ローマが吸い上げた。

 

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ブリタニア

BC7世紀ころ、中欧の鉄器文明ハルシュタット文明が、ケルト人によってブリタニア東南に伝来。

BC4世紀ころ、南欧の鉄器文明ラ・テーヌ文明が、ケルト人によってブリタニア西南に伝来。

BC75年ころ、ベルギー人がブリタニア東南に侵入して、カトゥヴェラウニ王国を建国。

BC50年ころ、ローマから離反したベルギー人がブリタニア南部に侵入して、ベルガエ王国を建国。

アラートルム(無輪犂)とカルーカ(有輪犂)を利用していた。

*ベルギー人の国 はじめて貨幣を使用した。

カトゥヴェラウニ王国

ベルガエ王国

*ブリトン人の国

トゥリノヴァンテス王国

イケーニ王国

ドブーニ王国

レグニ王国

ドゥムノーニ王国

シルーレス王国

コリタニ王国

ブリガンテス王国

BC58~55年、カエサルがガリア遠征。ブリタニアがベルギー人の反抗を支持していたことを知った。

BC55~54年、ブリタニア征服に転じた。

AD43年、クラウディウス帝がブリタニア遠征。メドウェイ川の戦いで、ブリトン人に勝利し、ローマ凱旋。総司令官プラウティウスをブリタニア総督に任命。イケーニ王国アンティオス王はローマと同盟。

AD61年、イケーニ王国ボウディッカ女王の反乱。娘が凌辱された復讐として、ロンディニウム(ロンドン)のローマ人を大量虐殺。ウェルラミウムを掠奪。

ブリタニア総督ガイウス・スエトニウス・パウリヌスがロンディニウムを見捨てて、ワトリング街道の戦いでボウディッカの反乱を鎮圧。さらにウェールズ征服。

AD71年、ヴェスパシアヌス帝の命で、ヨーク遠征。ブリタニア総督ペティリウス・ケリアリス。

AD74年、ブリタニア総督セクストゥス・ユリウス・フロンティヌスがシルーレス王国を撃破して、ウェールズを支配。

AD78年、ブリタニア総督アグリコラがフォース、クライド湾地方に侵攻。

AD83年、アグリコラがスコットランド侵攻。カレドニア種族が大打撃を受けた。

AD84年、ドミティアヌス帝の命で、アグリコラがローマに召喚。ダキア反乱鎮圧に軍団が割かれてしまい、ブリタニア完全制圧ができなくなった。

AD122~127年、ハドリアヌスの長城

AD142~143年、アントニヌスの長城

AD180~184年、ブリガンテス王国やスコット族の反乱のため、アントニヌスの長城を放棄して、ハドリアヌスの長城をブリタニアの境界として防衛。

AD196年、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌスが、セヴェルス帝に反乱したが鎮圧された。スコット人が侵入。

AD209年、セヴェルス帝がスコットランド遠征したが、ゲリラ戦に負けて211年、ヨークにて死去。

AD286~293年、ベルギー軍司令官カラウシウスが、ディオクレティアヌス帝に反乱してブリタニア独立。スコットランドやアイルランドからピクト人が侵入、サクソン人来襲が始まった。

4世紀、ディオクレティアヌス帝のとき、ウェルーラムのオールバン、カーリアンのユリウスといった殉教者が出た。

314年、アルル公会議にヨークのエボリウス、ロンドンのレスティトゥートゥス、アデルフィルスといった3人の司教が出席。

325年、ニケーア公会議で決まったアリウス派禁令がブリタニアでも施行されていた。

ローマ人がブリタニアから奪っていったものは、亜鉛、銅、錫、石炭、鉄といった鉱物資源だった。イクニールド・ウェイ、ウォトリング・ストリート、フォス・ウェイ、アーミン・ストリートといった石畳の道路を建設した。軍人が副業として長城修復や道路建設や鉱物採掘に当たり、評判が悪かった。「俺たちは、敵を殺しに来たのであって、土木建設や鉱物採掘は本来俺たちの仕事じゃない。」

383年、ブリタニア軍司令官マグヌス・マクシムが皇帝位簒奪のためローマ遠征。ハドリアヌスの長城が破壊された。このころから、アングロサクソン人来襲が本格化した。

ホノリウス帝はゴート人侵攻に手いっぱいで、ブリタニア支配を放棄した。

4世紀以来、アイルランドのケルト人がウェールズへ移住してきた。

5世紀初頭、ローマに見放されたブリトン人は、アングロサクソン人来襲に対して自己防衛しなくてはいけなくなった。

5世紀中頃、ウェールズ出身のフォーティガーンがローマ式支配からケルト式支配に戻して、社会混乱の安定化に成功した。

470年ころ、アンブロシウス・アウレリアヌスがブリトン人を結集。493~516年、ペイドン丘の戦いで、サクソン人を撃退した。ウェールズとアイルランドだけが、異教を信奉するゲルマン民族来襲をまぬがれて、キリスト教文明を維持できた。

429年、447年にオーゼル司教・聖ゲルマヌスがブリタニア布教。彼の弟子・聖パトリック、ウェールズの聖イルトゥードは、アイルランド、ウェールズの布教に献身した。

5世紀のアンブロシウス・アウレリアヌスのブリトン人結集・勝利、5~6世紀、ブリトン人のブルターニュへの植民は、ケルト・ブリトン人のしぶとさを象徴している。アングロサクソン人が最初に出会ったのは、ローマ文明ではなく、息を吹き返していたケルト・ブリトン文明であった。

 

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ウェールズ

 

 

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ヒベルニア(アイルランド)

北西 コノート  北東 アルスター

南西 マンスター 南東 レンスター

74~84年 ローマ将軍アグリコラがスコットランド遠征。

82年 ローマ将軍アグリコラがアイルランド侵入。

122年 ハドリアヌス帝がハドリアヌスの防壁を建設。

300年ころ ローマ文化浸透により農業技術が進展。鉄製の梨刀を木製の鋤に装着。ほかに刃物、斧、鋸、ハチの巣型の碾臼が導入された。

367年 アイルランド人がローマ支配下のブリタニアを襲撃。

397年 ブリトン人の聖ニニアンがスコットランドのロスナット(現ホイントホーン)にカンディダ・カーサ修道院を創設。聖ニニアンは、ウェールズ、アイルランドにも布教した。

5世紀初め、ブリトン人がコーンウォールからブルターニュへ移住。

432年 ローマ教皇ケレスティヌス1世(422~432)の命で、聖パトリックがアイルランドで布教開始。

450年ころ、アルスターのエマン・マハ王国が、コノートのニール王子に滅ぼされ、オニール王朝が樹立。オニール王家の領主たちは、「タラ王」と自称。

498年、アイルランドのスコット人がスコットランド西部に上陸して、ダルリアダ王国を建国。

6世紀ころ、ピクト人がスコットランド北部にアルバ王国を建国。

5世紀末~6世紀初頭以降、司教制度が廃止され、ローマと切り離された修道院制度が始まった。

6世紀から、クロナードの聖フィニアンは、アゴール修道院とクロナード修道院を創設し、アイルランドの修道院制度を確立・発展させた。聖キアランはクロンマクノイス修道院を創設した。聖ブレンダンはクロンファート修道院を創設。聖コムガルはバンゴールとタイリー島に修道院創設。聖コルンバヌスはヨーロッパを行脚して修道院を創設した。聖エイダンは、ブリテンのリンディスファーン修道院を創設してアイオナ修道院系の学問の中心として発展させた。聖ケヴィンはグレンダロッホ修道院を創設。聖ゴールは大陸を行脚し、聖エンダはアラン諸島イニシュモア島にキリーニー修道院を創設。聖フィンバーはコークに修道院を創設。

やがて、修道院が世俗にまみれて、腐敗堕落した。774年、タラ修道院マール・ルアンは「ケーリ・デー(神の僕)」運動を開始して、禁欲的な修道院生活にもどろうとした。

8世紀末、ノルウェー人を主体としたヴァイキングがアイルランドに来襲。修道院は無抵抗で財宝を抱えていたので、この上ない御馳走だった。

9世紀初めころ、ヴァイキング来襲に対し、修道院は石造の円塔を建設した。「高十字架(ハイクロス)」と呼ばれるケルト十字架が特徴。

830年代から、ヴァイキング侵攻が激しくなった。

870年代には、ヴァイキングはイングランドに矛先を変え、アイルランドから遠ざかっていった。

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イングランド七王国(ヘプターキ)

1 ケント王国 ジュート人建国

ブリトン人ヴォーティガン(フォーティガーン)が、北方のスコット人、ピクト人に対抗するため、ジュート人ヘンギスト・ホルサ兄弟を傭兵とした。

455年、エイルスフォードの戦い。ホルサは戦死したが、ヘンギストがフォーティガーンを敗走させた。

457年、クレイフォードの戦い。ヘンギストが息子エスクとともにブリトン人をケントから追放。

エスク王(488~512)

488年、エスクがケント王国を建国し、ケント王に即位した。

フランク王国から、ぶどう酒・ガラス器・装飾品・黄金を輸入し、フランク王国へ、ウール・鉱物・奴隷を輸出した。

エオルメンリク王

メロヴィング朝フランク王国の王族?貴族?

エゼルベルト王(560~616)

588年、フランク王国カリベルト1世の娘・ベルタ王女と結婚。ガリアの高度なキリスト教文明を受け入れた。

強勢だったウェセックス王国ケアウリン王(581~588)・息子クッサと戦った。

アングロサクソン語で書かれた成文法「エゼルベルト法典」を編纂した。

メロヴィング朝フランク王国を真似て、金貨を鋳造した。

597年、ローマ教皇グレゴリウス1世(590~604)の命を受け、ベネディクト派の聖オーガスティン(アウグスティヌス)がアイリッシュ・キリスト教ではない、本物のカトリック教を布教するため、ドーヴァー海峡を渡ってケントに来訪。カンタベリー大司教に就任し、ロチェスター、ロンドンに教会設立。エゼルベルト王がキリスト教に改宗。

エセックス王国スレッド王に妹を輿入れ、子供のサベルト王を操り、キリスト教に改宗させた。

イーストアングリア王国レドワルド王をキリスト教に改宗させた。

エアドバルド王(616~640)

キリスト教を弾圧したが、カンタベリー大司教ラウレンティウスの尽力で改宗。

フロスヘレ王(673~685)が、サセックス王国の援軍を得た甥のエアドリック王(685~687)に敗死。

686年、ウェセックス王国カドワラ王(686~688)がケント王国を侵略して荒廃させた。ムサを擁立してケント王国を支配したが、すぐに火刑に処せられた。

ウィトレッド王(690~725)

ウェセックス王国と和約。「ウィトレッド法典」を編纂し、教会を免税した。

マーシア王国オファ王が、エセックス王国、サセックス王国、ケント王国の宗主国に収まった。

776年、オットフォードの戦い

マーシア王国オファ王(757~796) vs ケント王国エグバート2世(764~785)

798年、マーシア王国ケンウルフ王(796~821)がケント王国を征服。

825年、エレンダンの戦い

ウェセックス王国エグバート王(802~839) 勝ち

vs マーシア王国ベオルンウルフ王(823~826) 負け

ウェセックス王国がケント王国を征服。

 

2 イーストアングリア王国 アングロ人建国

ウファ王

5世紀末、ウファ王がイーストアングリア王国を建国。

レドワルド王(616~627)

616年、ノーサンブリア王国エセルフリット王(593~616)を撃破して覇王となった。

625年、ウェセックス王国キネギルス王(611~642)のワイト島侵攻を阻止。

シグベルト王(630~640)

司教フェリックスとともにキリスト教布教につとめた。

654年、マーシア王国ペンダ王がイーストアングリア王国アンナ王(640~654)を処刑。

794年、マーシア王国オファ王がイーストアングリア王国エゼルベルト王を処刑。

825年、マーシア王国ベオルンウルフ王を撃退。

869年、ヴァイキング大異教徒軍団がエドマンド王(855~869)を処刑し、イーストアングリア王国を滅ぼした。

878年、ヴァイキングのグズルム(878~890)が、デーンロウ王国を建国した。

3 バーニシア王国 アングロ人建国

イダ王

547年、バーニシア王国を建国。

エゼルフリッド王(593~617)

603年、ドーストンの戦い。西スコットランドのダルリアダ王国エダン王を撃退。その後、デイラ王国エリ王の娘と結婚して、ノーサンブリア王国を建国した。

613~616年、チェスターの戦い。ブリトン人を撃破した。

617年、イーストアングリア王国レッドワルド王に敗死。

4 デイラ王国→ノーサンブリア王国 アングロ人建国

エリ王

560年、ヨークシアにデイラ王国を建国。

エドウィン王(617~633)

625年、ウェセックス王国キネギルス王(611~642)のワイト島侵攻を阻止。

626年、ウェセックス王国クウィケルムが、エドウィン王暗殺未遂。エドウィン王がウェセックス王国を侵攻。

627年、ヨークの教会で、エドウィン王はキリスト教に改宗した。司教パウリヌスをヨークに住まわせた。

ケント王国レドワルド王の死後、エルメット王国を征服。さらにウェールズのグウィネズ王国カドワロン王を侵攻。

633年、ハットフィールド・チェイスの戦いで、敗死。司教パウリヌスはカンタベリー大司教ホノリウスのもとに逃亡、のちケントのロチェスター司教に就任した。

オスワルド王(634~642)

亡命先だったスコット人のダルリアダ王国から帰国。634年、ヘブンフィールド(デニセスブルナ)の戦いで、グウィネズ王国カドワロン王を敗死させ、復讐を果たした。

635年、エドウィン王が請来したローマカトリックではなく、アイオナ島の司祭エイダンを招来し、リンディスファーン島を拠点にアイリッシュ・キリスト教を布教した。

642年、マザーフィールドの戦いで、マーシア王国ペンダ王に敗死。

オスウィ王(642~670)

651年、バーニシア派オスウィ王が、デイラ派オスウィネ王を制圧。

655年、ウィンウェド川の戦いで、マーシア王国ペンダ王を破り、復讐を果たした。

664年、ウィットビー教会会議。アイリッシュ・キリスト教をやめ、ローマ・カトリック教を採用した。ブリタニアに日食、疫病大流行。

ノーサンブリア貴族ベネディクト・ビスコプは、ケルト的修道院を一掃し、ローマ的教会組織・教育制度を採用した。ノーサンブリア貴族ウィルフリッドは、ベネディクト派戒律による修道院を導入し、661年、リボン修道院長、664年、ヨーク司教に就任した。カンタベリー大司教に対抗して、ヨーク大司教区を創設しようとして、カンタベリー大司教テオドールと対立、ノーサンブリア王とも対立し、ワイト島、マーシアに国外追放された。

*アイルランド系キリスト教 

修道院を中心として自己修練を図り、研鑽を積んだ修行僧個人が各地に放浪的な布教の旅をする。前頭部を剃髪する。

*ローマ・カトリック教

大司教ー司教ー司祭という教会組織のヒエラルキーを大原則に地域に根付いた布教を行う。頭頂部を剃髪する。

エグフリッド王(670~685)

ピクト人の反乱を鎮圧。司教ウィルフリッドと対立、司教区を小分割し、国外追放した。

679年、トレント川の戦い。カンタベリー大司教セオドアの仲裁で、マーシア王国エゼルレッド1世と和平。国境リンジー地方をマーシア王国に譲渡した。

684年、ベルトに命じ、アイルランド侵攻、ブレガを荒廃させた。

685年、聖人カスバートの反対を振り切って、エグフリッド王自ら、ピクト人侵攻。ネクタンズミア(フォーファー)の戦いで、ブリデ3世に敗死。

アルドフリッド王(685~705)

学者王であり、最盛期を迎えた。ベネディクト・ビスコップがウェアマストジャロー修道院を創設し、ローマから大量の書物を貯蔵した。ビスコプの友人エグベルトは、兄エドベルフト王と協力。735年、カンタベリー大司教から独立したヨーク大司教区を設置。エグベルトがヨーク大司教に就任した。ヨークに学校を設立、歴史家ベーダがここから巣立った。のちヨーク出身の神学者・アルクィンを輩出した。

エドベルフト王(737~758)

弟エグベルトが、735年、カンタベリー大司教から独立したヨーク大司教区を設置して、自らヨーク大司教に就任した。

ピクト遠征。

所領を不正保持している貴族や堕落した修道院を粛清した。

アルフレッド王(765~774)

キリスト教伝道に熱心。

エルフウォルド王(779~788)

キリスト教伝道に熱心。

エゼルレッド1世(774~779/790~796)

793年、ヴァイキングがリンディスファーン襲撃。

エアルドウルフ王(796~810)

801年、カール大帝の援助を得て、マーシア王国ケンウルフ王を威圧できた。

エンレッド王(810~840)

カール大帝の援助が途絶えた。

829年、ドーアの戦い。ウェセックス王国エグベルト王に敗北。

オスベルト王(848~867)

865年、ヴァイキング大異教徒軍団が来襲。866年、ヨーク占領。867年、ノーサンブリア王国アエラ王(867)が敗れて滅亡。

876年、ヴァイキングのハールヴダン(876~877)がヨールヴィーク王国を建国した。

5 レゲド王国 ブリトン人建国

ウリエン王

6世紀後半、バーニシア王国を侵攻。リンディスファーン島に追い詰めた。

6 エルメット王国 ブリトン人建国

7 グウィネズ王国 ウェールズ系ブリトン人建国

カドワロン王(625~634)

ロドリ大王(844~878)ウェールズをほぼ統一

ハウエル善良王(942~950)ウェールズをほぼ統一

マレディズ・アプ・オーワイン王(986~999)ウェールズをほぼ統一

617年、アイドル川の戦い

イーストアングリア王国レドワルド王&デイラ王国エドウィン王(亡命中) 勝ち

vs バーニシア王国エゼルフリッド王 負け

633年、ハットフィールド・チェイスの戦い

マーシア王国ペンダ王&グウィネズ王国カドワロン王(625~634) 勝ち

vs ノーサンブリア王国エドウィン王 負け

634年、ヘブンフィールド(デニセスブルナ)の戦い

グウィネズ王国カドワロン王 負け

vs ノーサンブリア王国オスワルド王 勝ち

642年、マザーフィールドの戦い

マーシア王国ペンダ王&ポウィス王国キンディラン・アプ・キンドルウィン王&グウィネズ王国カドヴァエル・カドメッズ農民王 勝ち

vs ノーサンブリア王国オスワルド王 負け

655年、ウィンウェド川の戦い

マーシア王国ペンダ王&イーストアングリア王国エゼルヘレ王(654~655) 負け

vs ノーサンブリア王国オスウィ王(642~670) 勝ち

679年、トレント川の戦い

ノーサンブリア王国エグフリッド王(670~685)

vs マーシア王国エゼルレッド1世(675~704)

カンタベリー大司教セオドアが仲裁に入った。リンジー地方がマーシア王国に移譲された。

685年、ネクタンズミアの戦い

ノーサンブリア王国エグフリッド王 負け

vs フォルトリウ王(ピクト人)ブリデ3世 勝ち

 

8 サセックス王国 サクソン人建国 アンドレッドの森に囲まれた狭き秘境。とても貧乏。

エレ王(477~514)

5世紀末、キメネス・オラに上陸して、サセックス王国を建国。

エゼルウェルホ王

マーシア王国ウルフヘレ王(658~675)の後見で、キリスト教の洗礼を受け、ワイド島とメオンワラを譲渡された。

司教ウィルフリッドを厚遇した。

ウェセックス王国カドワラ王がエゼルウェルホ王を殺害。

9 エセックス王国 サクソン人建国 大陸貿易が盛んで裕福。

サベルト王(604~617)

604年、司教メリトゥスがケント王国からエセックス王国に送られ、ロンドンで布教開始。ケント王国エゼルベルト王が、サベルト王をキリスト教に改宗させた。

シゲベルト善良王(653~660)

653年、ノーサンブリア王国オスウィ王が、シゲベルト善良王をキリスト教に改宗させた。司祭ケッドがエセックス王国を来訪、ブラッドウェルとティルベリーに修道院を創設。

スウィズヘルム王(660~664)

660年、イーストアングリア王国エゼルワアルド王(655~663)がスウィズヘルム王をキリスト教に改宗させた。

664年、ブリタニアに日食、疫病大流行。マーシア王国ウルフヘレ王(658~675)が司教イェルマンをエセックス王国に送り込んだ。

マーシア王国は、ロンドンを支配し、貨幣を発行し、関税を徴収した。

シゲリック王(758~798)

王位を棄ててローマの修道院に出家した。

 

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10 マーシア王国 アングロ人建国

初期マーシアは、まだ1人の王に統治されるような国の状態ではなく、複数の自立勢力が連合したような形であった。ペンダを首長とするグループと、ケオルルを首長とするグループの、少なくとも2つ以上のグループがあって、負けたグループの一部が大陸に亡命した。

メロヴィング朝フランク宮宰にしてカロリング朝フランク簒奪王となったピピニーデン(ピピン一門)。「ピピン」「カール」はヨーロッパ大陸に見られないケルト語由来の苗字。

ピッバ→ピピン 

ケオルル→カール

この類似性から考えると、マーシア王族の一部が大陸に亡命して、メロヴィング王家によって宮宰に取り立てられたと考えられる。

マーシア王国オファ王からみて、カール大帝は大陸に逃げていった親類にすぎないわけで、お互いにプライドを賭けてマウントを取り合う気持ちが容易に理解できるだろう。

ヨーロッパを語るうえで、一次史料不足でゴミのように扱われた中世アイルランド、中世イングランド、中世スコットランド、中世ウェールズの歴史から語られなければ、中世フランクをはじめとする深い理解には至らない。ヨーロッパ中央は東方から襲来する蛮族に蹂躙・荒廃されており、南のイタリア・ギリシアから、北のブリタニア・アイルランドから、西のイベリアから、忘れられていた文明がヨーロッパ中央に再び注ぎ込まれていった。

マーシア王国は、東西南北を敵に囲まれており、防衛に難があった。国の面積は最大だったが、海にほとんど面していないので、良好な湾や港もなく、テムズ川やハンバー川のような水運に適した河川にも恵まれておらず、人や物の往来にハンディキャップを背負っていた。何事にも最新の流行に後れを取ってしまい、キリスト教への改宗も七王国で最後であった。ブリテン島に侵攻したアングロサクソン人が、早いもの順でおいしい場所をとって王国を建て、最後に残った広いけれども旨味のない広大な土地にできたのがマーシア王国だった。

イーチェル王

5世紀末に、マーシア王国を建国。

ケント王国エセルベルフト王の支配に従属していた。

ペンダ王(632~654)

628年、サイレンシスターの戦い。ウェセックス王国を制圧。

633年、ハットフィールド・チェイスの戦い。ノーサンブリア王国エドウィン王を敗死。

640年、イーストアングリア王国エグリック王とシグベルト王を敗死。

642年、マザーフィールドの戦い。ノーサンブリア王国オスワルド王を敗死。

グウィネズ王国カドヴァエル・カドメッズ農民王と、ポウィス王国キンディラン・アプ・キンドルウィン王の援軍を得てやっと勝った。

ノーサンブリア王国は再び2分裂。

バーニシア王国オスウィ王(642~670) 劣勢になるとダルリアダ王国に亡命した。

デイラ王国エゼルワルド王(650~655) 8~9年ほど空位だった。

645年、妹を離縁されたため、ウェセックス王国ケンワルフ王(642~673)を侵攻。ケンワルフ王はイーストアングリア王国アンナ王(640~654)のもとに亡命。

651年、ノーサンブリア王国侵攻。

652~654年、ノーサンブリア王国侵攻。

654年、イーストアングリア王国アンナ王を敗死。傀儡王エゼルヘレを擁立。

655年、ウィンウェド川の戦い。息子エグフリッドを人質に差し出し多額の金貨を支払う代わりに撤退を約束することでバーニシア王国オスウィ王が承諾。息子アルドフリッドとともにオスウィ王は、ペンダ王を背後から襲撃して敗死させた。

マーシア王国ペンダ王

&イーストアングリア王国エゼルヘレ王

&グウィネズ王国カダファエル・アプ・キンフェズ王

&デイラ王国エゼルワルド王

vs バーニシア王国オスウィ王 計略がはまって大勝利

ウルフヘレ王(657~674)

ウェセックス王国、ケント王国を制圧。

エセルレッド王(674~704)

678年、トレント川の戦い。ノーサンブリア王国エグフリット王(670~685)を敗走させ、リンジー地方を獲得。

ケオルレッド王(709~716)

715年、ウェドネスベオルグの戦い。ウェセックス王国イネ王と戦った。

エセルバルド王(716~757)

ウェセックス王国を完全に制圧し、「南イングランド王」と自称した。

オッファ王(757~796)

「アングル人の王」と自称した。ロンドンでペニー銀貨を鋳造した。

カンタベリー大司教ジャンベルトが管轄する教会施設所有権を奪い、献金をやめ、代わりにローマ教皇へマンクス金貨を献納した。

マーシアとウェールズの国境に、「オッファの防塁」を建設した。

ミッドランドのフウィッケ王国、ミドルアングリアのリンジィ王国、ロンドンを含むエセックス王国を併合した。

764年、ケント王国エアルフモンド王(762~764)を侵攻して廃位、傀儡王エグバート2世(764~785)を擁立。

771年、ヘイスティングスの戦い。支配下のケント王国を通過して、サセックス王国を征服。

776年、オトフォードの戦い

マーシア王国オッファ王(757~796) 勝ち

vs ケント王国エグバート2世(764~785) 負け

カンタベリー大司教イェンベルフトを威圧して、リッチフィールド大司教設置を画策する。

778年、ウェールズ侵攻。

779年、ベンシングトンの戦い

マーシア王国オッファ王 勝ち

vs ウェセックス王国キネウルフ王(757~786) 負け

784年、ウェールズ侵攻。

786年、ウェセックス王国キネウルフ王が暗殺されると、傀儡王べオルフトリック(786~802)を擁立。娘を嫁がせて懐柔。正当な王位継承者エグバートは、フランク王国カール大帝のもとに亡命した。

786年、ローマ教皇ハドリアヌス1世が教皇庁使節団をオッファ王に派遣。ローマへ毎年ピーター税を支払うことと交換条件に、カンタベリー大司教区を分割してリッチフィールド大司教区とする約束を取り付けた。このオファ王の政教合体政策の成功が、のちのカール大帝と教皇レオ3世の連携の先駆になった事件である。

787年、チェルシー教会会議。新たにリッチフィールド大司教区が創設された。マーシア人ヒゲベルフトがリッチフィールド大司教に就任。

794年、ペニー銀貨を偽造した罪でイーストアングリア王国エゼルベルト王を斬首。

 

*デーン人来襲

787年、南イングランドのポートランド沖にはじめてデーン人が来襲。

793年、ノーサンブリアのリンディスファーン修道院にデーン人が来襲。

800年、タイン川付近にデーン人が来襲。

835年、テームズ川河口のシェピー島にデーン人が来襲。

841年、リンジーからイーストアングリアにかけてデーン人が来襲。

842年、ロンドンにデーン人が来襲。

851年、ロンドンにデーン人が来襲。マーシア王国のベオルフトウルフ王(840~852)が敗走した。

851年、テームズ川南岸にデーン人が来襲。ウェセックス王国のエセルウルフ王(839~855)がアクレアの戦いで勝って撃退。

854年、執拗に侵入するデーン人にシェピー島居住を許可。

デーン人は、兄イヴァールと弟ハーフダンを指導者として、イーストアングリアに定住し、867年、ノーサンブリアに傀儡政権として、エグベルトを擁立し、北東イングランドに居住地を拡大した。

869年、デーン人がイーストアングリアのエドモンド王を攻撃。

870年、デーン人がレディングを拠点にして、ウェセックス王エセルレッド王(865~871)と弟アルフレッドを攻撃。

871年、アルフレッド王即位。レディングに増強されてくるデーン人攻撃に苦しみ、買収策を取ってウェセックスの安全を図った。

デーン人はロンドンに拠点を移し、ヨークに擁立していたエグベルト王を倒し、マーシアにデーン人が傀儡政権ケオールウルフ2世(874~882)を擁立してマーシア支配。デーン人支配を免れていたのは、ウェセックス王国アルフレッド大王だけだった。

当時、デーン人も2分裂。ヨークを中心としたノーサンブリアのハーフダン王と、イーストアングリアのグスルム王。

878年、グスルム王が、ウェセックス攻撃。チップナムでウェセックス王国アルフレッド大王を破った。アルフレッド大王は、エディントンで雪辱を果たし、チップナム協定を結んで、デーン人の進出を食い止めた。

883年、アルフレッド大王がロンドンを奪回して、ロチェスターを攻撃し、886年にグスルム王と休戦協定を締結。

ローマ道路だったウォトリング・ストリートを境界として、デーンロー地域とサクソン人地域が区画された。サクソン人自由民はデーン人解放民・半自由民と同格、サクソン人貴族はデーン人自由民と同格とされて、サクソン人はデーン人より一段下の社会身分に位置づけられた。

アルフレッド大王は、大陸から傭兵を用い、チェオルル自由農民から徴兵した。輪番制として防衛させ、20マイルごとに沿岸地域に防御施設を設置した。軍船を建造。ウェセックス、マーシアなどの区別なく、サクソン国家の防衛体制を確立して、イングランド防衛と統一という気運が高まった。中央は王廷を中心に執事官・膳部官・王室官・警安官などを設置し、王庫管理を中心に財政を運営し、地方行政組織として州制を布いた。メイズ共同体が解体され、国王が「領地権利証書(ブック)」を発行して領地(ブックランド)を保証した。「アルフレッド王法典」を編纂し、全サクソン社会に適用。アングロサクソン文学の奨励と教育の振興。大陸からラテン語教師を招聘。

フランス・ランスからグリムボールド

大陸ザクセンからジョン

ウェールズからアッサー

デーンロー地域は、アルフレッド大王の治外法権であり、西方のアイルランドや、北方ノルウェー人の侵入を呼ぶ拠点になった。

 

11 ウェセックス王国 サクソン人建国

サーディック王

495年、サザンプトンに上陸したが、ブリトン人を結集したアンブロシウス・アウレリアヌスを敬遠して、6世紀中ごろに、ウェセックス王国を建国した。

キンリック王(534~560)

ケアウリン王(560~591)

568年、ウィンブルドンの戦い。ケント王国エセルベルフト王の侵攻を撃退。

577年、ディーラムの戦い。ブリトン人を敗走させた。

7世紀、西南部ウィルトシア派と北東部ドーチェスター派の分裂抗争。

キネギルス王(611~643)

628年、サイレンシスターの戦い。マーシア王国ペンダ王に敗戦。フィッセ地方を割譲した。

635年、ビリヌスによりキリスト教洗礼を受け、ドーチェスター司教区を設置した。

ケンウァルフ王(643~672)

661年、マーシア王国ウルフヘレ王に敗れて、上テームズ地方がマーシア王国に併合された。

フランク人のドーチェスター司教アギルベルト、ドーチェスター司教区を廃止。ウィンチェスター司教区を設置して、サクソン人のウィネをウィンチェスター司教に就任した。

ケントウィネ王(676~685)

カドワラ王(685~688)

685年、サセックス王国エセルウァルフ王を撃破。ケントを圧迫して、進歩的だったケント文化を導入した。

イネ王(688~726)

マーシア王国ケオルケッド王の侵攻に耐えて抵抗した。722年、サセックス支配を確実にした。

「イネ王法典」を編纂。

キネウルフ王(757~786)

政敵キネヘアルドと抗争。

ペンシントンでマーシア王国オファ王の侵攻に耐えた。

ベオルフトリック王(786~802)

政敵エグベルトと抗争。オファ王の娘エアドブルフを娶って、ウェセックスの領土を安堵した。

エグバート王(802~839)

傀儡王ベオルフトリックが、オッファ王の妹エアドブルフ王妃によって毒殺。その後、カール大帝のもとに亡命。エグバートが交代でカール大帝の亡命先からウェセックス王国に帰還。814年、カール大帝死去。フランク王を後継したルイ1世が、全面的にエグバート王を支援した。815年、エグバート王がコーンウォールを攻撃して西イングランドに拠点を作った。しかし830年、フランク王国分割相続を巡り内乱になると、エグバート王への支援金が途絶えた。

823年、ガルフォードの戦い ブリトン人のドゥムノニア王国を撃破。

825年、エレンダンの戦い マーシア王国ベオルンウルフ王(823~826)を撃破。

エグバート王の息子エゼルウルフが、ケント王国ベアルドレッド王(823~825)を撃破。サリー王国、サセックス王国、エセックス王国が降伏。

826年、イーストアングリアに侵攻してきたマーシア王国ベオルンウルフ王(823~826)が敗死。

827年、イーストアングリアに侵攻してきたマーシア王国ルデッカ王(826~827)が敗死。

829年、エグバート王が、マーシア王国ウィグラフ王(827~840)を国外追放、マーシア王に即位。

829年、ドーアの戦い エグバート王は、ノーサンブリア王国エアンレッド王(808~840)を侵攻・掠奪。多額の貢納金で和平。

830年、エグバート王がウェールズ遠征。マーシア王国ウィグラフ王が復位。

836年、カーハンプトンの戦い。デーン人がコンウォール来襲し、エグバート王が大敗。

838年、ヒングストン・ダウンの戦い。デーン人がブリトン人と組んでコンウォール来襲し、エグバート王が大勝。

エゼルウルフ王(839~855)

851年 アクリアフの戦い。デーン人が来襲し、エゼルウルフ王と次男エゼルバルドが撃退。デーン人がケントのサネット島で越冬。

*デーン人の目的が、単なる略奪から、イングランドの地の占拠・定住に変わってきた。

853年、4男アルフレッドを連れて、西フランク王国シャルル2世禿頭王を訪問。

エゼルバルド王(855~860)

エゼルベルト王(860~866)

エゼルレッド王(866~871)

867年、骨なしのイーヴァル率いる大異教徒軍団がノーサンブリア王国ヨークを占領し、アエラ王を処刑、868年、マーシア王国バーグレッド王(852~874)が完敗で、ノッティンガム占領。バーグレッド王がウェセックス王に応援を求め、エゼルレッド王と副将アルフレッドが駆けつけるも敵はすでに退却。869年、骨なしのイーヴァルは、イーストアングリア王国エドモンド王を殺害し、征服。870年、骨なしのイーヴァルは、レディングを制圧し、ウェセックス侵攻の基地とした。

871年、レディングの戦い。ウェセックス軍敗北。

871年、アッシュダウンの戦い。ウェセックス軍大勝。

871年、ベイシングの戦い。ウェセックス軍敗北。

871年、マートンの戦い。ウェセックス軍敗北、エゼルレッド王敗死。

アルフレッド大王(871~899)

871年、ウィルトンの戦い。ウェセックス軍敗北。貢納金を払い、大異教徒軍団はロンドンへ移動。872年、マーシア王国に矛先を変えて、レプトン占領。マーシア王国バーグレッド王(852~874)を国外追放し、873年、マーシア全土を占領した。

ここで大異教徒軍団が二つに分裂。

1 首領ハールヴダン。ノーサンブリアに戻り定住。

2 首領グスルム。875年、再びウェセックスを侵攻。ウェアハムを占領したが、アルフレッド大王がエクセターに押し戻した。貢納金を払い、さらにマーシアのグロスターに押し戻した。デーン人は、マーシア東部の五市地方(リンカン、レスター、ノッティンガム、スタンフォード、ダービィ)で定住。878年、ウェセックスを電撃襲撃。チッペナムに居たアルフレッド大王は何とかアセルニー湿地帯に逃亡。

878年、エディントンの戦い。「盾の壁」密集歩兵を用いて、アルフレッド大王がデーン軍を撃破。チッペナムに籠ったグスルムを包囲して、ウェドモア条約を締結。グスルムはウェセックスから恒久的に撤兵し、アルフレッド大王の手でキリスト教の洗礼を受けた。

エドワード長兄王(899~924)

アルフレッド大王の兄の息子エゼルウォルドと後継者争い。エゼルウォルドがデーンロウ王国に亡命、エセックスやイーストアングリア勢力も味方につけた。

902年、ホルムの戦い

エドワード長兄王 負け vs デーンロー王国エオフリック王&エゼルウォルド 勝ったがエゼルウォルドは戦死した

909年、エドワード長兄王は、ウェセックス・マーシア連合軍を率いて、ヨールヴィーク王国を侵攻。

910年、テテンホール(テトノール)の戦い

ウェセックス王国エドワード長兄王 勝ち 

vs デーンロウ王国エオフリック王 負け

ハンバー川以南の地域を支配。

さらにヴァイキングの複数の王たちが敗死。

911年、マーシア王エゼルレッド死去。エドワード長兄王の姉・エゼルレッドの妻・エゼルフレド(マーシアの女主人)が後継。

917年、ウェセックス王エドワード長兄王とマーシア女王エゼルフレドが共闘して、イーストアングリア侵攻。エゼルフレド女王は、都市ダービーと都市レスターを陥落させた。ノルウェー系ヴァイキングのラグナルに侵攻圧迫されていたヨールヴィーク王国がエゼルフレド女王に降伏した。

918年、エゼルフレド女王急死。ヨールヴィーク王国受け入れはキャンセルされた。マーシア王は娘エルフウィン女王が後継したが、エドワード長兄王がこれを剝奪した。マーシアを完全に併合し、レスター、ノティンガムのデーン軍の出城を攻撃。

919年、コールブリッジの戦い。アイルランドを拠点にしていたノルウェー人レグノールド1世がスコットランドやノーサンブリアを襲撃し、ヨークを制圧。ヨーク王と自称。レグノールドの従姉妹シフトリックが、ダブリンから北西マーシアを襲撃。

エドワード長兄王は、北征してスコットランド王コンスタンティンとヨーク王レグノールドを臣従させた。

924年、エドワード長兄王死去。異母兄弟が後継を巡り対立。

 

*クリュニー修道院改革

910年、クリュニーでベネディクト派の修道院改革。イングランドにも修道院改革が波及した。

カンタベリー大司教 オダ

ウースター司教・ウィンチェスター司教・ヨーク大司教 オスワルド

 この二人は、修道院至上主義。

グランストンベリ修道院長・ロンドン司教・カンタベリー大司教 ダンスタン

 修道院至上主義に溺れず、世俗僧も重視し、教会と世俗界の接触、教区僧の説教や道徳指導を勧め、教区会議を規則正しく開催して、政界との接触、協調を重んじた。

 

アゼルスタン雷鳴王(924~939) Thunderbolt

マーシア王 アゼルスタン

vs ウェセックス王 エルフウェルド

エルフフェルドが示談のため移動中、オックスフォードで怪死。キングストンでアゼルスタンが戴冠。

926年、アゼルスタン王は、ヨールヴィーク王国シフトリック王と同盟。妹をシトリック王に嫁がせた。

 

12 イングランド王国

アゼルスタン雷鳴王(924~939) Thunderbolt

927年、ヨールヴィーク王国シフトリック王急死、オラーフ・シフトリックサン王即位。アイルランドのダブリンを支配していたヴァイキング従兄グースフリットを呼び寄せたが、アゼルスタン王がすでにヨークを制圧していた。ヨークとダブリンの親密な関係を断ち切ることができた。さらに北イングランド・ブリトン人の国、バンバラを中心として、ストラスクライド王国5人のブリトン小国の王たちを服従させた。さらにウェールズ諸王も服従させた。

927年、ヨールヴィーク王国を滅ぼし、「イングランド王」と称した。

妹をフランス公ユーグや、東フランク王オットー1世に嫁がせて親交。国王の諮問機関として、賢人会議の組織を充実させ、行政・裁判の中心とした。ロンドン近郊に平和維持のため十人組組織を設置。

934年、アルバ王国コンスタンティン王が対立したが、いったん降伏。

937年、ブルナンブルフの戦い

イングランド王国アゼルスタン王&王弟エドモンド 勝ち

vs アルバ王国コンスタンティン2世&ダブリン王国オーラフ・グースフリットサン王&ストラスクライド王国オワイン王 負け

ダブリン王国オーラフ王やアルバ王国コンスタンティン王やストラスクライドの王たちは帰国して独立を維持した。

 

エドモンド1世(939~946)

939年、ダブリン王国オーラフ・グースフリットサン王がイングランドに侵攻して、ヨールヴィーク王に即位した。デーンロー五市地区(リンカーン・ノティンガム・ダービー・レスター・スタンフォード)を占領、さらにオーラフ王は東部マーシアまで制圧した。

941年、オーラフ・グースフリットサン王死去。オーラフ・シフトリックサンがヨールヴィーク王に即位。

942年、エドモンド1世が、東部マーシアを奪還。

943年、オラーフ・グースフリットサンの弟・レグノールド2世がヨールヴィーク王に即位。

944年、エドモンド1世が、ヨールヴィークを征服。

946年、エドモンド1世が、パックルチャーチで刺殺された。

エアドレッド王(946~955)

エドモンドの弟エアドレッドが即位。

947年、ノーサンブリアの北欧人が反乱。

952年、ヨーク市民に推されたノルウェー人エイリーク血斧王がヨールヴィーク王に即位。エアドレッド王の報復がすごく、ヨーク市民がエイリーク血斧王を国外追放した。オーラフ・シフトリックサンが即位して、しばらくしてエイリーク血斧王が復位。

954年、エイリーク血斧王が国外追放された。ヨークはイングランドの支配下に帰属し、ヨールヴィーク王国滅亡。イングランド王国が最終統一された。オスウルフ伯がノーサンブリアを支配した。

エドウィ(955~959)

グランストンベリ修道院長ダンスタンに私生活を非難され、エドウィ王がフランドルのガン(ヘント)へ国外追放した。

エドガー平和王(959~975)

ダンスタンを呼び戻して、960年、ダンスタンをカンタベリー大司教とした。マーシア伯エルフヘレ、エセックス伯ビルフトノース、イーストアングリア伯エセルウォルド、パンプシア伯エルフヘアがエドガー王に臣従。

シャイア・リーヴ制(州長官制)、ハンドレッド制(郡制)を確立した。

972~973年、神聖ローマ帝国オットー大帝にエスクウィグとウルフマールを使節派遣。

973年、エドガー王とエルフスリス王妃がバースで聖別された。

エドワード殉教王(975~978)

気性が激しく貴族の反感を買った。エドガー王第二夫人エルフスリースが実子エゼルレッドを王位につけるため、エドワード王を暗殺。

 

*ノルウェー人ロロがパリ周辺を掠奪。西フランク王シャルル3世単純王(893~923)は、911年、サン・クレール・シュール・エプト条約にて、ロロにノルマンディを封土として与え、掠奪しないようになだめた。

エゼルレッド2世無策王(978~1013/1014~1016)

ノルマンディ公国の港が、デーン人イングランド襲撃のための補給港になっていた。

980年、デーン軍がサザンプトン、サネット、チェシャー来襲。

981年、デーン軍がデボン、コンウォール来襲。

982年、デーン軍がドーセット来襲。

988年、デボン従士(セイン)ゴーダがデーン軍によって戦死。

991年、モルドンの戦い

エセックス伯(エアルドルマン/エアルル)ビルフトノース 負け

vs デーン軍・ノルウェー王オラーフ・トリッグヴァサン(995~1000) 勝ち

991年、エゼルレッド2世無策王は、ノルマンディ公リシャール1世豪胆公(942~996)に対し、デーン人の寄港を許可しないように要請した。ローマ教皇ヨハネス15世(985~996)が、両国の調停に乗り出し、ルーアン協定が締結された。

994年、デンマーク王子スヴェンとノルウェー王オラーフ・トリッグヴァサンが来襲。マーシアの反抗貴族たちが、スウェインをイングランド王に迎えようとした。デーンゲルドを徴収して、スヴェンとオラーフに支払って帰国してもらった。

1002年、エゼルレッド2世無策王と、ノルマンディ公リシャール2世善良公の妹エマが政略結婚。

1002年、聖プライスの日の虐殺。イングランドに住むすべてのデーン人を殺すように命じた。デンマーク王スヴェン1世(986~1014)の妹グンヒルドが処刑された。

1004年、デンマーク王スヴェン1世が来襲。イーストアングリア伯(エアルドルマン)ウルフケテルがこれを撃退。

1006年、スヴェン1世が来襲。デーンゲルド(貢納金)を受け取ると帰還。

1009年、対デーン大艦隊をサンドウィッチ港に待機させた。

サセックス従士ウルフノースと、マーシア伯エアドリックが対立。エアドリックがウルフノースを裁判に訴えると、ウルフノースは艦隊を率いて逃亡。追撃したエアドリック率いる艦隊が座礁し、ウルフノースが火をかけ焼き尽くした。

1009~1012年、スヴェン1世が来襲。傭兵のヴァイキングをジョムズヴァイキングと称する。ジョムズヴァイキングの首領ソーケルとヘミングがデーン軍を率いていた。1010年、リングメレの戦いで、デーン軍がウルフケテルを破るも、ロンドン占拠に失敗し、ケントを掠奪した。カンタベリー大司教エルフヘアを人質に獲ったが、拒否・処刑。エルフヘアに感じ入ったソーケルが、イングランド側に寝返った。

1013年、スヴェン1世が来襲、ロンドンを陥落させ、イングランド国王に即位。エゼルレッド2世無策王はノルマンディ公国に亡命。

1014年、スヴェン1世急死。エゼルレッド2世が復位。スヴェン1世の次男クヌートを逃がすため、ヘミング戦死。ソーケルが再び、デーン側に寝返った。

 

クヌート大王(1016~1035)

1016年、スヴェン1世の長男ハーラルはデンマーク王ハーラル2世に即位。次男クヌートがイングランドに来襲。

クヌート大王(1016~1035)&マーシア伯エアドリック&ソーケル

vs エドモンド2世剛勇王(1016)&エセックス伯ビルフトノース&イーストアングリア伯ウルフケテル

1016年、ブレントフォードの戦い。エドモンド2世が勝利。

1016年、オトフォードの戦い。クヌート大王が勝利。

1016年、アシンドンの戦い。イングランド側に寝返ったマーシア伯エアドリックが敵前逃亡。クヌート大王が勝利。休戦協定で、負けたエドモンド2世をウェセックス王に据えたが、病死。クヌート大王がイングランド国王に即位。エドモンド2世剛勇王の息子たちエドワードとエドモンドを殺してくれるよう、スウェーデン王オローフ・シェートコヌングに引き渡したが、クヌートの手が届かないハンガリー王イシュトバーン1世が厚く庇護した。エゼルレッド2世無策王の息子エアドウィックを殺害した。エゼルレッド2世無策王の息子エドワードとアルフレッドは、ノルマンディ公の庇護下で健在で、気がかりだった。

1017年、ノルマンディーよりエゼルレッド2世未亡人エマと政略結婚。エゼルレッド2世遺児エドワードとアルフレッドを牽制した。

1018年、デーン人家中騎士団を設置して身辺を護衛させた。苛酷なヘレゲルド軍税を徴収して、デーン人を要職に就けた。

*クヌート大王は4伯領を設置。

ウェセックス伯 クヌート直轄

マーシア伯 エアドリック・ストレオナ

イーストアングリア伯 ソーケル長身者

ノーサンブリア伯 ノルウェーのエリック

*ウルフノース⇒ゴドウィン⇒ハロルド 3代にわたる大出世街道

ウルフノース サセックス従士(~1014)

ゴドウィン ウェセックス東部伯(1018~1020)

      ウェセックス伯(1020~1053)

ハロルド イーストアングリア伯(1052~1053)

     ウェセックス伯(1053~1066)

     イングランド王ハロルド2世(1066.1.5~10.14)

1018年、デンマーク王ハーラル2世死去。クヌート大王がデンマーク王を兼任。

*北海帝国の争い ノルウェー王がスウェーデン王と組んで、デンマーク王を引きずり下ろしたい

デンマーク王 クヌート1世(大王) 1018~1035

ノルウェー王 オラーフ2世(オラーフ・ハロルドサン) 1015~1028

スウェーデン王 アヌンド・ヤコブ 1022~1050

1026年、デンマークのウルフ、エイラフが、ノルウェー王オラーフにホーリー川で反乱。

1027年、クヌート大王がローマ巡礼。

1028年、イングランド・デンマーク連合艦隊が、ノルウェー・スウェーデン連合艦隊を撃破。ノルウェー王オラーフ2世を国外追放した。クヌート大王がノルウェー王も兼任した。

1029年、クヌート大王が艦隊を率いてイングランド凱旋。

1030年、ノルウェーに帰国したオラーフ2世を、ノルウェー農民たちが殺害。

1035年、ノルウェーで、クヌート大王庶子スウェインの圧政にノルウェー農民が反乱。前王オラーフ・ハロルドサンの子・マグヌスが即位。

ハロルド1世庶子王(1035~1040)

レオフリック伯に支持されてイングランド王に即位。ウェセックス伯ゴドウィンが側近として台頭した。

1036年、ウェセックス伯ゴドウィンが、エゼルレッド2世の遺児アルフレッドを殺害。

ハルタクヌート(1040~1042)

クヌート大王の子・ハルタクヌートはデンマーク王だった。ノルウェー王マグヌスと対立して、ハルタクヌートは、イングランドに渡航できなかった。

デンマーク王ハルタクヌート(1035~1042)は、ノルウェー王マグヌス1世(1035~1047)と休戦条約をむずび、次期デンマーク王後継を約束して、1040年、念願のイングランド王に即位した。しかし、ノルウェー王国ハーラル3世苛烈王(1046~1066)は、北海帝国拡大を目指しており、さらにイングランド王位後継を主張。ウェセックス伯ゴドウィン家が引き続き側近として台頭し、エドワード聖証王に娘イーディスを嫁がせた。

1042年、ハルタクヌート王死去。後継者なし。4人の後継者候補がいた。

1 デンマーク王スウェイン・エストリットサン(ハルタクヌート王の従兄弟)

2 ノルウェー王マグヌス1世

3 エドワード亡命者(エゼルレッド2世の孫・エドモンド2世剛勇王の子)

 ハンガリー王廷に亡命していた。

4 エドワード(エゼルレッド2世とエマとのあいだの子)

 

エドワード懺悔王(1042~1066)

ノルマンディー生活が長く、イングランドになじみが薄かった。修道士風の禁欲主義者。ノルマン的政策を展開した。ノルウェー王マグヌス1世の脅威にさらされていた。ウェセックス伯ゴドウィンを嫌っていたが、長子スウェインがセヴァーン地方伯、次子ハロルドがイーストアングリア伯に就任していた。

1044年、ノルマン人ロベール・ド・ジュミエージュをロンドン司教に起用。

1049年、ノルマン人ウルフをドーチェスター司教に起用。

1049年、ドイツ皇帝ハインリヒ3世と同盟し、イングランド侵略を狙うフランドル伯ボールドウィンを征討。

1051年、カンタベリー大司教エアドシゲ死去、ロベール・ド・ジュミエージュをカンタベリー大司教に登用。ノルマン人ウィリアムをロンドン司教に起用。ロベール・ド・ジュミエージュ大司教をローマ旅行させ、ノルマンディー公ウィリアムにイングランド王位の後継約束を伝えさせた。

1051年、ドーヴァー市民とエドワード懺悔王の義弟ブローニュ伯ユースタスの部下と衝突。ウェセックス伯ゴドウィンは鎮圧に反対したため、レオフリック伯とシウォード伯が王を支持して鎮圧。ゴドウィンの長子スウェインが殺害され、一家離散の憂き目にあった。

1051年、ケント海岸に五港市(サンクポート)を設置して海辺を護衛。サンウィッチ、ドーヴァー、ロムニー、ハイス、ヘイスティングス。ペヴンジー、フォーウィッチを五港市に準ずる港市とした。

1052年、サクソン的国民感情に乗じて、亡命先のフランドルからゴドウィン復活。カンタベリー大司教ロベールを追放して、ゴドウィン派のサクソン人スティガンドを起用した。

1053年、ゴドウィン死去。次子ハロルドがウェセックス伯に就任。

1055年、三男トスティグがノーサンブリア伯に就任。

1055年、ヘレフォードの戦い

エドワード懺悔王 負け

vs ウェールズ王国グリフィズ・アプ・ルウェリン&マーシア伯エルフガル 勝ち

ハロルド2世(1066)

1062~1063年、ウェールズ制圧戦

ウェセックス伯ハロルド&ノーサンブリア伯トスティグ 勝ち

vs ウェールズ王国グリフィズ・アプ・ルウェリン 敗死

1064年、エドワード懺悔王の命で、ノルマンディ公ウィリアムを訪問。イングランド王位継承の約束を改めて告げさせられる予定だったが、船がサン・ヴァレリーに難破漂着。ポンティウ伯ギーに捕縛され、ノルマンディ公ウィリアムの圧力でハロルドは解放された。ウィリアムはハロルドを騎士として叙任し、臣下の礼を誓わせた。

1065年、ヨーク市民の反乱。ヨーク市民は、トスティグの圧政を嫌い、マーシア伯エドウィンの弟モーカーをノーサンブリア伯に指名。エドウィンとモーカーとウェールズ軍がノーサンブリア市民を支持。エドワード懺悔王の命で調停に向ったハロルドは、マーシア伯レオフリック家との抗争を嫌い、弟トスティグを裏切り、イングランドからフランドルへ追放とした。トスティグは復讐のためノルマンディ公ウィリアムに同盟を持ちかけたが却下された。ノルウェー王ハーラル3世(ハーラル・ハルドラーダ)にイングランド侵攻を要請。

1066年、エドワード懺悔王死去。ウィタン国王継承会議でウェセックス伯ハロルドがハロルド2世に即位。

ノルマンディ公ウィリアムが、天候不順でサン・ヴァレリーに漂着。

1066年、ゲイト・ファルフォードの戦い

マーシア伯エドウィン&ノーサンブリア伯モーカー 負け

vs ノルウェー王ハーラル3世&フランドル伯トスティグ 勝ち

1066年、スタンフォード・ブリッジの戦い

イングランド王ハロルド2世 勝ち

vs ノルウェー王ハーラル3世&フランドル伯トスティグ ともに敗死

ノルマンディ公ウィリアムが、イングランド軍不在のペヴンジー上陸、ヘイスティングスに布陣した。

1066年、ヘイスティングスの戦い

イングランド王ハロルド2世 負け

vs ノルマンディ公ウィリアム 勝ち

ハロルド2世はロンドンで徴兵したが、弓兵はヨークからの帰還間に合わず。デーン式戦斧と、アングロサクソン式の盾の壁戦法を採用し、密集重装歩兵で攻めた。騎兵は用いないのが当時のアングロサクソン式だった。

ウィリアムは弓兵・歩兵・騎兵の混成部隊。左翼がブルターニュ兵、中央がノルマンディ兵、右翼がフランドル兵。吟遊詩人タイファが切り込み隊長として戦闘開始。イングランド密集重装歩兵はノルマンの弓攻撃に耐え健在。ノルマンディ歩兵が疲労で脱落したため、予定より早く騎兵突撃。盾の壁戦法が効いて左翼のブルターニュ騎兵が敗走。その追撃のため、イングランド歩兵は盾の壁を解消して坂を下ったところを騎兵で包囲して、ゆっくりイングランド歩兵を全滅させた。ハロルドの補給・援軍を嫌い、ウィリアムは短期決戦に臨んだ。イングランド兵の槍、斧、石に体当たりで弓兵を前進して総攻撃。ハロルドの右目に矢が貫く。剣で応戦するもハロルド戦死。

エドガーを擁するマーシア伯エドウィン、ノーサンブリア伯モーカー、ヨーク大司教エアルドレッドがロンドン籠城をやめて降伏。ウィリアム征服王は、ウェストミンスターで戴冠式を挙げた。ロンドン塔を建設して、ロンドンの警備・支配の拠点とした。イングランドの支配を、ウィリアム・フィッツ・オズバーンとオド・オヴ・バイユーに任せて、1067年、ルーアンに凱旋して祝典を挙げた。

 

*教会改革と教皇分裂

レオ9世の御贔屓取り立てで、イルデブランド(のちのグレゴリウス7世)が活躍。

教皇レオ9世(1049~1054) 神聖ローマ皇帝コンラート2世の縁者、ハインリヒ3世の支持

教皇ウィクトル2世(1055~1057) ハインリヒ3世の支持

教皇ステファヌス9世(1057~1058) ハインリヒ4世と対立、親ノルマン人

対立教皇ベネディクトゥス10世(1058~1059) 

教皇ニコラウス2世(1059~1061) 親ノルマン人

教皇アレクサンデル2世(1061~1073) 親ノルマン人、ノルマンディー公ウィリアムを支持

対立教皇ホノリウス2世(1061~1064) ハインリヒ4世摂政アグネスが支持

教皇グレゴリウス7世(1073~1085) 1077年、カノッサの屈辱。カノッサ城でマティルデと同衾。

教皇ウィクトル3世(1086~1087) トスカーナ公妃マティルデに引き籠りを説得された。

教皇ウルバヌス2世(1088~1099) ハインリヒ4世と対立。1095年、クレルモン公会議

対立教皇クレメンス3世(1080/1084~1100) ハインリヒ4世の支持

 

*グレゴリウス改革

1 叙任権闘争(叙任権を王権から奪取)

2 聖職売買と聖職者の妻帯禁止

教皇グレゴリウス7世(1073~1085)

グレゴリウス7世以前、国王の神政政治が強く、教会が国王の政治に利用されていた。国王が自由に司教を任命し、国王諮問機関だった賢人会議に司教が参加していた。賢人会議で世俗法と教会法が制定された。

ゴドウィンが反ノルマン的、サクソン的な国民感情をバックに、ノルマン人ロベール大司教を追放して、無許可でゴドウィン派スティガンドを大司教に任命したことに、グレゴリウス7世が大激怒。ローマ教会法で、大司教存命中に大司教が交代することを禁じていた。

ローマで、グレゴリウス7世が教皇至上主義を掲げていた矢先の、この交代劇をきっかけとなり、イングランド教会がローマ教会から孤立している状態が問題視された。

 

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ウィリアム1世征服王・庶子王(1035~1087)

ウィリアム2世赤顔王(1087~1100)

1087年、ノルマンディー公ロベール2世の手引きで、ケント伯オド(バイユー司教)の反乱。

1089年、ノルマンディー遠征。

1091年、ノルマンディー遠征。

1094年、末弟ヘンリーも西ノルマンディー侵攻。

1095年、ノーサンバーランド伯ロバート・ド・モーブレイの反乱。鎮圧後処刑。

1096年、ノルマンディー公ロベール2世が十字軍遠征のため、ウィリアム2世にノルマンディーを委託。

1100年、狩猟中にヘンリーの命で殺害。

ヘンリー1世碩学王(1100~1135)

1100年、ウィリアム2世の相談役だった最高司法官ラナルフ・フランバードをロンドン塔に幽閉。亡命していた大司教アンセルムによって戴冠。

1101年、十字軍から帰還したノルマンディー公ロベール2世が、ラナルフ・フランバードと共謀してイングランド上陸。アルトンの講和で停戦。

1105年、ヘンリー1世が西ノルマンディー、メイン、ブルターニュの貴族を買収。

1106年、タンシブレーの戦い。

イングランド王ヘンリー1世 勝ち

vs ノルマンディー公ロベール2世 負けて投獄・獄死

ノルマンディー公国を併合した。フランス王ルイ6世(1108~1137)は、ロベール2世の子クリトーをノルマンディー公に据えようと企んでいた。

1110年、フランドル伯に貨幣知行を賦与して味方に入れた。

1113年、アンジュー伯フルク5世を買収して、王子ウィリアムとフルクの娘マティルダを婚約させた。

1118年、フランス王ルイ6世、フランドル伯ボールドウィン7世、アンジュー伯フルク5世がノルマンディー侵攻。フランドル伯ボールドウィンが戦死。

1119年、アンジュー伯と和平。

1120年、ウィリアム王子がドーヴァー海峡で遭難事故死。アンジュー伯フルク5世が、クリトーと同盟。

1124年、ヘンリー1世がドイツ皇帝ハインリヒ5世に擦り寄り、フランスを攻撃させた。クリトーの政略結婚を近親婚として無効にした。

1125年、ハインリヒ5世が急死。娘マティルダがイングランドに帰国。

1127年、フランドルの政変を契機に、フランス王ルイ6世が、クリトーをフランドル伯に就けた。娘マティルダをアンジュー伯フルク5世の子ジェフリーに嫁がせた。

1128年、フランドル内戦でクリトーが戦死。

イングランドにはブロア伯家の貴族が多かったが、ヘンリー1世の政略結婚策で、アンジュー伯家を呼び込む結果となった。

アンジュー伯家の嫁いだマティルダの子ヘンリー(のちのヘンリー2世)とブロア伯家を代表する甥スティーブンが対立した。

ウェールズの反乱がおこり、アンジュー伯ジェフリーがノルマンディー侵攻した。

 

 

 

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13 ノルマンディ公国

リシャール2世善良公(999~1026)

キリスト教化。ノルマンディーでは教会よりも修道院活動が盛んだった。ブルゴーニュのクリュニー修道院の影響が顕著で、フェキャン、ジュミエージュ、サン・ワンドリーユ、モン・サン・ミシェル、ルーアン、ベックに6つの修道院があった。

ロベール1世華麗公(1027~1035)

なめし皮職人の美人娘アルレットが井戸汲みしていたところを、城の上から見染めて求婚、ウィリアム2世を産んだ。

ウィリアム2世征服王・庶子王(1035~1087)

1047年、ヴァル・エイ・デューンの戦いで貴族の反乱に会い苦戦。フランドル伯ボールドウィン5世の娘マティルダと結婚しようとしたが、ローマ教会がこれを近親婚として許可しなかった。フランス王アンリ1世はノルマンディーとフランドルの結託を嫌った。

1054年、モントメールの戦い

1057年、ヴァラヴィーユの戦い

フランス王アンリ1世を撃破。

1059年、ベック修道院長ランフランクをローマ教皇ニコラウス2世のもとに派遣。ウィリアム2世がカーンに2つの修道院を建てるという条件で、マティルダとの結婚が承認された。

ウィリアム腹心のカーン修道院長ランフランク(1000~1089)をローマ教皇アレクサンデル2世(1061~1073)のもとに派遣。何度も破門を受け続けていたカンタベリー大司教スティガンド(1052~1070)罷免によってイングランド教会を浄化できると進言して、ヘイスティングスの戦いの大義名分をウィリアムは手にすることができた。ランフランクは、1067年、ルーアン大司教に推されたが断り、カンタベリー大司教(1070~1089)に就任した。

1066年、ヘイスティングスの戦いで、イングランド王ハロルド2世を敗死・撃破。イングランド王(1066~1087)に即位。カンタベリー大司教スティガンドは降伏。

1067年、ヘリフォードシアでエドリック蛮勇者が反乱。

1067年、ケントでブーローニュ伯ユースタスが反乱。

1068年、ウィリアム征服王がエクセター攻略。

1068年、ハロルド2世の後継者エドガー(弟)とマーガレット(姉)がスコットランドへ亡命。

1068~1071年、ヨークの大反乱。マーシア伯エドウィン、ノーサンブリア伯モーカーがスコットランド王マルカム3世(1058~1093)を擁立。ウィリアムはヨークを焼き尽くし、塩をまいて農業をできなくさせた。

1069年、デンマーク王スウェイン・エストリットサンがケント・東南イングランドに来襲。ウィリアム敗北。

1069年、スコットランド王マルカム3世が、エドガーを担ぎ出して北イングランドにエドガーの王国を建国。西南イングランドも反乱。ウィリアムはデンマーク海軍に金銭を渡して帰国させ、マーシア、ノーサンブリアを徹底的に征服した。

1070年、デンマーク王スウェインが来襲。イーストアングリアでヘリフォードが反乱。ウィリアムがともに鎮圧し、イングランドはいったんおさまった。

 

*シュレスヴィヒ公国(1058~1866)

デンマーク王クヌート4世の弟オラーフ1世がシュレスヴィヒ伯爵に就任。以後、プロイセンに滅ぼされるまで存続した。

 

1069年、メインのル・マン市民が反乱し、ジェフリー・オヴ・メイエンヌが独立。

1070年、フランドルで、ロベール・ル・フリソンが反乱して、フランドル伯に就任。

1072年、スコットランドに遠征して、マルカム3世を臣従させた。アンジュー伯フルクは、ジェフリー・オヴ・メイエンヌを裏切ってメインを併合。ウィリアムはメインを再び奪回。

フランス王フィリップ1世が、フランドル伯ロベールとアンジュー伯フルクと同盟、ウィリアムに対抗した。

1075年、ノーフォーク伯ラルフ・ド・ゲイルが反乱。ダラム司教ヴァルカーをノーサンブリア伯に任じて防衛を任せた。

1076年、フランス王とアンジュー伯の支援を受けたラルフ・ド・ゲイルが籠城しているドル城攻略に失敗。

1076年、フランス王フィリップ1世がヴェクサン侵攻。

1077年、アンジュー伯フルクがメイン侵攻。長子ロベールが、ノルマンディー、メインの独立行政権を要求して、フランス王、アンジュー伯、フランドル伯、ノルマンディー貴族の支持を受けて反乱。

1079年、ジェルブロアの戦い。ウィリアムが、ロベールに敗れてルーアンに逃亡。

1080年、スコットランド王マルカム3世が北イングランドに侵攻。アンジュー伯フルクがブランカランダ侵攻。

1082年、バイユー司教オド(ウィリアムの義兄弟)が国王の騎士軍を動かすという暴挙により、ウィリアムと対立。

1083年、長子ロベールが反乱。

1085年、デンマーク王クヌート4世(1080~1086)が、ノルウェー王オラーフ3世(1067~1093)、フランドル伯ロベール1世(1071~1093)と連合して、イングランド侵攻のために、リムフィヨルドに艦隊を集結させた。デンマーク不在中に、シュレスヴィヒ公国が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(1084~1105)に侵攻されることを恐れて、イングランド侵攻を中止した。クヌート4世は、ハインリヒ4世の政敵を匿ったことがあった。

1085年、イングランド初の土地台帳「ドームズデイ・ブック」を編纂。ヘイスティングスの戦勝記念で書かれた「バイユーのタペストリー」がモニュメント的存在として世界で有名。

1086年、イングランド全貴族から「ソールズベリの宣誓」を受けた。

1087年、フランス王フィリップ1世が、東ノルマンディーに侵攻。戦傷がもとでウィリアムがルーアンにて死去。

長子ロベール ノルマンディー公国

三男ウィリアム イングランド王位

末子ヘンリー 王庫5000ポンド

ロベール2世短袴公(1087~1106)

ウィリアムの長男だったが、父との仲が悪く、次男ウィリアムがイングランド王位を継承し、ウィリアム2世赤顔王(1087~1100)となった。

1096年、十字軍遠征。

1100年、ウィリアム2世急死で、四男ヘンリーがイングランド王位を継承し、ヘンリー1世碩学王(1100~1135)となった。

1106年、タンシェブレーの戦い。ヘンリー軍に負けて、幽閉。1134年、毒殺。

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2026年8月11日 (火)

ソフトバンクホークス2026 M32

モイネロ、おかえりなさいませ。とても助かります。ロッテに16-2で圧勝。

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2026年8月 9日 (日)

ソフトバンクホークス2026 M33

前田悠伍選手、ナイスピッチング。7月8日、京セラ1塁席(OR)で関目君と観戦したオリックス戦では、宗と紅林の逆転打で勝ちを逃しましたが、開幕10連勝おめでとうございます。優勝を控えた9月16日、京セラ3塁席(SB)で、井高野君とオリックス戦を観戦しますので、ストライクゾーンにバンバン投げ込んで三振を取る前田選手の活躍が楽しみ。

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2026年7月29日 (水)

た藁やで関目君と飲み会1

関目君が来訪、オープン間もない居酒屋で飲んだ。カツオのたたきがとてもおいしかった。白河りりちゃんトップレースを談義していて、競馬と同じだと判明した。関目君は、単勝と複勝を買い、1番推しの馬をゴールまで目で追っかける方式。わたしは、武豊を含む枠連を買い、1番推しの馬を追っかけ、3コーナー辺りで負けそうなら2番推しの馬を追っかける方式。わたしが今まで勝ったのは、詩ちづるちゃんだけ。さて我々が推す軸馬が勝てるかどうか。10月か11月には合格発表されるはず。その前に9月の芸文で、おだりりプレプレお披露目紅一点公演をゲットしなければならないが、ことごとく先行抽選が落選しており、今月末、井高野君の先着順チケットゲットの健闘にかかっている。

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2026年7月24日 (金)

宝塚歌劇雪組「ポーの一族」の別バージョンキャスト

ポーの別バージョンキャストを専科さんなしで妄想してみた。

エドガー 朝美絢

メリーベル 音彩唯

フランク 瀬央ゆりあ

シーラ 白綺華

アラン 華世京

マーゴット 麻花すわん

クリフォード 縣千

ジェイン 華純沙那

ディリー 星沢ありさ

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2026年7月21日 (火)

帝政ローマのガリア統治

帝政ローマ期、ヨーロッパ中央に住む鉄器文明人、ケルト民族が不意打ちでローマ帝国領内に侵入していた。とくに黒海やカスピ海周辺で五賢帝あたりまで続く。トイトブルク森の敗戦で、ドイツ・ゲルマン民族の国境警備は困難を極めた。ゲルマンとケルトを同時に撃退はできない。そこでフランス方面のガリアに住むケルト民族をまずは制圧にかかる。

人身供犠(じんしんくぎ)を風習とした野蛮なケルト民族支配層をドルイドと呼んだ。アウグスティヌス帝、ティベリウス帝、クラウディウス帝の三代はドルイドを徹底的に弾圧。初期キリスト教は律法を遵守する生活共同体=ユダヤ教ナザレ派とみなされ、当初、捨て置かれていた。ユダヤ人ナザレ派は律法を守っても、ギリシア人ナザレ派は律法なんて守らない。なにそれおいしいの?イエスあるのみ。ローマの神々に供物をささげるだけで許された。仲間内から、「棄教者」と蔑まれたが。ユダヤ人がケルト民族なきあと、ガリア方面に入り込んできた。

シリア商人が、シリアの高度に発達した工業をバックに、絹・羊毛・リネンといった高級繊維品、靴など皮革製品、ガラス製品・模造宝石をローマにもたらした。その活動範囲はローマまでで、ローマからガリアにはガリア商人がもたらした。

ところが、3世紀以来、次第に下降線をたどりつつあったガリアの経済生活は困難を極め、匪賊が横行し、工業は消滅し、商業活動が見られなくなった。都市は荒廃衰微し、都市生活から田園生活へもどり、自給自足経済に退歩した。4世紀後半のゲルマン民族侵入を最底辺とし、5世紀になるとシリア商人やユダヤ商人がガリアになだれ込んだ。東ローマ帝国が厳重な統制経済と重税を課したため、有利な市場でなくなったこともあり、西のゲルマン民族が打ち立てた諸国家で、自由な商業活動を展開できた。ゲルマン王にとって、シリア商人やユダヤ商人は必須の金融機関であり、経済政策の顧問だった。

フランク王国の大都市にシリア商人の大きな居留地が出現。ゲルマン民族がオリーブ樹木を切り倒し、ブドウ畑を荒らしたため、ガリアの名産だったぶどう酒とオリーブ油が衰退し、シリア産、とくにガザ・サレプタ・アスカロンのぶどう酒が珍重・輸入された。ぜいたく品だった絹織物も普及し、清貧を説く聖ヒエロニムスを嘆かせた。さらにシリア商人は、シリア方面で死んだ聖人たちの聖遺物をたくさん販売した。聖人や殉教者に乏しいガリアのフランク人は、シリア方面の聖人の遺骨や聖遺物を珍重し、多額の資金を注ぎ込んで購入し、聖遺物を得た聖人に聖堂を建設して崇め奉った。

7世紀、ササン朝ペルシアが東ローマ帝国領シリアを征服、荒廃させたため、シリア人やギリシア人が大量にフランク王国に亡命。ギリシア語や一般教養が非常に深かったため、ギリシア人の教皇や、シリア人の教皇が輩出されるまでに至った。多くのギリシア人やシリア人が、ガリア・フランク王国の修道院長や司教に就任していった。こうしてカロリング・ルネサンスに大きく寄与した。

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2026年7月19日 (日)

宝塚歌劇雪組「ポーの一族」(2回目)をみて

10時半ころ出発、近畿自動車道、中国自動車道を走って、娘家族と宝塚ワシントンホテル集合。娘婿さんと定番ジェラートを食べてから観劇しました。座席は1階下手やや後方の良席でした。今日は、ぴあプレミアム会員限定ではじめて宝塚歌劇公演を開催した日だそうで、ぴあ関係者の挨拶が続き、お祝いムードでした。幕間は、1階立ち飲みコーナーで定番のアイスコーヒーブレイク。

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フィナーレで、あーさと多くの娘役のデュエットダンスのシーン。華純沙那ちゃんは、「ジュテーム!」と叫んでました。娘婿さんは、朝美絢くんと華純沙那ちゃんのファンになってくれました。ただいま王道を歩んでます。ほんとうに雪組は今、最盛期を迎えています。

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2026年7月18日 (土)

宝塚歌劇雪組「ポーの一族」(1回目)をみて

午前診を終え、近畿自動車道、中国自動車道を走って、嫁と宝塚大劇場に行ってきた。座席は1階やや後方上手側。キャトルレーヴで、華純沙那ちゃん、音彩唯ちゃん、妃華ゆきのちゃん、星沢ありさちゃんの四つ切ブロマイド、詩ちづるちゃんの花男写真7枚、あーさハバマイのプログラムを購入。

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美人だらけ雪組女優陣の層の厚さは、筆舌に尽くしがたい。上は妃華ゆきのちゃんから、スッチーの桜菜みのりちゃんまで。トップレベルのベルばら新人公演主演コンビが語り部・進行役につく豪華キャスト。

星沢ありさちゃんは、ちやほや令嬢の役から、いじわる許嫁の役に芸の幅を広げた。

みんな、役作りと歌唱と舞踊と化粧術の基礎力がしっかりできている。轟悠の向こうを張った定評ある星組専科の歌うまさん、せおっちとほのかがしっかり芝居を固めている。

女の汚い部分を余すところなく描く萩尾望都の作品。花組より雪組バージョンは、ずっと歌がうまいし、ダンスも上手かった。これを見ずして宝塚を語るなと言いたくなるような最高の出来だった。

フィナーレで、朝美絢(あーさ)が美しい娘役に囲まれて、美しく踊る。なんじゃらほい、鼻血ブーもんやね。あーさの群舞もカッコよかった。なにより、音彩唯ちゃんのタンゴデュエットダンスの立ち姿からして美しい。ひっとん(舞空瞳)並みのキレキレ。

銀橋でのご挨拶のあと、客席に顔を向けて笑みをふりまいて歩くハバマイの自信あふれる姿がとっても美しかった。

嫁の感想、あーさのプロローグで薔薇をもって腰をひねるポーズは原作そのもの、男には表現できないと絶賛だった。

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2026年7月14日 (火)

いま流行っている病気

1 新型コロナウィルス感染症

2 ヘルパンギーナ

3 手足口病

4 ヒトメタニューモウィルス感染症

6月は小中高生中心に、7月は乳幼児中心に、コロナ感染症が増えてきました。

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2026年7月12日 (日)

松竹映画「ここは静かなり」(1956)をみて

昭和24年(1949)、旧制中学校と旧制高等女学校が合併して、男女共学の新制高校が発足した。この映画は、男女高校生が、結婚、妊娠,飲酒を起こし、PTAと新進気鋭の教師が戦うという構図。主演は、タカラジェンヌの有馬稲子さん。はじめて映画を見た。「シャー」「シャン」はドイツ語schön(シェーン)=美人。  適齢期の女性教師にまとわりつく男性教師や歯科医師。ムツゴロウがいたと思われる新制東大の本郷正門や、東京藝大の校舎が銀幕に映りこんでいた。反戦・左翼・ソ連のロシア民謡ブームも反映していて、このあと安保反対、学園紛争を迎えることになる。神戸の楠ケ丘高校が舞台ということで調べたら、神戸市立須磨高校(旧第二高等女学校)の前身。コーラス部は都立八潮高校が担当。都立日比谷、戸山、小石川、新宿、両国、西高校の全盛期だったね。

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